24:浸食される領地④
空き家に隣接する空っぽの厩舎を横切り、クリスティンは歩みを進める。
少し離れたところにぽつんと腰高の鶏小屋があり、その扉が開いているのが目についた。
厩舎に山羊や牛がいないように、鶏小屋にも鶏はいない。
開け放たれた扉から鶏小屋内部を覗けば、乾いた糞とこびりついた羽が散乱していた。
(夜中に鶏がいなくなったのが、移住の決めてだったのよね)
数か月前に鶏がいなくなったと知らせを受け、領主である父が検分に出向いた。状況から、真夜中に魔物が現れ、鶏を森へ連れ去ったのだろうと結論づけられた。食われたと皆が暗黙のうちに理解する。
住み慣れた土地を手放すことができず、移住を先送りにしていた住民は、いずれ人に害が及ぶのではないかと恐れ、この地を離れることを決意した。
鶏失踪が決定打となったのだ。
鶏小屋の前で足を止める。
出入り口付近の土の凸凹を見つめる。人気もなく、風雨に晒されていたはずなのに、その凹凸が生き物が出入りする足跡に見え、クリスティンは見入ってしまう。
(真夜中に流れてくる瘴気と一緒に、魔物が来ていたのかしら)
瘴気が流れれば、付随して魔物もやってくる。
魔物出没の噂が頻繁に流れるようになり、人は森に入らなくなった。
空き家近くまで瘴気が侵食し続けていけば、近いうちに畑にも影響が出て、人の暮らしがさらに脅かされるだろう。
嫌な予感に背筋がぞくりと凍り付く。
「早く、瘴気を払わないと……」
クリスティンは前を向き、歩きだした。
手入れされず荒れた畑地を分け入り進む。
目の前に、鬼哭の森の木々が高くそびえる。
屋上で見るより、木々は黒く太い。
おびただしい瘴気を内包しながら、樹海はただ静かにそこにある。
左右に広がる木々は光を飲み込み、黒々しい一線を引く。ここから先に来ればただではすまないと無言で脅迫されているようで、その線より向こうに行く気にクリスティンはなれなかった。
幹と幹の間を見つめれば、そこは夜としか表現できない闇が広がっている。
木々の根本から黒い煙状の瘴気が重く漏れ出てくる。地を這い、風に吹かれ、空へと散っていく。城から見た時より、漏れてくる瘴気の量は減っていた。月が消えたせいもあるだろう。
昼になるにつれ、陽光に阻まれた瘴気は森の奥へと引っ込んでいくものだ。
(夜はもっとたくさんの瘴気が流れているもの。魔物が徘徊していてもおかしくはないのよね。鶏小屋の前の足跡めいた凹凸は良い証拠かもしれないわ)
鳥の糞や羽の臭いに誘われて出てきた魔物がいたのかもしれない。いてもおかしくはなかった。
(人を追いやっておきながら、魔物は自由に出入りできるなんてずるいわ)
森は城壁のようだ。ただ黙して、圧迫し、人の領分を侵していく。
歩みを進めながら、全身に魔力を浸透させたクリスティンの身体が淡く発光する。木々の根本から漏れてくる霧が、クリスティンの足先に触れて弾けた。
全身に魔力を通じさせれば、瘴気など恐れることはない。
「払うだけなら、簡単なの」
手のひらを森へ向ける。
魔力で練り上げた風が足元から吹き上げた。魔力の風は上空で、自然の風を巻き込み、目には見えない素早い動きで弧を描くと、クリスティンの背後めがけて飛んでいく。
強い風を背に受け、クリスティンの榛色の髪が前方に荒々しくなびく。
「邪魔よ!」
振り乱される髪を、首をふって周囲に散らす。
全身の発光が、森へかざした両手へと集約させる。
「瘴気なんて、消えちゃえ!!」
背後から流れる風が、両手から零れ落ちる発光する粒子を抱き込み、森へと飛んだ。
光を放つ風が四方に散る。
ばちばちと大気中で、瘴気と魔力の粒子がぶつかり合い、一部が弾け、光を放つ。程なく、火花のようなぶつかり合いが収まると、漂っていた瘴気が中和され、大気は清浄さを取り戻した。
掲げていた両手をクリスティンはぶらりとたらす。
そびえる木々は微動だにしない。瘴気は奥に引っ込んでも、森は黒々しく鎮座する。
瘴気は静まっても、森の壁は厚い。
今日、瘴気を浄化しても、明日、瘴気を浄化しても。
増える瘴気を一人ではどうにもできない。
唇が震える。
拳を握りしめる。
父や弟の前でどんなに粋がっても、森を前にすれば、無力感を覚えざるを得なかった。
魔力を持ち、瘴気を払えるからこそ、限界を思い知る。
(力が足りない……)
足りないことが多すぎて大事なものを守り切れないと、瘴気を払うたびにクリスティンは無力感を深めるのだった。
浄化を終えたクリスティンは、ホルンを預けた民家に引き返した。
不安げな農民たちの前で、笑顔を見せてクリスティンは言った。
「もう大丈夫。瘴気は浄化したわ。日が高くなって、作業しにくいかと思うけど、畑に出て農作業できるわよ」
嬉しそうにしながらも農民たちは今後の不安を口にする。
「その時はまた払いに来るから」と、クリスティンは彼らを励まし、ホルンに騎乗し、帰路に就いた。
とぼとぼと進む。
クリスティンの気持ちに同調するように、ホルンの足取りは重い。
増えていく瘴気をいずれは浄化しきれなくなる日がくるかもしれない。
瘴気を払うたびに、クリスティンはそんな不安を感じていた。
畑作地に流れてくる瘴気が、いずれは男爵領を飲み込み、昼も夜もない闇に包み込む。男爵領だけでは済まず、国中の土地が瘴気に覆いつくされる。
そんな予感めいたイメージが、瘴気を払うたびに脳裏をよぎった。
すべてを飲み込み瘴気のなかで、魔物に怯えながら、乏しい食料で食いつなぐ。草を食べ、虫を食べ、心細い中で、僅かな灯りを頼りに生きることになる。
空恐ろしい恐れを呼ぶ心象が、クリスティンの肌にねっとりとまとわりつく。
人前では楽観的あり、任せてと胸を張っていても、心の底では言い知れない恐れでいっぱいだった。
(瘴気とせめぎ合えば、私の力なんて及ばないのよね。だからって、瘴気を払える私が不安を感じていては、よりいっそうみんなを不安がらせてしまうし……)
うじうじしながら進んでいるうちに、城が見えてきた。
城の外に戦馬が何頭も並んでいる。幌馬車も何台も停まっていた。馬を世話したり、テントを設営する彼らは、みな騎士である。
「騎士団の方々が到着したんだ」
クリスティンは顔をあげて、背筋を伸ばした。
領主の娘らしく、すれ違うごとに丁寧に挨拶し、城内へ入る。父の元へ報告に行かなくてはいけないとはいえ、差し当たって、ホルンを馬房に戻すため、厩舎へ向かった。