109:特別な演武場①
ティンとして、身支度を整えたクリスティンは朝からパン屋の売り子として勘定場に立つ。朝一番の繁忙時間を終えて、ほっとした時だった。
カランカランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
現れたライアンを見て、クリスティンは固まった。彼は今日も少し照れた表情で、はにかんでいる。
(ああ、学院と雰囲気がまったく違うわ……)
気が遠くなるようだったがそこは仕事だ。嫌な顔はせず、ライアンに笑顔をむける。
歩んできたライアンは、勘定場越しにクリスティンと向き合った。
「今日は、ミルクパンが欲しいんだ。残っているだろうか」
「はい、ありますよ」
「六個ぐらいあったらありがたいんだが……」
クリスティンは棚の籠をちらりと見る。十個前後は残っていた。
「六個準備しますね」
「後、アップルパイは残っているだろうか」
「ありますよ」
「それも欲しい。出来たら、二つ」
「かしこまりました」
アップルパイはギリギリ二つ。他のお客さんが来る前に確保しようと、クリスティンは二つのパンの籠を勘定場に持ってきた。
そこから、ライアンの希望する数を紙袋につめ始める。
「お気に入りのパンができたんですね」
「ミルクパンは俺の師が好きでね。買っていくと喜ぶんだ」
「へえ」
「アップルパイは友達と食べようかと思っている」
(友達? デヴィッドのことかしら。それとも学院の同級生?)
疑問に思うものの、顔には出さない。
「会えるかどうかは分からないんだけど」
「会えると良いですね」
社交辞令にもライアンは嬉しそうにほほ笑む。
袋に詰め終わったパンと中銅貨一枚を交換した。
「ありがとう。また来るよ」
「お待ちしております」
嬉しそうに去っていくライアンをクリスティンは見送った。
姿が見えなくなってから、勘定場に両手をつく。
変な緊張感がどっとの抜けて、脱力したクリスティンは、情けない顔でため息を吐く。
(しんどいわあ。
なんでこんなに、学院とパン屋で表情が違うのかしら。もしかしたら、これから稽古場にもいくかもしれないでしょう。そしたら、また会うかもしれないのよねえ……)
困りながらも、行かないという選択肢は浮かばなかった。ぐっと拳を握りしめる。
(出会った時は出会った時よ。
学院とパン屋でだって気づいていないのよ。
クレスだって当然気づかないはずよ)
アップルパイの籠をさげ、ミルクパンが入った籠を棚に戻し、クリスティンの今日の仕事は終わった。
部屋に戻り、クレスの恰好に着替えたクリスティンは、元気よく飛び出した。
メイン通りを駆け上がり騎士団の稽古場へ、意気揚々と駆けていく。
到着した稽古場で、門番に挨拶し、中に入れてもらう。もうすっかり顔なじみになり、挨拶一つでくぐれるようになった。
模擬剣を用いて打ち合う騎士達にまぜてもらおうと喜び勇んで廊下を歩いていたところでライアンとばったり鉢合わせした。
手には紙袋を持っている。
まさかこんなに早く会うことになるとは思わなかった。
目を丸くするクリスティンに、ライアンは明るい笑みを浮かべた。
「クレス。来たか。久しぶりだな」
「お久しぶりです、ライアンさん」
背筋を伸ばし、緊張気味の挨拶をすると、ライアンはははっと笑う。人の良い兄貴分という顔にクリスティンは複雑な心境になる。
「ライアンでいいよ。かしこまるなよ」
「ですが、公爵家の方なんでしょう」
「いまさら? 一緒に木陰でパンを食べる仲じゃないか。それに、俺、呼び捨てを許していただろう」
対等に付き合おうとするライアンにクリスティンは目を見張る。
(なに、この良いお兄ちゃんぷり! 学院とは大違いじゃない!!)
