128:思いもよらない忠告④
(茶会、茶会って言わなかった? 言ったわよね!)
ライアンの一言にクリスティンの背にぶわっと嫌な汗が噴き出た。
(まさか、そのお茶会。私がこれから行く、マージェリー様のお茶会なんじゃ……。だとしたら、さっき言っていた友人は、デヴィッド殿下!)
ばっとクリスティンはライアンを睨み上げる。口元に手をそえて、顔を寄せる彼とばっちり目があった。
クリスティンの黒目にライアンの顔が映りこむ。
彼女の艶っぽい茶系の瞳は鏡のように己の顔を映せば、ライアンの身体はぼっと急激に熱くなった。
「ライアン」
クリスティンが名を呼ぶと、その微かな息がライアンの顎に吹きかかる。
あまりのことにライアンは、仰け反るように身を引いた。
急に引き下がろうとするライアンの腕をクリスティンの片手がつかむ。ぐいっと腕を強く引かれ、引き寄せられたライアンは瞠目し、火照る全身が硬直する。
燃えるような彼女の瞳に射貫かれて、一瞬、息が止まってしまう。
「私、これで仕事終わりなの。良かったら、一緒にメイン通り、歩かない」
そのセリフは、クリスティンにとってみれば『詳しい話が聞きたいの、ちょっと顔貸して』という意図であったのだが、先ほど素敵な恰好と褒められていたライアンには『素敵なあなたと一緒に歩きたいの』と聞こえていた。
ぐわんと脳髄を揺さぶられたライアンはぶわっと一気に昇天しかけ、「もちろん、喜んで」と、辛うじて答えた。
「すぐに出かける準備をするわ」
ライアンの腕から手を離したクリスティンは、持ってた紙袋をライアンに押し付けた。慌てて、ライアンは紙袋を抱きとめる。
クリスティンは勘定場に引き返す。棚に仕舞った上着を手に取った。羽織りながら、調理場に「お疲れさまです」と声をかけるなり、素早く勘定場を回り込んだ。
早足のクリスティンが、歩調を緩めることなく、ライアンの肘に手をかけて、引っ張った。
「さあ行きましょう」
クリスティンに聞こえてしまうのではないかと思うほど、ライアンの心臓は早く高く鳴り響いていた。
両手がふさがっているライアンの代わりに、クリスティンが扉を開く。
道に出るとライアンが「ティン」と掠れた声で呼びかける。
呼びかけられたクリスティンは、立ち止まりライアンを見上げた。
締まる扉が、カランカランとベルをかき鳴らし、徐々に小さくなる。
「どうしたの?」
「いや、あの……」
ライアンの視線が、腕に絡まるクリスティンの手に向けられる。
腕を掴まれ困惑しているのだと気づき、クリスティンはぱっと手を離した。
「ごめんなさい、勢いあまって掴んじゃって」
「それは、いいんだけど……」
パンが入った紙袋と上着を腕にかけるライアンは両手が塞がっている。
「紙袋、私が持つ? 両手が塞がっているのは不便じゃない?」
「いいよ、パンは軽いから……」
「そう? 遠慮しなくていいのに」
(それなら腕にまた手を添えてほしいんだけど……)
言いたくても、言えないライアンは、さっぱりとしたクリスティンがじっと見つめてくる様に耐えられなかった。ふいっと顔を逸らす。
「行こうか」
名残惜しい気持ちを押し殺し、ライアンは呟いた。
並んでメイン通りに向かって歩き始める。
「ところで、これから向かうのは、昨日言っていた、新しい仕事先のお屋敷なのか」
「もちろん、そうよ」
嘘を見抜かれないよう願いつつ、クリスティンは肯定する。
「なら、そっちの仕事がはっきりしないと、収穫祭の予定は見通しつかないんだね」
「ええ、パン屋の状況は分かったけど、お屋敷の予定はこれから聞いてみるのよ」
「なら早くても明日にならないと収穫祭のことははっきりしないんだな」
気落ちするライアンをみて、嘘をつく罪悪感を抱くクリスティンは、どことなく気の毒に感じる。
「そうなの。ごめんなさいね」
