127:思いもよらない忠告③
翌朝、クリスティンはすっきりと目覚めた。
稽古場で身体を動かし、湯船で暖まったせいか、身体が羽のように軽い。
上半身を起こし、腕を前に伸ばす。ピンと張った両腕から力を抜き、だらりとたらすこと、天井を見つめ数秒呆ける。
(心配事はあっても、身体が元気だと前を向けるわ)
「よし」と気持ちを切り替え、ベッドから飛び出した。
クローゼットに駆け寄り、パン屋の売り子姿に手早く着替える。
今日はおかみさんに聞きたいこともあるため、早めに部屋を出た。
階段を降りて、細道を抜ける。まだベルのかかっていないパン屋の扉を開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
扉を閉め、転げるようにクリスティンは勘定場に体当たりし、身を乗り出す。おかみさんの顔を覗き込むなり、「教えてほしいことがあるんです」とお願いした。
クリスティンの顔を見たおかみさんは目を丸くして、勘定場を整えていた手を止めた。
「何を知りたいんだい? ティン」
「来週行われる収穫祭とは、どんな行事なんですか。私、王都にきたばっかりで、なにも知らないから教えてほしいんです」
「そっか、ティンは初めてだものね。
収穫祭とはね。毎年行われる、今年の実りに感謝するお祝いだよ」
「なら、その収穫祭の時は、パン屋の仕事はあるんですか?」
必死に訊ねてくるクリスティンを見て、おかみさんは「ははん」となにかを理解した顔をする。
「友達と夜店をめぐるのも楽しいお祭りだ。仕事があるかないか、気になるところだろう。心配しなくていいよ。朝から出かけるんなら、その日はお休みしてもかまわないんだからね。二日続けて、友達と約束して、お休みを希望しても、うちはなにも言わないよ。安心おし」
「いいえ、いいえ。そういう意味ではないんです」
休んでいいと太鼓判を押されてしまい、ライアンの誘いを断る口実が欲しかったクリスティンは慌ててしまう。
「遠慮することはないさ。折角の収穫祭だ、存分に楽しんでおいで」
「違うんです。仕事の休みの話では、ないんです。あくまで、パン屋の仕事についてです。ここの仕事はいつもと変わらないんですか?」
「もちろん、いつも通り仕事はあるよ。それも昼間が忙しい。その日は、店を開いても九時には閉める。その後は、屋台を出す店主に卸すパンを焼き続けることになるんだ」
「仕事、あるんですね」
クリスティンは安堵する。これで仕事がないと言われたら、ライアンを断る理由が無くなってしまう。
「あるけれど、ティンはきにしなくていいんだよ。うちは焼けばいいだけだけだからね。それぞれの店主の使いが買いに来て運んでいくから、お客さんはいないに等しい。来店者は少ないし、来ても大量に買っていってくれるから、私一人でも十分応対できるのさ」
胸を張るおかみさんは人の良い笑顔を浮かべる。
一方、希望を失いかけるクリスティンは、気持ちがずんと沈みこむ。
「おかみさん一人でって……、毎年、大変じゃないんですか?」
縋る思いでおずおずと問う。
「毎年のことだからね、慣れてるさ。最終日の夕方に店を閉めれば、翌日はお休みするからね。少々疲れても、なんてこともないんだよ」
「疲れるというなら……、そのお仕事、大変は大変なんですよね。なら、人手はないよりあった方がいいですよね。ということは、少しはお手伝してもかまわないんですよね」
「もちろん、手伝ってくれてもかまわないさ。ただ、いつものペースでパンを焼いていくだけだからね。面白いことはなにもないよ。
初めての王都の収穫祭なら、メイン通りを散策するだけでも、いつもと違う王都の賑わいが見れて楽しいものさ」
「それはそうなんですけど……」
「もちろん、友達と収穫祭をまわりたいなら、私たちに遠慮することなんてまったくないよ。
