124:噛み合わない二人④
袖を掴むクリスティンの手にライアンは自らの手を重ね、そっと降ろした。
「行こう。これ以上は、遅くなるばかりだ。俺たちが出歩ける時間ではなくなってしまう」
ライアンは歩み出し、クリスティンの肩を押す。流されるままに、クリスティンは体の向きを変え、二人は並んで通りを下り始めた。
互いに声をかけることもなく、黙々と歩く。
(ライアンが望んでいるのは、収穫祭で私と一緒に歩きたいだけ……、ただそれだけなのよね)
貴族のご子息とは思えない、なんとささやかな望みだろうか。
立場や家柄を考えれば、なんでも手に入りそうなのに、望むことが素朴過ぎる。
(不思議な人。ティンに対する時は、クリスティンとして会う時とは別人のようだけど……)
この照れたり、不器用だったりする姿こそが、一番、彼らしいものなのかもしれない。
前を向いていた視線を横に流せば、ライアンの横顔が見えた。
見た瞬間、ライアンもクリスティンを見つめた。
どきりと心臓が跳ねたクリスティンは、急に頬が熱くなった。
「らっ、ライアンって、貴族なんだよね」
「……まあね」
「なのに、一緒に収穫祭を歩きたいなんて、まるで普通の人の様な事を望むのね」
ライアンだってオーランドと同じように、クリスティンが腰を抜かすほどの裕福な家で育っているはずだ。
背景を考えると、急にとんでもない高価な贈り物を用意してきてもおかしくない。受け取って仰天するクリスティンを見て、なんで驚くのか分からないという顔をしたって納得できる。
オーランドが用意した部屋がいい証拠だ。
ライアンだって、似たような感覚であってもおかしくないはずなのに……。
(おいちゃんと比べては申し訳ないけど。
おいちゃんなら、私が収穫祭に行きたいと言わない限り、一緒に行くことはなさそうよね。むしろ、私が真っ白になって、味も思い出せないくらい高級な店に連れいきそうじゃない?)
ライアンに至ってはそんな雰囲気はまるでない。
オーランドもライアンも裕福な王都育ちなのに、どうしてこうまで違うのか。クリスティンには解せなかった。
「俺は、ただ、ティンに俺自身を見てほしいだけだから……」
照れながら、ライアンは語る。
「俺は三男で。ちょっと複雑な事情があるんだ。それを差し引いても、普通に考えたら、我が家の子息としていられるのは成人して結婚するまでなんだ。俺みたいな立場だと、結婚したら家を出ることになる」
「家を出る?」
「そう。上位貴族の家に生まれた三男や四男あたりはみんなそうだよ。昨今はそこまで兄弟姉妹が多い家は珍しいとはいえね」
「家を出た後はどうなるの」
「これは一般的な話だけど、公爵家や侯爵家に生まれた三男や四男あたりは、子爵や男爵といった下位の爵位を賜るんだ。子爵や男爵として独立し、歴史上少々の例外はあっても、大抵は騎士の家系として残ることになる。そして、その家に騎士または高位文官の家長がいなくなると家は潰されることになるんだよ。滅多にないけどね。潰れても、平民になるだけだし」
「じゃあ、ライアンも子爵や男爵になるの」
「俺の場合は例外でね。叔父もそうだが、事情がある場合は家に留まることもあるんだ」
「複雑そうね」
「そうでもないよ。俺は、いずれ家を出るし、出たいと思っているから。手本になる人も何人かいるし」
クリスティンがたつ反対側の手を首に当てて、ライアンはふいっと視線をあらぬ方向に流した。
耳も首も頬も赤く色づいているが、暗がりにいるため目立たない。
「……俺に家なんてあってないも同然だし。最終的には、きっと裕福な平民ぐらいのところに落ち着くんだ。そういう暮しをしている人が身近にいる」
(おいちゃんのことかな?)
直感でクリスティンはそう思った。
同時に貴族であったり、オーランドと同じ力を有していても、立場によってそれぞれ違うのだと、クリスティンは初めて知った。
「家督を継ぐのは兄だし。俺は俺でしかないから。
俺のことを見てほしいだけなんだよ。
肩書や家なんて関係ない。俺はここにいて、目の前にいるのだから。立場とか、そんなよけいなものを全部とっぱらって、ただ俺を俺として見てほしい。本当に、それだけなんだ」
あらぬ方を向けていた顔をクリスティンに向けて、ライアンははにかむ。
「ティンと一緒に、成人する前の収穫祭を、ただ一緒に過ごしたい。そんなささやかな思い出が欲しいんだ」
街灯がライアンの顔を染め、陰影をくっきりと浮き上がらせる。馬車も走り、店は煌々と灯りを灯す。昼間とは違う活気のなかを、大人たちが行きかっている。
喧騒は耳からそぎ落とされ、心音だけが強く打ち始める。
クリスティンはライアンから目を逸らせなくなくなった。
「ごめんなさい」
呆けたまま、ぽつりと零れた言葉は謝罪だった。
首に添えた手を降ろし、ライアンが両目を瞬く。
「なにが……」
「色々……」
ライアンには今までも、そして、これからも、何かしら関わるのだとクリスティンは噛みしめながら、答えていた。
「いいんだ。仕事は大事だろう。生活もあるしな」
「……」
これにはクリスティンの方が黙りこくってしまう。
仕事は必ずしも生活のためではないのだ。
クリスティンとして、魔力を解放しない方がいいというウィーラーとオーランドの判断によるところが大きい。
(ごめんなさい、ライアン。本当に……)
真摯なライアンに対し、不誠実な対応をしているようで後ろめたい。
じんわりと胸が痛んだ。歩調に合わせてクリスティンは語り続ける。
「あのね。仕事の休みについて、相談してみるね」
「……、無理しなくてもいい」
「違うの。まだ、聞いてもいないでしょ。だから、ちょっと、聞いてみるだけ、それで、時間が合いそうだったら、ね」
「本当か。それは嬉しいな」
「嬉しい?」
「ああ、嬉しいよ」
ささやかな喜びをかみしめるライアンをクリスティンは不思議そうに見上げる。どうして、そんな風に、ただ素直に喜べるのか、理解できなかった。
「俺は、その日一日あけておくよ。来週の休日までには、必ず何回かパンを買いにいくから、その時、どこかで予定を教えてほしい」
「分かったわ」
拳一つ分、隣合う二人は距離をとり、パン屋まで歩いた。
細道の手前で二人は立ち止る。
「ありがとう。送ってくれて」
「いいよ。また来週、どこかでパンを買いに行くから」
「うん」
ばいばいと手を振るクリスティンに、ライアンは微笑みかける。
今まで見たこともないような優しい笑みに照れたクリスティンは、大急ぎで細道に駆け込んだ。
(この人、本当になんかいや)
熱くなった頬に両手を添えて、部屋に通じる階段を駆け上がった。