42:いざ王都へ②
驚くクリスティンを連れ歩く、ウィーラーがあるパン屋の前で足を止めた。
店内を覗くと、客が数人おり、忙しそうだ。
「挨拶はあとだな」
ウィーラーは店の横にある、大人一人歩くのがやっとという幅しかない小道にするりと入り込んだ。
(なんで、こんな小道に?)
訝りながらも、クリスティンは追いかけた。
小道を抜けると、数軒の建物に囲まれた筒状の空間に出た。ポンプ式の井戸を囲む建物には、それぞれ外階段がついている。
見上げると建物の屋根に囲まれた狭苦しい空の穴が見えた。
(これじゃあ、太陽が真上に来た時にしか日が射さなそう)
「こっちだ、クリスティン」
「はい」
呼ばれて、すぐに追いかける。
ウィーラーとともに、パン屋が入る建物の外階段を上る。通路にでた。扉が二つ並んでおり、奥にはさらに上に上る階段もあったが、手前の扉でウィーラーは止まった。鞄から鍵を取り出し、開錠する。
扉を開けたウィーラーが入室し、クリスティンも後に続く。
「おじゃま、します」
他人の家にあがるようなそわそわした感覚で恐る恐る入る。きょろきょろと室内を見渡した。
そこは小さな台所を備えた広い一間だった。ベッドと机がすでに用意されており、そなえつけのクローゼットもある。クローゼットの傍には木箱が三箱重ねられていた。先んじておくった荷物が入った木箱だった。
(ここで一人で暮らすのね……。ここが家になるの? なんだか不思議)
十分に家族と接して旅立ったはずなのに、取り残されたような、言い知れない侘しさを感じた。
ベッドがある通路に面した窓から少し光が射すものの、左の窓からは隣の建物の壁しか見えない。
外からわずかな雑音が聞こえてくるといえど、耳奥に弟妹たちが駆け回る足音や笑い声が焼き付いているクリスティンにとっては、無音に等しい。時が止まっているかのような薄暗い室内を見ていると、きゅっと心臓が締め付けられた。
胸に拳を寄せて、(これが人恋しいということ?)と噛みしめた。
机に手をかけたウィーラーが振り向く。
「トイレは共同で階下にある。登ってきた階段の裏手だ」
「お風呂は?」
「ここに風呂はない。平民の家だから、それは勘弁してくれ。近所に、共同浴場があるからそこを利用してもらうことになる」
「はい」
「月々の小遣いは、月始めに、給金としてパン屋の女将から直接渡してもらうことになる。ひと月分のやりくりは自分ですること。
昼食は学院に食堂があってな、そこで自由に食べられる。いざとなれば、そこで栄養をとりなさい」
「はい」
(そっか、掃除も食事も、一人なんだもんね。大人数とは違うわよね……、一人分のご飯はどれくらいなんだろう)
クリスティンは一皿のおかずとパンを思い浮かべた。
弟妹たちと競って食べていた頃が懐かしい。男爵家がそこそこ豊かだった頃は、一人で大皿の料理を食べきってやるつもりで手を出していたものだ。あの頃は誰もいない一人きりの食事をとることなんて、想像もしていなかった。
いつの間にかうつむいていたクリスティンの頭部に、ぽんと手が乗せられた。
「寂しくなる暇なんてないさ。朝は店に出て働くことになる。騎士団の稽古場はにぎやかだ。殿下みたいなごつい男ばかりだぞ。仕事に慣れた頃には学院生活だ。落ち着く頃には、新しい友達でいっぱいだよ」
おずおずと顔をあげると、目を細めるウィーラーがいた。
(やっぱり、先生じゃない)
クリスティンはくすりと笑う。
クローゼットを開くと制服と騎士服に新しい長剣、平民用の衣装が三着あった。実家から持ってきた衣類もあるので、差し当たっては困らなさそうだ。
パン屋で働く平民になる時は、三角巾をつける。
学院生としては、黒縁の伊達メガネをつける。
騎士に扮する時は、剣を佩き、髪を後ろにまとめて縛る。
