16:記憶のない娘④
鬼哭の森周辺状況を国に報告したオーランドは、王都で過ごす時間を短くし、以前よりも長く地方を渡り歩くようになった。
瘴気は年々濃くなり、オーランドの放浪は国の安全を守るためには欠かせなくなっていた。
被害報告に基づき衛撃騎士団が赴くと、すでにオーランドが事を治めていることも多く、瘴気に誘われてきた魔物が子どもを襲いかけ、救い出した話などが、人々に広く知られて行った。
これまでも英雄や剣豪と呼ばれていたが、瘴気に誘われて魔物が現れる回数が増えたことで、魔物を一振りで叩きのめした剣裁きから、剣豪オーランドという呼び名が定着していった。
それに伴い、宿のない村に立ち寄れば、未亡人の家や独り身の年配女性宅に厄介なる回数が増えていった。彼女たちはなにも言わずに泊めてくれるし、とくになにかを求めてくることもなかった。
いくつかの村にそんな拠点が点在するようになった。
王都から離れると、とたんに気が緩む。
立場や周囲の目が薄れることで、後先に対する思考までも浅くなったかのようであった。
未亡人宅に出入りすることで、英雄色を好むという噂が立ち始め、あと腐れない関係なら誘われても拒まなくなっていった。
根無し草のように旅をし、女たちに対しても素っ気ないが、意外ともてた。据え膳はすべて食って歩く。裸になれば、身分もなにも関係はない。
鬼哭の森の対処はきちんとこなしていればなにも言わないだろうと、安直に考えていたが、そんな荒んだ道中は王都にいる王やスタージェス公爵の耳にも入り、とうとう呼び出されることになった。
スタージェス公爵の屋敷に呼び出されたオーランドは、渋い顔をする王とスタージェス公爵のお小言を黙って聞いた。
小言が終わると王が咳ばらいをし、声音を整え語り掛けた。
「オーランド、今は治安のため、お前が国内を渡り歩くことが求められている。鬼哭の森からの被害報告は日に日に増えるばかりだ。
今すぐにスタージェス公爵を継がせ、王都に暮らせとは言えない状況だ」
「しかし、目立ちすぎです、殿下。日陰に徹するべきスタージェス公爵となるには、殿下はいささか派手になりすぎた」
「その点、ネイサンは近衛騎士であり、品行方正。
いざとなれば、このままお前を自由にさせ、ネイサンにスタージェス公爵を継がせる可能性も我々は考えている」
「それでも、俺はかまわないけどな」
「お言葉ですが、ジャレッド殿下が王となれば、オーランド殿下は王弟となるのです。その立場からは逃れられませんよ」
「公爵を継ぐ継がない以前に、お前の素行は問題というわけだ。そこで我々は、お前に監視者をつけることにした」
「監視者?」
扉が開く音がし、オーランドは振り向いた。
ゆったりと現れた男が後ろ手で扉を閉める。平民の服を着ていたものの、その両手首には鎖で繋がれた枷がはめられていた。
オーランドと目が合うと、男はにやりと笑った。
「彼は選民だ」
オーランドの背後から王が語る。
選民の男は、丁寧なお辞儀をした。
「今後、世情に出回るオーランドの風聞の取りまとめ役になってもらう。魔力もそれなりに有しているから、鬼哭の森内部まで、同行することもできる」
「初めまして、オーランド殿下。
旅においては、オーランド殿下の武勲を歌う吟遊詩人。王都においては、王家直属のオーランド殿下専属記者となります、ウィーラーと申します。以後、お見知りおきを」
笑みを絶やさない男に、オーランドは胡散臭い者だなと思うだけであった。
「どうも」という素っ気ない挨拶にも、ウィーラーは満面の笑みでこたえる。
「私は殿下の旅の観察者。
殿下の旅を邪魔しません。
あなたの武勲を世に知らしめるためにおります。
影のようにあなたの後ろで歌う者です」
韻を踏んだ挨拶の後、道化師のように片手を広げ、もう片方の手を胸に添え、頭を垂れた。手首をつなぐ鎖がじゃらりと鳴った。
鎖は自由のない選民の立場をよく表している。
