98:新たな噂②
「お姉ちゃん、遅かったね」
(くぅ~、ラッセルに『お姉ちゃん』と言われるのたまらないわ)
クリスティンはラッセルが可愛くて仕方ない。
故郷の兄弟たちを世話してきたクリスティンの物足りなさを埋める存在は彼しかいない。しかも、ロロと迎えてくれて、一緒に遊んでくれるのだ。
クリスティンにとってラッセルとロロのコンビは王都において、悩みをすべて吹っ飛ばすほどの癒しの存在だ。
しかも、クリスティンの事情を知っているので、なんの心配もなく付き合える。
(ライアンで気疲れした心を癒してくれるのは、ラッセルとロロだけだわ~)
目尻が下がるクリスティンは、さっそく紙袋をラッセルに見せた。
「お土産買って来たのよ」
「お土産?」
「うん。昔、おいちゃんが買ってきてくれたお菓子なの。お店見つけたから、買ってきちゃった。一緒に食べようね」
「いいの? オーランド様がいらっしゃる時は、遠慮するようにママに言われているんだよ」
「いいの、いいの。私がラッセルと一緒に食べたいんだもん。何ならおいちゃんに頼んでみましょう」
「うん」
クリスティンはラッセルと手を繋いで、屋敷に入る。足元にはロロがじゃれるようについてくる。帰宅に気づいたオーランドが玄関先まで迎えに来ていた。
「お帰り、クリスティン。遅かったな」
「ごめんなさい。少し街中を見物していたのよ」
ライアンと一緒にいたことは黙っていることにした。すかさず、紙袋を掲げて見せる。
「おいちゃんが買ってきてくれたお菓子を見つけちゃったの。ラッセルも交えてみんなで食べたいんだけど、良いかな」
「どうかな。子どもにお菓子をあげる時は、母親に尋ねないと後でやんわりと怒られるぞ」
「じゃあ、ラッセルのお母さんが良いと言ったらいいのね」
「そうだな。ところで、その犬は?」
オーランドの視線が足元に注がれる。
クリスティンの足元に小さくなっているロロがいる。オーランドを恐れているのかもしれない。
「この子はロロ。王都に来てすぐに拾ったの。パン屋で飼えないでしょ。だから、こちらに置いてもらったんだけど。
おいちゃんの了承もないまま、勝手に犬を連れ込んでごめんなさい」
「そうか、クリスティンが拾った犬なのか」
「うん」
「ロジャーが世話をするだろう。今さらラッセルが大事にしている子犬を取り上げられないしな」
「ありがとう。おいちゃんならそう言ってくれると思っていたよ」
「ありがとうございます。オーランド様」
ラッセルも大きな声でお礼を言った。
「屋敷は広い。躾けさえちゃんとすれば、問題ない」
「はい、ちゃんと躾けます」
ラッセルの返事に口角を薄くあげたオーランドが踵を返す。
「昼の用意はできている。二人とも食堂に来なさい。ベリンダもそこにいるだろう」
オーランドを先頭に、食堂へと向かう。
扉を開くと、ベリンダが昼食の準備をしていた。彼女はすぐにラッセルとロロに気づく。眉を潜めたのを見過ごさず、オーランドが話しかける。
「気にしなくていい」
「旦那様……」
「ラッセルも入りなさい」
ラッセルはロロを抱き上げ、恐々と入っていく。クリスティンも続いた。
「クリスティンがお菓子を買ってきて、ラッセルと一緒の食べたいそうだ。かまわないだろうか」
「あと、ラッセルには飴玉も買ってきてあげてて。プレゼントしても良いですか、ベリンダさん」
ラッセルがお願いするクリスティンの顔を見た。母親やオーランドの手前、あからさまに喜べず、嬉しさを堪えて、目を丸くする。
ベリンダは苦笑した。オーランドとクリスティンに頼まれて、ラッセルも内心喜んでいれば断れない。せめて、母として条件をつけるだけだ。
「ありがとうございます。クリスティン様。
ですが、やはりお菓子を食べるのは、昼食を食べてからにしていただけますか」
「もちろんです。食後のデザートかおやつに食べてもらえると嬉しいです」
ベリンダに許され、クリスティンはほっとし、ラッセルは上機嫌でにこにこ顔になる。
オーランドはその様を見て、口元をほころばせた。
「ラッセルも一緒に食べると良い」
「良いの!」