衣装や小物、髪型が変われば人の印象は変わる。一見しただけなら別人に見えるものだとウィーラーは説明した。
平民は貴族学院に通わないし、平民と貴族では居住区も違い、接点も少ない。
この小道からは他の建物の居住部分の入り口にも通じているから、前の通りに出る時は誤魔化せるという。
この一角を入り口にしている人にはばれるのではないかとクリスティンは疑問を呈す。
「そこまで人は気にしないものだ。自分が気になるなら、薄手のロングコートを羽織って出かけると良いだろう。
さて、お世話になるパン屋の夫婦と顔合わせするから、平民用の衣装に着替えて、出てきてくれるか? パン屋の夫婦に紹介したら、街を案内するよ」
「はい、分かりました」
「階段の下で待っている。その前に、手を出して」
両手の平を合わせて差し出すと、首紐がついた鍵が乗せらた。
「カギ閉めてきてね。忘れちゃだめだよ。女の子の一人暮らしなんだからね」
ひらひらと手を振り、ウィーラーが出ていく。
残されたクリスティンは平民用の服に着替えた。ふくらはぎまでのロングスカートに、袖も長め、首元はきちんと閉まり、丸い襟がついている。装飾も少なく動きやすい。
三角巾を手にしたクリスティンは、鏡はないかなと、もう一度ざっと部屋を見渡す。机とベッドの間に姿見が立ててあった。
小走りで駆け寄り、鏡の前に立つ。
改めて、身体を左右に振ってみた。
全体的には淡い緑色だが、襟や袖が白くアクセントになっている。とても爽やかなワンピースだ。
付属の三角巾もスカートと揃いの色である。
(用意されている衣装の色味ごとに三角巾がついていそうね)
再びクローゼットに戻る。クローゼットには、見た目からして用途が違う靴が数足並んでいた。
(三役ごとに靴も履き替えて、ということよね。これって……)
三角巾をつけて、踵が平べったく薄い靴を履く。とんとんと靴のつま先で床を叩いてみれば、サイズもぴったりだ。
身支度が整ったクリスティンは、部屋を出た。かりゃりと鍵をかけ、軽やかに階段を駆け下りる。
降りながら、鍵の紐を首にかけて、胸元に鍵をしまった。
片手に待っていた本をウィーラーがぱたんと閉じた。
「さあ、おかみさんに会いに行こう」
再び道路に出る。
窓から店内をちらりと覗く。お客さんはいなくなっていた。
扉を開くと、カランカランとベルが鳴る。開くと同時に、パンの芳香にぶわっと包まれた。
店内の壁には棚があり、籠に色々なパンが並べられている。充満する香りだけで美味しそうだ。
「お久しぶりです」
「ウィーラーさんじゃないか」
「預かっていただく子を連れてきましたよ」
勘定場に座る白髪交じりの恰幅良い女性が立ち上がった。
ウィーラーと一緒にクリスティンは女性の傍に向かう。
「思ったより早かったね」
「天気が良かったですからね。順調でした」
「それはよかった」
女性がクリスティンに目を向け、にっと笑った。
「いらっしゃい、お嬢様。私はこのパン屋のおかみで、リリーというんだ」
「はじめまして」
「たいていは、パン屋のおかみで通っている。おかみさんと呼んでくれればいいさ」
王都で初めての自己紹介に緊張しドキドキするクリスティンはピンと立つ。
「クリスティン・カスティルです。ここではティンと名乗らせていただきます。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
ぷはっとパン屋のおかみが吹き出した。
「嫁に来るわけじゃないんだよ。
殿下の大事なお嬢さんを一時的にお預かりするだけさ。
でもね、朝の仕事はちゃんとしてもらうからね。なにせ、パン屋は朝が一番忙しい。一日おいた昨日のパンでは硬くなる。
仕事に向かう途中、新聞を買うついでに、朝食用に朝の焼き立てパンをもとめて客がくるのさ」
「はい!」
おかみのウインクにクリスティンは元気よく挨拶した。