そんな殺伐としたオーランドにとって、クリスティンだけが唯一の潤いであった。
彼女も二歳半で魔力を放出し始めた。
ほのかに部屋に明かりをともす、ランプのようなきらめきに、オーランドの心は躍った。
男爵夫婦に魔力はない。魔力を持たない両親から魔力を持つ子どもが産まれる例は少ない。
クリスティンから放たれる光はリディアの魂と同一である証なのだ。
記憶がよみがえる予兆の見られないクリスティンであっても、オーランドは彼女と一緒に遊んだり、話したりすることが楽しくて仕方なかった。
ある日、暖炉の前で向き合って、オーランドは懸命に名前をクリスティンに教えようとしていた。
「俺の名前は、オーランド」
「おーあんど」
「オーランド」
「おーらど」
なかなかうまく言えないクリスティンに、オーランドは苦笑する。
真正面から顔を突き出して向き合っていた体勢から、ゆったりと座り直した。
「なかなかうまく言えないんだなあ」
クリスティンは目をくりくりさせて、瞬く。
(もしリディアの記憶が蘇っていたら、オーランドと言えただろうか。二歳半なら、このぐらいが妥当だとしたら、口が回らなくても仕方ないか)
名前をきちんと呼べるまでにはまだ時間がかかるなと思ったオーランドはクリスティンの頭を大きな手でなでなでした。
「いいよ、いいよ。もっと大きくなってからで」
「うん、おーちゃ」
「おーちゃ、ねえ。俺のこと、そんな風に呼んでいいのはクリスティンだけだな」
「うま、して。おーちゃ」
両手を伸ばしてくるクリスティンに、オーランドは破顔する。
「クリスティンは、お馬が好きだなあ。こんど、俺の愛馬にのってみるか」
「乗る」
「今度、晴れた時に乗せてやるな」
「うん」
そう言うと、オーランドは四つん這いになり、その背にクリスティンは喜んでよじ登った。
そんなやり取りを、男爵はいつも見ていた。
オーランドがクリスティンを特別に思う事情を知っている男爵は、ある夜、ベッドで寄り添う夫人に告げた。
「クリスティンの将来のことなんだが」
「はい」
「もしかすると、普通の嫁ぎ先は無理かもしれない」
男爵家であれば、望まれでもしなければ高位の貴族に嫁ぐことはない。
とくにカスティル男爵家は、平民からの成り上がりだ。この地に根付きたくない貴族たちのために、男爵になったようなものであり、土地柄も含め忌避されている。
故に、男爵自身も、近隣の村から妻のヘザーを娶っている。
リディアという女性の魂を受け継ぎ、魔力を発現させ、さらにはオーランド殿下にまで目のなかに入れても痛くないように愛されているクリスティンは、今までの男爵家の範疇で考えることはできなかった。
リディアという選民の女性がどれだけ特別だったか、オーランドのクリスティンへの溺愛ぶりから男爵は理解していた。
オーランドの素行は耳にしていたが、それもこれも、リディアという女性を失ったからかもしれないと、妻を愛する男爵は推測していた。
オーランドが落ち着くためにもクリスティンは必要な存在であり、それは国の安定にもつながるものと解釈していた。
詳しい秘密を明かせなくても、男爵は妻のヘザーに覚悟しておいてもらいたかったのだ。
ヘザーはくすくすと笑う。
「分かっていますよ。
このままでは、どこに嫁がせようとも、オーランド殿下というこぶがついてきそうですものね」
「だから。もしかすると、あの子はいずれ、王都に行くかもしれない」
「ええ、分かっていますわ」
クリスティンは年齢を重ね、きちんとしゃべれるようになった。
「おーちゃ」と呼んでいたオーランドはいつの間にか「おいちゃん」と呼ばれるようになっていた。
そのまま、何年も「おいちゃん」呼びし、「オーランド」と呼ぶことはなかった。
「おいちゃん」と呼ばれるたびに、オーランドは(リディアの記憶はないんだな)と考えるようになり、男爵に記憶は戻った兆しはないかなどと尋ねなくなっていった。