97:新たな噂①
目当ての品が買えたからと家に帰るクリスティンを、ライアンは曲がり角まで送った。
後ろ髪を引かれるように去ってゆくライアンをクリスティンは見送る。人ごみに彼が馴染んでから、道の端に隠れた。
すぐに天を仰ぐ。日が高く昇っており、昼時も近い。
(急がないと……)
先んじてライアンが歩いている。
追い越してもいけないし、気づかれてもいけない。
(背が高い男の人だから、歩くのは早いはずよね)
見つかって話しかけられたら、また逃れる言い訳を考えるはめになる。
歩き始めたいが、踏み出すタイミングがつかめない。
落ち着かないでいると、猫が横から飛び出してきた。ぱっと振り向く。なぜかクリスティンの方を見た。
(猫……)
首輪をしている。どこかの人慣れした飼い猫かもしれない。
しゃがんで、手を差し伸べると寄ってきた。首筋を指先で撫でると目を細める。愛らしい黒い猫だ。
「猫さん、ごめん。メイン通りの様子が見たいの。どうか体を貸してちょうだい」
なーっと鳴いた猫に、指先から魔力を通す。
意識を譲り渡すように、魔力とともに対象物へ浸透させてゆくとのりうつることができる。
感覚や意識を統合する魂そのものを移すこともできるそうだが、試したことはない。別の生き物に乗り移って、一時的に意識や運動機能を奪うことはできても、あくまでも元の身体に戻ることを前提としており、身体に半分は意識を残しておくのが常なのだ。
身体の感覚はほぼ残しつつ、意識を部分的にのっとった。主に視界と運動機能を制圧する。
クリスティンは立ち上がると道の端に後退した。あたかも、誰かを待ているかのように佇む。片手を顔に寄せる。
両目を瞑ると瞼の裏に猫の視界が映りこんだ。目を開ける。脳裏に猫の視界が残像のように映り、うまくのりうつれたと確信した。
人間の肉体感覚は維持している。周囲の人が行きかう様は感じ取れる。ただ色味は薄い。
(進め!)
クリスティンが号令をかけると、猫の体は走り出した。
人の足をかき分けて、角をまがりメイン通りを駆けてゆく。
猫の身体は軽く、小回りが利く。
人間の足を右に左に避けながら進んだ。
ある店の横に木箱が数箱積み上げられていた。ある程度、ライアンがいないことが目視で確認できればいいクリスティンは、その木箱を踏み台にして、壁を蹴り、店の庇に飛び乗った。
猫の跳躍力はなかなかなものだ。
走る爽快感、跳躍力とともに満足感が高い。
閉塞感を覚える人間の足元を駆け抜けていたところで、高所から人間の頭部を眺めるのもなかなか乙だ。
クリスティンは満足しながら、噴水から城までざっと見渡した。
眼下周辺にはライアンの青い頭部は見当たらない。
城側に目を向ける。
縫うように視界を走らせた。
(ここまで見通して見当たらないなら大丈夫ね)
猫にのりうつっていた意識を解こうとした時だった。
遠くを見通す視界にライアンの青い短髪が映りこんだ。
(やっぱり、歩くの早いわね。私と一緒の時はゆっくり歩いてくれてたんだ)
悠長なことを考えていた刹那。
ライアンが立ち止まった。
(!!)
反射的に猫の身体を翻す。
同時にライアンが振り向く。
その視線はまっすぐに猫を射貫いた。
誰かに見られたと探知し、ライアンは振り向いた。魔力を使った視界拡張による目視を鋭敏な感覚ですぐに探知できるほど、ライアンもまた尋常ならざる魔力量と技量を備えている。クリスティンは、彼のそんな能力値まで、理解しているわけではなかった。
クリスティンは慌てて猫の身体を庇から逃し、壁を蹴り、木箱を蹴り道に降り立った。慌てていたせいで、重なっていた木箱を崩してしまうものの、その場から、逃げるように走り去った。
(気づかれた? 気づかれてない?)
どちらとも言えないが、怪しまれた可能性はある。
クリスティンは猫の身体に宿していた意識や感覚を人間の身体へと引き戻した。
現実に戻ったクリスティンは大きく息を吸って吐いた。
口元に手を寄せ、唖然とする。
(なんで、あれで気づけるの……。
騎士団の稽古場に出入りしているとはいえ、あの距離を探知できるなんて、ありえないわ)
オーランドと等しくスタージェス公爵候補であるライアンの魔力量と技量を侮っていた。
猫の身体にのりうつるという尋常じゃない手段を取ったにもかかわらず、容易に気づかれたこともまたショックであった。
魔力を帯びた視線を感知し、振り向いた視界の端に、ライアンは庇にあがる猫を見つけた。
猫はすぐに翻り、逃げて行く。
(見ていたのか)
ちらっと見ていただけであり、攻撃性の低い監視程度の視線だった。
それほど長時間眺められていたわけではない。
だからといって捨て置ける視線でもなかった。
(俺を監視? まさか……)
そんな度胸がある者が、この国にいるはずがない。オーランドやネイサンと並ぶ実力を持つ者を侮る者はいない。
(気のせい……、俺が気づいてそれはないだろう)
頭の片隅に留めおき、再び騎士団の稽古場へと歩き出した。
ライアンと会うことはないと分かったクリスティンは悶々としながら、歩き始めた。
(あれを気づくって、何者……)
デヴィッドに次ぐ、オーランドと同列の王位継承権を持つことと、ネイサン近衛騎士団長と親戚であることは知っている。
それ以外のライアンの諸事情はクリスティンはまだ知らない。
(やっぱり、近衛騎士団長の血縁者で、未成年から稽古場に通う人は違うのね)
侮っていたとクリスティンは反省し、彼がオーランドやウィーラーのような存在に近いと認識をあらためた。
(歳だって近いのに……)
武者震いが止まらない。
自然と口角もあがる。
腕を摩ると、高ぶった気持ちが宥められた。
冷静になると、リスクに気づく。
もし、クリスティンが扱う魔力と、クレスが扱う魔力が同一だと気づかれれば、二人が同一人物だとばれかねない。
問い詰められれば、否定するのは難しいだろう。
クリスティンは気を引き締める。
(やっぱりライアンを一番警戒しないといけないわ。クレスで手合わせする時は全力、学院でクリスティンとして会う時は極力魔力を押えないとね。ウィーラーからも、学院では手加減するようにと言い含められているし……)
悩みながらクリスティンは、メイン通りから貴族が多く住まう住宅街に入っていく。
(なんでこんなにライアンのことばっかり考えて、対策を講じなければいけないのよ)
王都に来てから、色々あったが、デヴィッドより、マージェリーより、誰より、ライアンには頭を悩ませられている気がした。彼だけはどこにいてもクリスティンに気づき、近寄ってくる。
(悪い人じゃないだけに、悩ましいわ)
オーランドの屋敷に着くと、ちょうど庭先でラッセルとロロが遊んでいた。
「お姉ちゃん、お帰り」
ラッセルにお帰りと言われた瞬間、悩んでいた心が一気に晴れる。
「ただいま、ラッセル」
自然に笑顔になるクリスティンがラッセルに向けて手を振った。