「いいさ。俺が早く答えを聞きたくて仕方なかっただけだし……」
「ごめんなさい。明日か明後日にならないと答えを出せなくて」
「仕方ないことさ。ティンが謝ることじゃない。気になって、いてもたってもいられなかったのは俺の方だし」
「慌てなくても、まだ時間があるのにね」
「そうなんだけどさ。どうしても来週の収穫祭はティンと歩きたくてね。断られたくなくて、待ちきれなくなってしまったんだ」
(急にはっきり言ってくるのね。昨日は、いつでもいいみたいな雰囲気だったのに……)
昨夜別れた時と何かが違うと察したクリスティンは、ライアンの横顔を見つめる。彼がドナルドとサイモンに会っていたことを知らないため、急な心境変化が解せなかった。
クリスティンの視線に気づいたライアンが目を細める。
その視線が妙に切ない憂いを帯びていて、クリスティンも(なにかあったのかしら)と心配になった。
「ティンに伝えたいことがあってさ。実は、俺、来年は王都にいないかもしれない。いいや、たぶん、いないんだ」
(学院を卒業するからよね)
分かっていても、知らないふりをするクリスティンは、黙ってライアンの話に耳を傾ける。
「平穏に王都をまわっていられるのも今年が最後になる。来年はまだよくても、おそらく再来年には危険なところに行かなくてはならなくなるはずなんだ」
「危険なところって……」
「そこまではちょっと言えないな」
本音を押し殺す笑みをライアンが浮かべた。
同時に、ざわっとクリスティンの身体に悪寒が走る。脳裏に森の像が結ばれた。
(森に行くんだ)
オーランドと同等の力を持っているライアンなら、自明なことだ。
「俺にとって、ゆっくりティンと収穫祭を歩けるのは今年が最後だと思う」
「……」
(ライアンは鬼哭の森にいくんだ)
ずきんとクリスティンの胸が痛んだ。
カスティル男爵領から離れ、危機意識が薄れていたクリスティンの身体に、古城で暮らしていた時の緊張感が蘇る。
(おいちゃんと一緒に行くの……)
ぶるっとクリスティンは震えた。
瘴気に侵される領地。去っていく領民の背中。作物が育ちにくくなる畑。おびただしい黄貂に、巨大な鶏。森から立ち上る黒々しい煙とぽっかりと空に浮かぶ月。
城で働いていた人々が、一人二人と消えていくなかで、食事の量も減っていった。
努めて笑って、楽しく過ごす努力をしながらも、日常はがらがらと崩れ去るばかりであった。
失っていく悲哀が浸透し、クリスティンの身体がずきりと痛んだ。
「そんな顔しないでよ。王都を離れるだけで、必ず戻ってくるんだからさ」
咄嗟に、クリスティンは片手を頬にあてがった。
(私、一体どんな顔をしていたの?)
「そんな泣きそうな顔をしないでくれよ。俺の方が切なくなるよ」
(泣きそう、私が?)
目尻の端がうっすらと潤んでいた。
その湿り気が眼球全体にいきわたると、視界が薄くぼやける。
「私……」
悲しい。
辛い。
切ない。
どんな言葉で表したらいいか分からない感情が胸に渦を巻いた。
領地が侵され、日々の暮らしが瓦解していく哀しみ。
感情が噴出し、クリスティンの足を重くする。
(残されるのも辛いわ)
待ち続けること。
いつ帰ってくるかと願い続けること。
旅立つのも辛いだろうが、残されるのも苦しい。
残されるぐらいなら、一緒に行きたい。
一緒に行けるだけの力はあるのだから……。
ぐるぐると想いが巡り、混じり、濁れば、クリスティンはいったい何を感じているのかさえ分からなくなった。
渦巻く感情が、自分のものであるかさえも不確かに感じてしまう。
どこからあふれてくるのか捉えられない気持ちに戸惑いながらも、一つだけはっきりと確信した。
(これだけは確か。ライアンが森に行く。おいちゃんと同じように……)
ライアンは、クリスティンの弱点を、我知らず踏み抜いていた。