21:浸食される領地①
隠れていた太陽が水平線より顔を出す明朝、放たれる白い光が水面を撫で、大地を這い、天に向かって駆けのぼる。
地上に光が行きわたれば、大地の緑が息を吹き返す。
農村地帯が色を取り戻せば、闇は世界の端へと押しやられる。
光は更に伸長し、男爵領の古城を浮かび上がらせた。
世界に色を灯す光の進行は、黒々とした鬼哭の森に阻まれ、突如止まった。
朝日を拒絶する森は闇夜を抱き込み、濃厚な黒を練り上げる。
人が住まう領域と瘴気と魔物が跋扈する森の際は、一線をもって、別世界として切り離された。
せめぎ合う闇と光。
その狭間に太陽は昇ってゆく。
空を白く、黄色く、赤く、そして青へと染めあげる。
太陽にはかなわないと、闇は木々の奥へと沈んでいった。
空に溶けこんだ太陽は世界に光をまき散らし、朝の訪れを祝福する。
太陽光を透かすカーテンがほんのりと発光し、瞼をぴくりと動かしたクリスティンがかっと両目を見開いた。
「朝だ!」
飛び起きたクリスティンは、脱いだ寝間着をベッドの上にほおり投げると、転びかけながらクローゼットへ駆け寄った。
扉を開き、手近なシャツとズボンを手にし、大慌てで着替える。
籠に入れている靴下を取り、クローゼットの扉を閉めながら踵を返す。一歩踏み出すごとに靴下を交互に履きつつ、前進する。扉の隣に置いている靴に足を入れながら、廊下に通じる扉を開いた。
飛び出したクリスティンは、荒々しく扉を閉め、全速力で走り出す。
(もっと早く起きて、確認するつもりだったのに。太陽が昇りきるまで寝過ごしちゃった)
走る廊下の先に、弟のロイが歩いていた。クリスティンの姿を見るなり、目を丸くする。
「クリスティン!」
「丁度良いわ、ロイ。馬の用意をお願い」
「馬って……、ダメだよ」
「ダメなんて、言っていられる状況じゃないはずなのよ」
「それは、分かっているけど。お父さんから……」
「いつもは気をつけていきなさいって言うのに、今回に限って、ダメなんて! どう考えたってそっちの方がおかしいじゃない」
走り迫る姉を避けるように、ロイは壁に背をむけ、道をあけた。
目の前をクリスティンが、睨みを利かせて走り抜ける。
「これから屋上で確認して、お父さんに宣言してから、行ってやるんだから。
馬の準備しておかないと後で厳しく訓練してやるからね」
さっと青ざめるロイを、太々しい笑みで流し見たクリスティンは、そのまま廊下を突っ切っていく。
複雑な顔で、走り去る姉の背を見送ったロイは口をすぼめて呟いた。
「後でお父さんに怒られても、全部クリスティンのせいにするからな」
廊下の突き当りに見えてきた階段の手すりに、クリスティンは手を伸ばす。
掴んだ手すりを起点に、榛色の髪をなびかせ、体の向きを直角に変えた。ウサギにように身軽に跳ね、階段を二段飛ばしでかけあがる。
一気に駆け上ったクリスティンは、体ごとぶつかるように最上階の扉をあけ放った。
肩を上下に動かし、深呼吸を繰り返す。呼吸を整えつつ、空を眺める。
緊張した面持ちで口元を引き結んだ。
扉から手を離したクリスティンは、小走りで鋸壁へ向かう。
くぼみに手をかけ、身を乗り出せば、古城の屋上からは大地を覆う黒々しい鬼哭の森がよく見えた。
木々の間から闇よりも黒い霧が風に煽られ、流れてくる。
霧にのまれた森に近い民家数軒が霞んで見えた。
民家近くまで流れた霧は薄くなり、空へと搔き消えていく。
「やっぱり、昨日より広がっているわ」
榛色の髪が瘴気を含んだ風に吹き上げられる。目がしみて、喉がぴりりと痛む。
クリスティンは拳を口元に当てて呟いた。
「今日は風向きが悪いのね」
昨日の満月は位置が低くく、森すれすれに輝いていた。そういう夜を超えた朝は、いつもより瘴気が濃い。大地から森へ風が吹き抜けていくならまだいいが、森から大地へ風が吹き抜けていく場合は、もろに瘴気が流れ込んでくる。
森の境界一帯を含み、横長に広がる男爵領では、年々森から流れてくる瘴気の量が増しており、その浸食被害に悩まされていた。
瘴気により見え隠れする民家の後ろには畑作地が広がる。
目には見えなくても、残留する瘴気が風に煽られ、降りそそいでいることは間違いない。
その畑作地の間には、また別の民家が点在する。
「この勢いのまま瘴気が漏れ続けたら、残っている人たちだって危ないじゃない」
森の傍にある数軒の民家はすでに空き家だ。
そこに住んでいた人々は数か月前に他の領地へと移住している。
年々濃くなる瘴気により、生計を支えていた森の恵みが激減し、家畜や農作物に悪影響が出るようになったなどの理由が重なっての、やむを得ない移住であった。
空き家より後方の畑作地ではまだ作物が採れるため、畑地の間に点在する民家で暮らす領民は辛うじて暮らしを繋げることができている。とはいえ、瘴気の浸食がすすみ、農作物に影響が出れば、彼らもこの土地から離れざるを得なくなるだろう。
クリスティンは、領民の暮らしを守ることが男爵家に生まれた者の務めであり、瘴気を払うための魔力を持って産まれた者の役目だと信じていた。
出生の裏事情を知らない母が、親兄弟に魔力がないにもかかわらず、自分だけが魔力を保持していることを訝しがる娘に、誕生時に命が危なかったクリスティンを助けてくれた女性の加護だと語りきかせ、その力はきっと世界のためにあるのだと告げた夢物語の影響だった。
クリスティンに甘いオーランドもまた、彼女の信じる世界観を汚す真似をせず、母の寝物語を肯定した。
クリスティンは自身の存在意義を、世界を守る、つまり彼女の狭い世界においては、領民たちを守ることそのものだと疑いなく信じ切っていた。
妻の寝物語と、オーランドの肯定を、父である男爵はただ見守っていた。
大人たちの様々な言葉を浴びながらも、クリスティンはただ健やかに、己を信じ育っていた。
そんなクリスティンにとって、目の前で領地が瘴気に侵されているとなれば、捨て置くことなどできなかった。
事態に彼女の真っ直ぐな心がうずく。
「おいちゃんもいない。騎士団も午前中に来れないとなったら、間に合わないわよ。
収穫を迎える畑は死守しないといけなのに!」
クリスティンは踵を返し、走り出す。
屋上から、父がいる執務室へと向かった。