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130:車内にいたのは②

 咳ばらいをしたライアンが身体の正面を坂の上方に向ける。


「そろそろ、行こう。仕事、遅れたら困るだろう」


 クリスティンは素直に頷く。

 二人は並んで城に向かって歩き始めた。


 誰に聞かれてもいいような他愛無い会話を交わす。

 パンの話や例年の収穫祭の様子など。

 会話とは裏腹に、クリスティンの心中は穏やかではなかった。愛想笑いが歪つではないかと心配になるほどに。

 

 オーランドは男爵領の領民を移住させると話していた。ライアンが聖騎士になる頃には、古城はクリスティンの帰る家ではなくなっているかもしれない。そうなれば、彼が森へ入っていく姿を見送ることも、森から帰ってくる姿を見ることもないだろう。

 

 会わないなら、苦しいことも、悲しいこともないかもしれない。

 オーランドが与えてくれた新しい土地で、男爵領の方角に広がる遠い空を眺め、ライアンは無事だろうかと、祈るひびの中で、今日という日も、学院生活も思い出のなかで風化していくかもしれない。


 心臓がぎゅっと萎んだ。


(私は、それで耐えられるかしら)


 ここにいなさいとオーランドに言われて、特定の土地に縛られて、待ち続けることができるか。

 上の空でライアンがふってくれる話題に相づちを打ちながら、クリスティンは自問する。

 鬼哭の森の方角を遠くから眺める心像を描く。

 故郷を捨てて、逃げるために、王都にきたつもりはなかった。


(待っているなんて、きっと耐えられない。だって、私にだって……)


 答えを導きだす前に、昨日、ライアンと出くわした横道まできてしまった。


「じゃあ、またね」


 素早く身を翻したクリスティンはライアンに手を振り、逃げるように走り去ろうとした。

 急なクリスティンの動きに、ライアンはとっさに腕を伸ばし、手首を掴んだ。

 腕を引かれ、クリスティンは動きを止める。

 顔をあげると、緊張した面持ちのライアンと目が合った。

(まだ何かあるの!)

 身体が強張った。


「ティン、明日の夕方には、答えを聞けるだろうか」

「明日!」


(いくらなんでも早すぎるでしょう!)

 答えを出すまでは数日あると高をくくっていた。こんなに早急に返答を求められるなど想像もしていない。


「早めに答えが欲しい。

 そうすれば、どんな風に一日回ろうかとか、色々、俺も、考えておけるから。

 絶対に一緒に回って良かったって思えるようにするから。

 だから……。

 だから、答えは、早めに、欲しいんだ」


 早口になったり、たどたどしくなったりとライアンの口調は波打っていた。掴まれた腕から彼の緊張が伝わってくる。クリスティンの心臓も早鐘を打ち始めた。


「朝は忙しいし、昼間はこっちで働くから、会える時間なんて約束できないわよ」

「なら一緒に夕方食べに行かないか。遅くならない時間で。昨日みたいに家までちゃんと送っていくから。

 待ち合わせはここで。仕事終わりなら、ここを必ず曲がるだろう。迎えに来るから。ここに六時に立っている」


 クリスティンは眉間に皺を寄せ渋い顔になる。


(もう、なんで断りにくいタイミングを選ぶかなあ)

 

 貴族のお屋敷でティンが働いている風を装うなら、帰宅時間が定時で当たり前だ。いつも帰宅時間が違うほうが、変だろう。

 そもそも断るか否かという段階で、すでにぐらつきつつある。これ以上押されたら、なし崩しで了承してしまいそうだった。

 これからを思えば、必死なライアンを無下にもできない。


「ここで、待っているから。必ず、待っているから」

「仕事が早く終わることもあるのよ」

「なら一時間早く来て、待っている」

「そんなの悪いわ」

「だけど、連絡もとりようがないし……。どこの屋敷だと教えてくれたら迎えに行ってもいい」


(そこまでされても困る!)

 ひええと妙な悲鳴をあげそうになり、クリスティンは必死にこらえた。


 パン屋を営む夫婦はオーランドの使用人の実家だとすでに知っていたライアンは、彼女が働いている屋敷がオーランドの屋敷の可能性が高いと勘付いていた。

 彼女が話してもいないのに、仕事先を知っているというのも気味悪がられるかもしれないと、ライアンは彼女が言わない限り知らないふりをすると決めていた。


 クリスティンはクリスティンで、坂をゆっくり歩いてきていたため、マージェリーとの待ち合わせ時間が気になっていた。

 ここで、ライアンと押し問答を繰り返していたら、いつまでも解放されず、肝心のマージェリーと約束した時間をすぎてしまうかもしれない。


(公爵家のお茶会に、平民が遅刻していくなんて、言語道断よ!)


