118.5話 ― イングリッドの帰路、胸に宿る秘密 ―
短いため118.5話としました。
帝都を離れ、小さな馬車は王都街道を静かに進んでいた。
窓の外を流れる田園風景を眺めながら、イングリッドは膝の上の書簡にそっと触れた。
ウォルケン皇帝から預かったもの――
帝国が大森林へ正式に要請する、「測量技術伝授」の書簡。
その重みが、今になってずしりと胸に響く。
(……陛下も、本当に驚いていたわね)
あの精密すぎる地図。
境界線のゆらぎ、わずか二度にも満たぬ水路角度の狂い。
それらが克明に記載され、地質の層まで描かれた“地図という名の解析図”。
皇帝は驚きと畏れの入り混じった表情を見せた。
けれども――
(その“作り手”を、知っているのは……帝国で私だけ)
イングリッドは誰にも聞かれぬよう、そっとため息を漏らした。
初めて地図を見た時。
――「シスターズが測量したんだ」――
あれを聞いた瞬間、イングリッドは胸が冷えたのを覚えている。
(“死天使の測量”……。 あの子たちが本気を出せば、帝国の地図など……紙くず同然なのね)
帝国側には絶対に言えない。
口に出せば、”アンファング”という言葉が想起されることになるだろう。
荒野”アンファング”にて、ヴァンクローネ帝国VSグラール聖王国の両国間で勃発した大きな戦の最中、あっという間に両国の兵力の半数が失われる歴史的事件。
それから時間を経てやっと今の関係へと至っている。
(あの“アンファング”……。あれを思い出させるような話は……絶対にしてはいけない)
一種のトラウマとなっている”アンファング”が思い起こされれば、大森林への必要以上の警戒が生まれる。
軍部は騒ぎ、宰相は眠れなくなるだろう。
だから秘密は、胸の奥に沈めたままだ。
ふと、馬車の揺れに合わせて隣に積んである木箱がカタリと鳴った。
箱の中には、サモンへ渡す 書簡が入っている。
思い返せば、しばらく屋敷に帰っていなかった。
(お父様には……今回のこと、どう説明しましょう。 でも、お父様なら喜んでくれるはず)
アルフォンソ公爵は改めて大森林との良好関係に価値を見出している。
そして技術に敏い男だ。
(……もしあの地図を見たら、お父様は腰を抜かすでしょうね……その代わり、織機の設計図については陛下から“持ち出しの許可”をいただいていますし )
イングリッドは思わず苦笑した。
しかし――
それでも、父には見せられなかった。
ウォルケン皇帝が「閲覧は私のみ」と決めた以上、その命に逆らうことはできない。
(いつか……安全に共有できる日が来るかしら)
そんなことを思っていると、馬車が少し揺れた。
道沿いでは、道路の敷石を持ち上げ、土を均している作業員の姿が見えた。
おそらく何日もかけて道路を修復しているのだろう。
彼らは知らない。
今この作業が、たった数時間で終わる方法を。
――ニケたちアンドロイドなら、わずか半日で終わらせてしまうことを。
しかし、イングリッドの目には、彼らの姿が愛おしく映った。
(帝国の人は、努力家で、真面目で……。 だからこそ、守らなきゃいけない秘密がある)
イングリッドは胸に手を置いた。
(この秘密は……私の判断で守るべきもの)
皇帝は地図の技術に驚きながらも、「大森林の力を恐怖ではなく、尊重として扱うべきだ」と決断した。
あの判断は、国家の長として極めて冷静で、そして賢明だった。
だからこそ、イングリッドは皇帝の意向を汲んで、この秘密を胸に抱く覚悟を決めた。
――やがて、馬車は穏やかな集落へと入っていく。
イングリッドは遠くに見えた帝都を眺め、そっと息をついた。
(お父様。 私は今、帝国と大森林の間の橋のようなところに立っているのかもしれません)
その役割の重さも、喜びも、少しだけ実感した。
やがて、馬車は公爵邸へ向けて速度を上げた。
イングリッドの胸には――地図と共に刻まれた“秘密”と、未来への静かな決意が宿っていた