素直なラッセルの発言に、ベリンダが口元に指を立てて、眉をひそめた。母に諫められ、ラッセルは両手で口を押える。
「クリスティンは、ラッセルと一緒に食べたいんじゃないか」
「あっ、うん……。食べたい」
遠慮がちに本音を漏らすクリスティンに、オーランドは微笑みかける。
「朝や昼はかまわない。ロジャーたちも裏で三人で食べるだろう。ならこっちで五人でも食べても変わらないはずだ。違うか、ベリンダ」
「はい、旦那様」
「しかし、夜は外で食べる練習も兼ねている。ラッセルの就寝時間も考えたら、そうなるのは分かるな」
先を読んだオーランドの譲歩に、クリスティンは呆気にとられる。そこまで許容してもらえるとは思っていなかったのだ。
「いいの、おいちゃん」
「いいさ。クリスティンも賑やかな食卓の方が好きだろう」
「うん、大好き」
満面の笑みでこたえると、オーランドの目元がさらに和らぐ。
「さあ、ベリンダ。ここに五人分の食事を用意してくれ」
オーランドの一言で、ベリンダはかしこまりましたと、厨房へと向かい急いだ。
大急ぎで用意された昼食を、五人一緒に和気あいあいと食べる。
クリスティンが笑っていれば、オーランドは嬉しい。みんなで食べることを許したのは、それだけの理由だ。
クリスティンが買って来たお菓子は、オーランドが男爵領へ手土産として買っていったお菓子だ。覚えていてくれただけでも胸を打つ。
懐かしさとともに頬張れば、オーランドの脳裏に十二歳のクリスティンが蘇る。
愛し娘がさらに大きくなり、今は目の前にいる。
(時間はあっという間に過ぎるものだな)
しみじみと感じいる。
他愛無い、安価なお菓子だが、クリスティンとの思い出を彷彿とさせ、それを彼女が覚えていて買ってきてくれたとなれば、その味は格別だ。
お菓子を食べて、幸せな気持ちになるなど、久しくなかった。
思い出が味を美化しているとはいえ、こんなにも幸福な気持ちがそそられる菓子は他にない。
ライアンは騎士団の稽古場でネイサンと会ってから、騎士達の稽古に混ざって汗を流して後、帰宅した。
ネイサンはすでに公爵家の屋敷を出ており、会うには騎士団の稽古場が一番都合が良かった。訪問すれば、よほどの用事か不在でない限り、いつでも会ってくれる。
おかげでクリスティンの件をすぐに報告でき、オーランドにつなげることもできた。
いつもなら、手土産を持っていれば、ネイサンにも分けるのだが、今日買った菓子だけは一人で食べたくて、持ち帰っていた。
真っ先に自室に入る。
部屋の端にある紅茶のセットを用いて、お茶を淹れると机に向かった。
椅子に座り、震える手で紙袋から菓子箱を取り出す。
(買ってあげたのと同じお菓子だ……)
お菓子一つで、なんでこんなに震えるのか分からない。
ティンと一緒に買った。彼女もまた同じ品を食べている。
そう思うだけで、格別な気がした。
(やばい。こんな気持ち初めてだ……)
レオがクリスティンにアップルパイを買ってあげている光景にはちくりときた。それがやきもちであるぐらいライアンは分かっていたし、それを露にするのは大人げないことも分かっていた。
だからこそ、上書きするように、彼女に思い出のお菓子を買ってあげれたことに、じんわり胸が熱くなる。
箱をあげる。
どこにでもあるような焼き菓子が並んでいた。
味だって平凡なものだと想像がつく。売り物だから、屋敷の料理人が作るより、ちょっと甘めなお菓子だろう。
震える手で菓子をつまんだ。
こんなにお菓子一つを食べることに、緊張したことはない。
(俺、ものすごくバカみたいだ……)
鼓動は早くなり、身体が火照る。
一緒に歩いたこと、ベンチ並んで座って、同じものを食べたこと。
すべてが染みわたり、胸をかきむしるほどの幸福感を呼び起こした。
(人を好きになるってすごい……)
心も体も感化される愚かさに震えた。
一口食む。たまらなくなり、一気に一つ目の焼き菓子を食べつくした。
美味いのか不味いのか。傍目には分からないほど眉を歪めて、飲み込んだ。
ばさりと机に突っ伏したライアンが独り言ちる。
「世界で一番、幸せな味だ」