 この際、明日のことは明日考えようと、なんとかこの場から逃げる方向にクリスティンの意識は傾いた。


「迎えはいいわ。それなら、ここで六時に待ち合わせね」

「ありがとう。明日、必ず、ここで、六時に待っている」


 クリスティンから手を離したライアンが破顔する。

 その笑顔を見た途端、クリスティンの方が照れて、顔が熱くなった。


「じゃあ、また明日」


 クリスティンはすぐにライアンに背を向けて走り出した。


(やだやだやだ。ライアンって、なんて面倒くさいの。本当に面倒くさいわ)

 

 熱くなった頬がいつまでも冷めない。

 真っ直ぐに向けられる好意が照れくさい。

 冷めない熱を持て余しながら、クリスティンはオーランドの屋敷へと駆けていった。



 



 ライアンはクリスティンの背を切なげに見送った。思わず握ってしまった手首の細さと柔らかさが手のひらに残っており、その感触を思い出すようにそっと握った。

 彼女の背が彼方に消え、やっと城に向かって歩き出す。


 昨日、サイモンの忠告を受けたライアンは、待っているだけではダメなんだと意識するようになっていた。


(うざいと思われるかな)


 嫌われたら元も子もないとはいえ、踏み出さなければ前にも進まない。 

 デヴィッドのことを呆れることができないほど、臆病な自己を自覚して、前に進もうと決めた。


 彼女が隣に立つ見知らぬ誰かに微笑んでいる。

 そんな姿を、森から戻ってきて眺める絶望はない。


(誰にも渡したくなかったなんて後で思っても遅いんだ。大人のふりをして、分かったふりをして、失ってから後悔しては、きっと、もっと、遅いんだ)

 

 ぞわりと悪寒が走った。

 心底から怖ろしいほどの黒々しい感情がわき上がる。

 彼女が笑いかける誰かを思い描き、腹の底が痛む。

 唇の内側を薄く噛み、目を眇めた。


(この気持ちを無視してはいけない)


 ハンマーでがんがんと叩くように、脳天が痛んだ。

 こめかみを人差し指で抑える。


(なにもしないで絶望を味わうなんてまっぴらだ。たとえ、誰かが隣にいたって諦めたくない。いや違う、諦めちゃいけないんだ)


 憤怒と嫉妬に喉が息が詰まる。

 息苦しさを覚えた。

 ゆっくり大きく息を吸い、今まで味わったこともないような嫉妬や怒りを含む黒々しい感情を鎮静化させ、その感覚を逃すように、息を吐く。


 母を失ったこともある。兄が産まれた時に飼い始めた犬を見送ったこともある。幼心の喪失経験が、彼女を失う感情に重ねているのかもしれないとライアンは推測した。


(嫌な気持ちだ。こんな気持ちを無視して生きてたら、気が狂ってしまいそうだよ)


 感覚の出所は掴めなくとも、こんな黒い感情を現実に味わいたくなかった。

 彼女が誰かに取られてしまうかもしれないという仮想の恐怖でさえこうなのだ。これが現実となっては、己がどうなるか。

 想像もしたくなくて、頭を振った。


「明日の夜の約束も取り付けたしな」


 拳を握り、肚に力を籠める。

 前向きな意思が浸透すると、清涼感あふれる勇気が湧いてきた。


(肝心なのは、自分からアプローチすること! なにもしないで、指を咥えて眺めるなんて、愚かなことはしないんだ)


 


 


 




 一方、オーランドの屋敷についたクリスティンは、昨日のベリンダの提案が奏功したお礼を告げ、かくかくしかじかとベリンダに事情を説明しながら、身支度を済ませた。

 クレスの恰好になれば、見た目はすっかり見習い少年騎士だ。

 

 屋敷には予定より遅くついたため用意するだけの時間しか残されていなかった。ベリンダの回答を聞く余裕はない。

 マージェリーとの約束時間は一分一秒たりとも遅れることはできなかった。

 ベリンダも難しい状況のため、すぐに答えることはできず、明日までに考えておきますとクリスティンを送りだした。






 屋敷を飛び出したクリスティンは、息をきらして騎士団の稽古場門前に走り込んだ。


 稽古場の門の横に、馬車が停まっており、その横にエイドリアンが立っていた。手を振って迎えてくれた彼に、クリスティンはひたすら謝った。

 エイドリアンにまあまあと宥められて、横付けされた馬車に乗るように促される。

 御者が扉を開けてくれた。

 先に乗るようにとエイドリアンに言われ、御者に軽く会釈をしながら、クリスティンは馬車に乗ろうとした。

 ところが、馬車の入り口をくぐる中腰の態勢で固まってしまう。


 馬車にはすでに人がのっていた。

 しかも二人!


 馬車から飛び退きそうになり、後ろにエイドリアンがいると気づき、硬直した。

 唇をわななかせるクリスティンは、心のうちで絶叫する。


(なんでライアンと殿下ものっているんですかぁ!!)



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