パンを焼くことは毎日できても、お祭りは年に一回しかないよ。
最終日の夜には花火だって打ちあげるんだよ。
せっかく王都に来て、年に一度の賑やかで華やかなお祭りを楽しまないのは損というものだよ」
「……。そう、ですね」
おかみさんの裏表ない善意が眩しくて、ライアンと関わりたくないからという後ろ向きで個人的な理由で働きたがっているクリスティンは、後ろめたく感じてしまう。どうしてもここで働きたいんですと懇願する気にもなれず、引き下がってしまった。
男爵領から出てきて間もないクリスティンである。王都一番のお祭りと言われ、心がぐらついたのは否めない。
「さあ、今朝もいつも通り、始めなと! 開店準備まで、もう間はないよ」
「はい」
朝は忙しい。無駄話に時間を割ける余裕はないのだ。
繁忙時間が終わり、クリスティンは調理場にいるおかみさんに事情を話し、休日にしては早めにあがらせてもらう了承を得る。
店を出たら、すぐに屋敷へと向かおうと思ったところで、扉が開くベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
調理場に向けていた体を捻り、クリスティンは店内に顔を向けた。
仕事あがり間際にくるいつもの人が後ろ手で扉を閉める姿が目に入った。
「やあ」
首を傾げ、恥ずかしそうにはにかむ彼に、クリスティンは心のうちでため息をついてしまう。
「ライアン……」
「おはよう、ティン」
近づく彼と勘定場越しに向き合った。
「今日もパンを買いに?」
「ああ。ミルクパンがあれば」
ちらりと籠をみると、四つ残っていた。
「四つ残っているわ」
「では、それをもらいたい」
紙袋を手にしたクリスティンが、棚にならぶミルクパンを入れにいく。その間に、ライアンはポケットから小銅貨二枚を取り出し、台に置いた。
戻ってきたクリスティンが、パンが入った紙袋を渡そうとしてためらう。
上着を腕にかけたシャツとトラウザーズ姿は、シンプルな装いだが、いつもより質の良い。腕に垂らす上着も上質であり、襟ぐりやそでぐりに細やかな刺繍が施されていた。ちらりと見えるボタンも意匠が凝らされている。
(この人、こんな一張羅で、どうしてここに?)
急に動きを止めたクリスティンに、パンを受け取ろうとていたライアンの手が空に浮く。
「どうした?」
「ライアン。今日は貴族みたいね。ここにくるまで、目立たなかった?」
照れたライアンが視線をそっと逸らす。
「実は、今日は出かける用事があってさ。どうしても、それなりの恰好をしていなくてはいけなかったんだ。もう、ティンには貴族だってバレているから、いいかなと思ったが、やっぱり浮くかな?」
「そうね。そんな素敵な恰好をして歩いていたら、通り過ぎる女性がみんな振り向きそうよ」
「そうかな」
妙に嬉しそうにライアンが目を細める。
なんでそんなに嬉しそうに、はにかむのかクリスティンは分からず、小首をかしぐ。
ただ、ライアンが出入りしていると学院の誰かに見られ、芋ずる式にここで働いていると気づかれては困ると考えた。
「あんまり目立つと、ちょっと困るわ」
「そうか……。貴族は迷惑か」
「迷惑というか。目立ちそうで、恥ずかしくなってしまうわ」
「そっか。今まで通り、気を付けた方が良さそうか……」
「うん。そうしてくれると嬉しい。
出かける用事って、貴族の集まりなの?」
「実は、友人の付き添いで、行かなくてはいけない場所ができてね」
「行かなくてはいけない場所?」
ここでライアンは身を屈めて、口元に片手を寄せた。
小さな声で囁くと察したクリスティンが片耳を寄せる。
「実は、ある貴族の茶会に友人に乞われて、行くことになったんだ」
話を聞いたクリスティンは、(んっ!)と眉を顰めた。