112:特別な演武場④
前方には騙しの風刃。
後方からは首元めがけて、クリスティンの剣が飛んでくる。
そんな状況下で、ライアンはとっさに前のめりに転ぶように両膝を地面すれすれに落とした。
すぐさま両手を地につけると、身体を浮かす。交互に入れ替える腕一本を軸に、地上すれすれを旋回し始める。
頭上で、クリスティンが風刃を薙ぎ払う。
風刃が梁にぶつかると、ライアンはその長い足をもって、クリスティンの両足首を蹴り払った。
ふいを突かれたクリスティンは足裏が地面から浮き、バランスを崩す。
ライアンは間髪入れず跳ね起きた。
まだ剣を持っているクリスティンの手首をつかみにいく。
右手でしっかり握る柄に添えられていた左手は浮きかけている。
右手首を掴みにいったライアンは、もう片方の手でクリスティンの胸ぐらをつかんだ。
右手首を掴んだ手の指二本をクリスティンの手のひらに滑り込ませ、腕を外側に押しのけながら、手首を逸らさせ、二本の指の力で剣の柄を弾いた。がらんと剣が地面に落ちる。
クリスティンの胴体に体重をかけたライアンは、そのまま彼女を地面に押さえつけた。
負かせた高揚感にライアンは震えた。
「俺の勝ちでいいだろ」
押し倒され、呆然とするクリスティンに勝ちほこるの笑みを向けた。
置かれた状況にクリスティンは真っ白になる。体は熱くなり、顔は火がついたように熱い。
目の前にはライアンの顔。
それだけではない、手首を捕まれ、身体ごと地面に押し倒されている。
息ができなくなりそうなほど、びっくりした。
「俺の勝ちだ、まだやるか? クレス」
楽しそうなライアンにクリスティンは思いっきり頭を左右に振った。
(無理、無理、まずはそこどいてよ、どいて、どいて)
泣きそうだが、ショックで声もでない。なにがショックなのかも分からないほど内面では取り乱していた。
ライアンは「そうか」と口元をほころばせながら、クリスティンの手首から手を離し、立ち上がる。
「やっぱり、強いなあ。発想もすごい。風刃でだまし討ちしといて、剣で首を狩ろうなんて、えげつなさすぎだろ」
首をかしげる楽し気なライアンを見つめるクリスティンは涙目だ。
上半身をもたげ、恨むような目でじっとライアンを睨んだ。
口元をほころばせるライアンがしゃがむ。
「そんなに負けたのが悔しいのか? 負けず嫌いだなあ。子どもの時はそういうものだよな。俺も小さい時ほど、身の程知らずで、なんどもネイサンに挑んだものだ」
クリスティンは座り込む。ライアンの話なんて半分も聞けていない。心臓がばくばく鳴るのが収まらなくて、ひたすら困っていた。
胸元の衣服を抑える。
大きく息を吸って、吐いてを繰り返した。
(ライアン。大きかった。びっくりした。こんなに大きくて……)
うつむき気味なクリスティンの目の前に手が差し伸べられる。
恐る恐る見上げると、清々しい顔をしたライアンがいた。
ここにいるのは二人だけ。
クリスティンはさらに強く胸元の衣類を掴む。
悲しいような苦しいような、切ない気持ちが沸き立ち、体中に鳥肌を立てた。
ライアンは小首をかしげ、どうしたと言わんばかりに笑う。
穏やかな笑みに、目尻に涙が再び顔を出し、クリスティンは胸打たれる。
心中にさっと風が吹いた。
それはそよ風のように温かく、クリスティンを包み込む。
目尻に溜まった涙が引いていく。
じわっと暖かな想いが体中に浸透し、指先から脳天にまで充満すると、びっくりしていた心が宥められていた。
(大丈夫)
安心感が急に降ってわいてきて、心を落ち着かせた。
ためらいながら、クリスティンはライアンの手を取る。
引き上げられ、立ちあがった。
目の前には長身のライアン。
クリスティンの身長では、彼の胸辺りに視線がくる。
「悪いな、髪も服も土まみれだろ」
そう言うと、ライアンはクリスティンの肩に手をのばし、ぱっぱっと払う。
クリスティンはそんなライアンの手を自らの手でぱんと弾いた。
「いい。それぐらい、自分でほろう」
ライアンに触れられた瞬間、一度はおさまった心臓がまた跳ねた。身体も顔も火照ってくる。
動揺を知られたくないクリスティンはぎっとライアンを睨む。
ライアンはぱちぱちと両目を瞬かせ、片頬を人差し指でかきはじめた。
「そうだよな。負けて悔しい時に、労わられても嫌だよな。悪かったよ」
(ちがう。そうじゃない。そうじゃないの)
違うけど、違うと言えない。正体も明かせない上に、理由もうまくまとめられる気がしなかった。
ライアンが負けず嫌いで不機嫌だと勘違いしてくれるならそれもいい。
不貞腐れた表情でクリスティンは衣服の土を払う。悔しくて、赤ら顔になって泣きそうだと勘違いしてもらえていることに、どことなくほっとしていた。
落ちた剣を拾い鞘に納めて顔をあげる。
ライアンはすでに扉の傍に立っていた。手には紙袋を抱いている。
「さあ、アップルパイを食べよう」
「……はい」
不貞腐れたままに返事を返す。
扉を開きながら、ライアンは言った。
「髪、乱れているぞ。束ねている紐がほどけそうだ」
はっとクリスティンは両手を頭に手を当てる。髪を結わえている紐が斜めに歪んでいた。束ねる髪を二股に分けると両手でひっぱり、紐をぎゅっと締め直した。
外に出ると、稽古場の壁を背にして、ライアンとクリスティンは並んで座った。
袋の中からアップルパイを取り出したライアンは、袋ごとクリスティンに渡した。
クリスティンは大人しく紙袋を受け取る。
挑発されたり、戦ったり、びっくりしたり、恥ずかしくなったり、身体が火照ったり、目まぐるしく感情が動かされ、どっと疲れた。
おとなしくクリスティンは紙袋を開く。中にはアップルパイが一つだけあった。ミルクパンはおそらくネイサン近衛騎士団長へのプレゼントだったのだろう。
(ライアンは、私のことを剣豪オーランドの直弟子クレスと思っていて、子どもと思っているのよね)
ライアンの話しぶりから、今一度立ち位置をクリスティンは意識し直す。なぜか、余計に釈然としなくなり、どうにも居心地が悪い。
(ばれていないのは良いことのはずなのに……)
袋の口から少し出したアップルパイを、紙ごと持って食べ始めるクリスティンの不機嫌な顔を見たライアンは、負けて悔しいのだろうととらえ、勝気な少年に自分を重ね微笑ましく思っていた。
もそもそとゆっくり食べるクリスティンの横で、ライアンはアップルパイを数口で食べつくした。
食べ終えるなり、ライアンはクリスティンに話を振る。
「クレス。お前の名前って、本当はクレス・カスティルなのか?」
問われた瞬間、(なんでそんな方向にいきつくの!?)と目を真ん丸にしたクリスティンが顔をあげ、ライアンを凝視した。