35:餌に誘われる魔物③
クリスティンが目覚める少し前。
窓の下に佇んでいたライアンは大きく伸びをした。
首を左右に動かしてから、目を開く。
ふらりと立ち上がり、窓の外を監視する騎士の横から、外をちらりと見た。
まだ夜と言っていいほど暗いものの、月の位置は低くなっている。風も撫でるような肌触りから、とげとげしいざらつく感触へ変わっていた。
(そろそろか)
視線を逸らすと、光源の傍に座るドナルドにライアンは顔を向けた。
動きに気づいたドナルドが真顔になる。ランプに手を添え、ひゅんと灯りを落した。
暗くなった室内で、示し合わせたように、騎士達が立ち上がる。
ドナルドも立ち上がって、指示を出した。
「先鋭隊は最前線に移動する。
森から魔物が出て来たら、まずは空き家周辺までおびき寄せろ。こちらで討ち取れる魔物は討ち取る。森に逃げ込む魔物がでれば、先鋭隊が迎え討つ。
最終的には、前方と後方から挟み撃ちにし、一網打尽とする。鳥の餌の味を知った魔物は、けっして森へ返すな」
数人の騎士達が移動し始める。
彼らとすれ違いざまに会釈したライアンがドナルドの前に立つ。
「俺はお願いした通り、先鋭隊側に参加します。ドナルド分隊長」
「お手を煩わせるほど、難しい事案ではありません。我々に任せ、休まれていても構わないぐらいなのですが」
心配そうに告げるドナルドに、微笑を浮かべたライアンが頭を左右に振った。
「叔父からは一番危険な隊に参加してこいと言われてます。これで、先鋭隊に参加しなければ、なにをしていると叔父に呆れられてしまいますよ」
「しかし……」
未来の聖騎士となる公爵家のご令息をあずかっている立場からしてみれば気が気ではない。もし、怪我をされたら近衛騎士団長に顔を合わせられないではないかと胃がキリキリしているぐらいだった。
これは訓練ではなく、実戦なのだ。もちろん、学院の演習とはまったく違う。
「御心配には及びません。先鋭隊の方々の指示にちゃんと従いますから。無理はしません」
「危険と感じられたら、ライアン様だけでもお戻りください」
「心得ております。では、行ってきます」
ライアンは先に出た先鋭隊を追いかけ、外へ出た。
残った騎士達の視線がドナルドに集まる。
「事前に打ち合わせた通り、我が分隊は三組に分かれ、厩舎周辺で待機する」
防護マスクとゴーグルを騎士達が身に着け始める。身支度が整うと、ドナルドが率いる組とロバートが率いるサイモンを含む組が外へ出た。
数人の騎士とともにレスリーは空き家に残り、引き続き、厩舎の監視を続ける。
ドナルドの組とロバートの組は空き家から出ると左右に別れ移動し始めた。
瘴気の量を計る計測器を持ち、ドナルドは先頭を歩く。それで瘴気の量をはかりつつ、たまに風向きを確認する。
魔物は瘴気とともに移動するため、風向きを確認することは、魔物がやってくる方向を知るに等しいのだ。
ドナルドは、風下に位置する空き家の陰で立ち止まった。平手を水平に示し、合わせた指を下に弾く。座れと隊員に指示を出した。
ともに来た隊員は空き家の壁に背をむけて、しゃがんだ。片膝を立てて、いつでも飛び出せるよう待機する。
ドナルドは計測器の数値をちらりと確認してから、厩舎を見た。屋根の向こうに、ぽっかりと月が浮いている。
夜中に見た時より、低い位置だ。
「魔物が出るほどの数値には達していない。風量や月の位置などによって状況が急変することもあるかもしれないが、今のところ……」
その時、ドナルドに降りそそいでいた月明かりが陰った。
異変に気付いた騎士達が立ち上がる。
