15:記憶のない娘③
泥まみれのクリスティンに向かってオーランドは駆け寄る。
あと数歩というところで、足を止めて、だらりと腕を垂らし、力なく子どもを見下ろした。顔は呆気にとられたまま、固まっている。
「くっ、クリスティン。その服、その服は……」
クリスティンが着ている服は、祝いの品として贈った一着だと一目で気づいた。
一歳の祝いに着てもらえればと帽子と揃いで用意したレースがたくさんあしらわれた白い衣装は、結婚式のドレスも縫うような老舗の被服店で、最高級の布地に、レースも職人による手編みで、ピンクのリボンをところどころあしらった愛らしい逸品だったのだ。
男爵には値段は言っていないが、それ相応の値段がし、おそらく男爵家が用意するクリスティンの花嫁衣裳一着分にはなるだろう。
それが、目の前で、泥水につかり見る影もない。リボンはほどけ、茶色く染まり、ピンクの面影もない。白いレースはほつれたり、切れたり、ところどころ縫いつけたあとも見える。
白いドレスは茶色に染まり、布地の光沢は失われ、デザインだけが辛うじて原型をとどめているだけであった。
青ざめるオーランドを見て、泥まみれのクリスティンは満面の笑みを浮かべる。
「クリスティ~ン……」
オーランドが情けない声を出すと、それが面白かったのか、クリスティンは声をあげて笑って、泥水につけていた両手をあげた。ばしゃりと泥水は飛び散る。
その手に握られていたものに、オーランドはさらに驚く。
クリスティンの手にはこれまた泥色に染まったうさぎの人形があった。彼女はなんの躊躇もなく振り回す。
ぎょっとしたオーランドはショックで反応が遅れてしまう。
「クリスティン、待て、待て、早まるな!!」
悲鳴虚しく、どろうさぎはオーランドの顔面にぶち当たった。
オーランドの全身が固まり、どろうさぎは力なく地面にどさりと落ちる。
後には、泥を塗ったくったオーランドの顔だけが残され、その間抜け顔を見たクリスティンは背面を泥につけ、笑い転げた。服だけでなく、髪もすべて、泥まみれだ。
「クリスティン、なにをしているの」
「オーランド殿下、ご無事ですか」
大慌ての夫人とメイドが駆け寄ってくる。
ぎこちない笑みしか浮かべられないオーランドは、すぐさま城の風呂場へと案内された。
放心しながら湯につかったオーランドはクリスティンの行動をふりかえり、リディアの記憶はまだないと確信したのだった。
風呂からあがったオーランドは暖炉の前にしゃがみ込んだ。
炎が爆ぜる様をみながら、子どもとはかくあるものかと、噛みしめる。クリスティンに比べると、貴族の子どもたちがいかに躾けられている、いや、管理されて育っているかよく分かった。
村々を渡り歩くオーランドは、畑の端で走りまわる子どももみている。かれらは汚い姿をしているものの、よく笑い、転びながらも、楽しそうだ。
旅すがら見る楽しみな光景の一つであり、クリスティンもあの子供らのように育つのだろうと思うと、ほんのりと嬉しくなる。
元気なことはいいことだ。
と、自分に言い聞かせても、ため息が漏れる。
せっかくあげたプレゼントが泥だらけになっていたことは、まだ、なんとなく、心が痛かった。
(もっと大事にしてくれる気でいた俺が浅はかだったか……)
子どもに値段など関係なく、大人が思うようには大事にしてくれないのだと悟った。虚しくなり、悲しくなった。
炎を見つめ、じっとしていると、火の傍に椅子が置かれた。
見上げるとメイドがおり、「お邪魔します。こちらに服をかけさせていただきます」と、椅子の背もたれに、服をかけた。
さっき、クリスティンが泥のなかで着ていた服だ。
下着姿のクリスティンが歩いてきて、ドレスの横にちょんと座った。
「お嬢様、乾くまで、時間がかかります。別の服を着てまってましょうね」
クリスティンは口をすぼめて、いやいやと首をふる。
「お気に入りなのはわかりますが、泥だらけにしては洗わないといけません。洗って乾いたらきましょう。早く乾くように暖炉の傍に置きますからね。だから待っている間は、このスカートを着ましょうね」
メイドは渋るクリスティンに頭からかぶる膝丈のスカートを着せた。
メイドとクリスティンのやり取りから、(この服を気に入ってくれているのか)とオーランドは慰められる。
大人と子どもでは大事にするという感覚や行為が違うのだなと一つ学んだ。
椅子にかけられた衣装は、贈った時の白さは失われていた。泥のシミもとりきれていない。レースもほつれ、ところどころ破れてつくろった跡がある。
それでも、こうやって、乾いたらすぐ着たい、毎日でも着たいかのように気に入ってくれているのは感慨深い。柄にもなく目頭が熱くなった。
メイドが去り、ドレスを見上げていたクリスティンがオーランドの方をちらりと見る。
なんと声をかけていいか分からず、戸惑っていると、四つん這いでオーランドの傍に寄ってきた。
膝に手をかけて、覗き込んでくる。
きらきらしたきれいな瞳にオーランドの顔が映った。
「どうした」
優しく声をかけると、立ち上がったクリスティンがオーランドの膝に足をかけた。
「なんだ、なんだ」
そうして、大きなオーランドの身体をのぼり始めた。
「まて、おい、まて」
クリスティンが転げ落ちないよう体勢に気をつける。
焦るオーランドなど構わずに、クリスティンはオーランドの身体を這いあがる。
背中に足をかけて、ずりっと下がり、地面につく。気を使ったオーランドが少し前かがみになる。
オーランドは、クリスティンが落ちて怪我しないかとはらはらしながら、彼女の好きなように登らせた。
肩に片足をかけ、頭をむんずと掴むと、嬉しそうに笑いだす。
「なあ、クリスティン、俺は山か。山なのか」
呆れながらオーランドはよじ登ったクリスティンを肩車する。両足を肩にかけて支えた。
「高いところが好きなら、もっと高いところに連れて行ってやる」
そう言って立ち上がろうとした時だった。
クリスティンの両手がぎゅっとオーランドの髪を掴んだ。
「いっ!!」
嫌な予感がした時にはもう遅い。
クリスティンがオーランドの髪を思いっきり引っ張った。
「いっでぇーー!!」
オーランドは城中に響き渡るかのような悲鳴をあげた。
オーランドは気づかない。
王都にいる時、異母姉が亡くなっても、ジャレッドに息子が産まれても、あまり感情の揺れがなかったというのに、男爵の城でクリスティンを見ただけで、感情が揺り動かされていることに。
虚しさや悲しみ、驚き、そして、喜びも、クリスティンと一緒にいる時だけ鮮明に蘇る。