23:浸食される領地③
城の屋上から見える位置にあるとはいえ、畑作地に点在する民家まではそれなりに距離がある。
クリスティンは大気に混じる異物を確かめながら馬をすすめた。案の定、近づくごとに瘴気が濃くなってくる。
(やっぱり、風に乗って飛んでいるわよね)
魔力が無ければ感知できない微量な瘴気もクリスティンは嗅ぎ分けることができた。
(お父さんやロイにはここまで飛散しているって気づかないのよね。微量な量でも積み重なり、目に見える影響が出てきてからでは遅いというのに)
かといって、空に漂う目に見えない瘴気を払っても、根本を正さない限り、いたちごっこだ。
どこから漏れてきているのかを探るようにクリスティンは森を見た。おおよその検討はついており、数軒の空き家が目星となる。
黒々しい森と人間が住む世界の境界ははっきりしている。
実りをもたらす、生気弾ける果樹と違い、鬼哭の森に自生する木々は幹や葉にいたいるまで根底の色味が黒で構成されていた。
目が利く者が幹や枝葉を凝視し、色味の奥を覗き見ようとすれば、必ず漆黒が浮かび上がる。
宇宙を思わせる真っ黒な色合いを奥底に秘める木々が群生している様は、ただそこにあるだけで恐ろしさを漂わせる。
とはいえ、四年前はまだ良かった。
瘴気は森の奥深くに漂い、民家近くの森はまだそれほどの黒さを帯びていなかった。
さんさんと太陽が輝く昼間であれば、森に入り、固有の植物やキノコを採取し、食べることもできたのだ。
いくつかの毒消し用の植物と一緒に煮れば、お湯が真っ黒に染まり、取り込まれた瘴気が打ち消され、ほろ苦い季節の食べ物となっていた。が、今はもう、それも不可能となった。
瘴気の量が増えたことで、煮ても瘴気を取り除き切れず、喉の痺れとともにえぐみや渋みといった顔をしかめる味が舌に残るようになったのだ。
黒々しさを増し、おどろおどろしい雰囲気が漂い始め、小型の動物を狩ることも、恵みを採取することもできなくなったと気づいた頃には、森の奥に漂っていると思われていた瘴気が人々の暮す領域まで到達し、暮らしを脅かすまでになってしまった。
去っていく領民。
寂れていく領地。
増える空き家。
子どもの祝いを城内で催すたびに、減っていく笑い声。
大切なぬいぐるみのように抱きつきたくなる暖かな日常が、指と指の間から溶けて消えていくかのようであった。
努力して笑みを絶やさないようにしていても、クリスティンは瘴気の浸食を止められないことが悔しかった。なまじっか魔力を備えているからこそ、もどかしかった。
森の奥へ行くのは止められていたし、膨大な瘴気を前にすれば、怖くて足が震えた。当然、一人で魔物を狩ることは、オーランドやウィーラーからも止められており、さすがのクリスティンも彼らとの約束事を破る度胸はなかった。
父や弟の前では粋がっていても、クリスティン自身はどうしようもない無力感を抱いていた。
大人のように割り切れない幼い彼女にとって、目の前のことに力を尽くすことだけが、燻る不満を解消する唯一の手立てとなっていた。
馬を駆りながら、空き家周辺が黒く霞むさまをクリスティンは見ていた。
(屋上で確認したとおりね。空き家近くの森から瘴気がもれているわ)
ホルンの足取りが重くなる。
人間より過敏な家畜らしく、瘴気による微細な大気の変化を感じ取ったのだ。
畑作地に入る頃には、主人の言うままに歩かなくてはいけない気持ちと、瘴気を発する森に近づいているという恐怖心がせめぎ合い、左右に軽く蛇行し、歩みが遅くなってきた。
クリスティンは、仕方ないとばかりに肩をすくめる。
(戦馬じゃないからね、ホルンは)
オーランドがのるような荒々しい戦馬なら、森まで平気で入るのだが、子どもたちに可愛がられて育ったホルンは、体つきこそ戦馬のようであっても、中身は臆病なままであった。
こうなると分かっていたクリスティンは、畑作地にある民家に立ち寄り、馬を預けることにした。
畑作地の家々のなかで、もっとも森に近い民家の戸を叩く。
中から農民が出てきて、クリスティンが来たことに驚くとともに、安堵の表情を見せた。
いつもなら朝日が昇る前から働く農民たちも、昨夜の月の位置や、男爵から通達により、天気が良い午前中であるにも関わらず、家で待機し続けていた。
これから瘴気を払いに行くと話したクリスティンのお腹が、タイミングよく鳴る。民家の奥から良い匂いが流れてきて刺激されたのだ。人の良い農家一家は軽食を出し、玄関先でクリスティンは腹を満たした。
不安がる農民一家を力強く励まし、馬を預けたクリスティンは鬼哭の森に向かって歩き始めた。
収穫前の作物が育つ畑を横目に、クリスティンは空き家を目指し、畑道を進む。
微量な瘴気が降りそそいでいるとしても、左右に広がる畑の作物への影響はまだ見られない。
天気が良いのに、農民が誰一人おらず、走り回る子どももいないという閑散さが異様さを醸していた。
(このままだと、これが当たり前の風景になって、畑も荒れ放題になってしまうわ。瘴気は森のなかにあるものよ。人里まで降りてこないでほしいわ)
空き家にまとわりつく黒い霞を、クリスティンは睨みつける。
魔力を注ぎ入れられた手のひらが淡く発光し始めた。
一歩踏み出すごとに足裏から風が吹き上げ、榛色の髪を上方へなびかせる。
髪がふわりと落ちた。
足元からそよ風が流れ出し、クリスティンの両手に絡まり、四方へながれる。
諸手の光が増す。花粉のような魔力の粒子がキラキラと足元へ降りそそぐ。その淡く発光する粒子が、足元で練り上げた魔力の風によって、地面に落ち切る前に吹きあげられる。
クリスティンの魔力を風が周辺に散らしていく。
魔力の風が、飛散する瘴気をのせた自然の風と絡まり合えば、練られた魔力と瘴気が結びつき、大気を浄化する。
クリスティンが進むたびに、瘴気をはらんだ空気は清浄さを取り戻していった。
畑を抜けたクリスティンが空き家にたどり着く。
壁に手を付け、空き家の状態を確かめながら、歩みをすすめた。
人が住まなくなると、とたんに傾ぎ、壁や屋根が朽ちかけ始める。
家周辺の草はぼうぼうと生え、木々の葉も伸び放題。
庭先の果樹の枝が折れ、その枝先が地についていた。収穫されなかった果実も、枝から落ちて地面に散乱している。
枝に残る、本来は真っ赤な色をする果実が、まだらに黒く変色していた。
現実を突きつけられ、心が痛む。
どれだけ、頑張って瘴気を払っても、クリスティンのできることには限界がある。
際限のない繰り返しに、虚しくなる。
それでも、クリスティンは前を向く。
目の前の森から流れてくる瘴気を押し返せるのは、男爵領にはクリスティンしかいないのだから。