ドナルドが左上を見上げた。視線の先には、厩舎の屋根がある。
さっきまで月が輝いていた空を背に、月を隠した黒い塊が屋根に鎮座していた。
月明かりの逆光を受ける巨大な生き物の、鋭い眼光だけが目についた。
「魔物だ!」
ドナルドの一声が飛ぶ。闇夜に響いたその声により、別行動をとる組の者たちも異変に気付く。
屋根の上にいた巨大な生き物が飛び上がり、ドナルドたちに襲い掛かった。
動きやすい服装に着替えたクリスティンは、剣を佩いた。昂ぶる気持ちを抑えきれず、魔石付きの柄を握りしめる。
「よし、行こう」
怒られるかもしれないと理性が不安を訴えても、虫の知らせはベルのように警鐘を鳴らし続けている。
(怒られる時は、怒られた時だ)
大きく息を吸いこんだクリスティンは、深く息を吐く。
決意を胸に飛び出した朝を思い出し、榛色の髪をなびかせ振り返る。迷うことなく扉まで直進し、靴を履き、部屋を出た。
灯りのない廊下は真っ暗であった。
射しこむ星や月の明かりでは心もとない。
クリスティンが柄を撫でると、ほんのりと魔石が発光した。
足元を照らす光を頼りに、廊下の窓から外の様子を眺めつつ、早足で進む。誰ともすれ違うことなく居館を出ることができ、安堵したクリスティンは、そのまま厩舎へと向かった。
厩舎の扉を開けると、ホルンと目が合った。
「良かった、起きててくれて」
近寄ったクリスティンは、ホルンの首に手を添えて、話しかける。
「力を貸してほしいの。お願い。危ない目には合わさない。必ず守るから。だから、私を信じて、助けてほしいの」
問いかけるようにホルンが鼻を鳴らす。
首から手を離したクリスティンが、厩舎に置いてある馬具一式を持ってきて、手際よくホルンを馬装していく。
「お願い、ホルン。私に力を貸して」
馬装を終えたクリスティンが、ホルンを厩舎から出そうと手綱を引く。ホルンは嫌がる素振りを見せた。
立ち止まったクリスティンが、ホルンの瞳を覗き込む。
「あなたが臆病なのは知っているの。
夜道を走るのも、瘴気に近くづくのも怖いでしょう」
軽くホルンがいななく。
「分かっているわ。だから少しだけ、私にその体を明け渡してほしいの。
必ず、守るから。今だけ、その体を、貸してほしいのよ」
クリスティンの手がホルンの首を軽く数回叩き、添えられた。
とたんに、ホルンの瞳から怯えが消える。失われた意思の光は、瞬時に輝きを取り戻す。怯えの代わりに、瞳に決意がにじむ。
クリスティンの視界には、ホルンを見上げる景色と、ホルンの視界に映るクリスティンの姿が重なって映る。
(二つの視界を同時に見るのって慣れないのよね。酔いそうになるわ)
足元を足裏で確認しながらゆっくりと後退するクリスティンは馬房からホルンの半身が出たところで、手探りで側面に回った。目を閉じて、馬具の位置を手で確認すると、意を決し騎乗した。
またがる身体感覚を確認しつつ、おさまりが良いところで、動きを止めた。
ホルンの意識の一部と視界を奪取したクリスティンは、手綱をしっかりと握りしめる。
目を閉じたクリスティンの瞼裏には、ホルンが見ている景色が映る。人間とは違う馬の視野はどこか居心地が悪い。
身体感覚を頼りに、ホルンの背にしがみつくよう背を丸めた。
(大丈夫。怖くない。ホルンのことは私がちゃんと守るから)
通じ合わせた意識から、クリスティンはホルンに語り掛ける。
観念したホルンは従順に、恐怖心を手放していく。
「ありがとう、ホルン」
馬の視界を得たクリスティンは、馬の身体に走れを命じる。
意識を通じ合わせたホルンの身体は、クリスティンの望むように、走り出した。