学院で見る厳しさを微塵も感じさせない気さくさに、クリスティンは閉口する。
「来てくれてよかったよ。またパンを一緒に食べようと思ってたんだ」
ライアンが紙袋を軽く持ち上げた。
今朝クリスティンがライアンに売ったパンが入っている袋である。
(もしかして、朝言っていた友達って私!)
クリスティンはクレスがライアンに友達認定されていると知り、ぞっとした。
(これじゃあ、ますます関係が複雑化しちゃうじゃない)
逃げ出したいクリスティンと真逆に、なぜかライアンの笑顔は清々しい。
「この前、食べて、美味しかったアップルパイを買って来たんだ。良かったら、一緒に訓練してから食べないか」
(私と食べるパンを買ってくれていたの! ああ……、良い人なのか、厳しい人なのか、抜けている人なのか)
気が遠くなるクリスティンの脳裏に、パン屋で見せるはにかむ笑顔が浮かぶ。
クリスティンはほんのりと体が熱くなる。
あの照れ笑いを思い出すと、どことなく気恥ずかしくて、ライアンを見ていられなくなってしまう。
(もういや、恥ずかしさがうつったみたい。この人本当によくわかんない、どうしてこんなにどこにでも現れるのよ! どうしてこんなに関わってくることになるの~)
叫びたいけど、ばれたくもないため我慢する。
表情が曇るクリスティンを見て、ライアンは心配そうに眉を歪めた。
「どうした、アップルパイは嫌いか」
ぶんぶんと頭を左右に振る。
「ちっ、違います。アップルパイは好きです。
まっまさか、ラ、ライアンが、お菓子を用意してくれると思っていなくてビックリしただけです」
(ああぁ……、私、咄嗟の嘘上手くなっている気がする)
慌てるクリスティンにライアンは目を細めた。
「じゃあ、一緒に食べような。
食べる前に、一度手合わせしような。
運動した後の方がこういう食べ物は美味しいだろう」
「はっ、はい」
(アップルパイをくれる人の申し出はことわれないわ~。んっ……。私、なんか、食べ物でのせられていない?)
明らかに食べ物につられている状況であるが、子どもで、少年のふりをするなら、それぐらい普通と都合よく結論付ける。
美味しい食べ物には逆らえない。
「先にネイサン近衛騎士団長に会って来たんだ」
「団長に!」
パン屋で師と言っていたのはネイサン近衛騎士団長のことかとクリスティンは勘付く。
「そこで特別な演武場を借りることができた。ちょっとそこに行ってみよう。ついてこい」
「はい」
歩き出したライアンの後ろをクリスティンは追いかける。
「クレスは剣豪オーランドの直弟子なんだよな」
「はい」
「ちなみに、俺はネイサン近衛騎士団長の甥っ子だ」
「はい」
「ネイサンはオーランド様と学院生時代はライバルであった。しかも、ネイサンはオーランド様に負けてばかり、勝ったことがほとんどないそうだ」
「えっ! それは知りませんでした」
木陰を通り過ぎた二人は中庭を突っ切って、稽古場の奥へと進む。
「いい機会だからな。勝てなかったネイサンの代わりに、弟子同士が対決するのも面白いだろう」
にやりとライアンが不敵に笑う。
クリスティンは「へっ……」とたじろぐ。嫌な予感が全身を伝う。
「これから、向かうのは特別な演武場。魔力保有者が魔力を用いて戦う、実践向きの闘技場だ」
「ええ!」
「そこなら魔力を使って戦っても誰も何も言わない。
建物自体、魔法の効果を軽減し、外部に漏れないような仕様になっている。お互いに全力で戦っても、王都で一番問題がない場所だ」
「はっ……?」
「せっかくだからな。オーランド様の直弟子に、近衛騎士団長ネイサンの弟子が、リベンジをさせてもらう」
ライアンの不敵な発言に、クリスティンの全身に鳥肌が立った。
まさかそんな理由で手合わせすることになるとは、夢にも思っていなかった。
そもそも、ライアンがそんなふざけた発言をする人とは思わず、ハトが豆鉄砲を食らったような顔で、クリスティンは立ち尽くした。