118話 ― 帝都、静かなる雷鳴 ―
帝都・皇帝執務室。
分厚いカーテンの隙間から差し込む陽光が、卓上に広げられた一枚の地図を照らしていた。
その地図――シスターズが作製した境界線の精密地図を前に、ウォルケン皇帝は長い沈黙の後、深く息を吸った。
「……これは……まるで魔導解析だな」
ウォルケンの声は低く、わずかに震えていた。
地図に描かれているのは、地形の高低差、地質の変化、微細な水脈の流れ、境界線の正確な角度。
すべてが“帝国で最も優れた測量部隊”の手にすら余る精度だった。
イングリッドは、ウォルケンが自分と同じ感想を持ったことが少しおかしかったが、ここは同意しておく。
「はい、陛下のおっしゃる通りでございます」
「いや、これは“技術”というより……軍事的な意味を持つ。この精度が敵国に渡れば、帝国の国境など――。」
皇帝は言葉を切り、静かに地図を閉じた。
そして側近たちへ命じる。
「この地図は国家機密とする。閲覧を許すのは……私のみだ。イングリッド、お前の手元にも残す必要はない」
「承知しております、陛下」
ウォルケンはしばらく考え込んだ後、顔を上げた。
「だが、惜しいな。この測量技術……帝国に欠けているものだ。イングリッド、大森林へ“帝国でも可能なレベルの測量技術”の伝授を正式に要請したい。外交儀礼に則った書簡をサモン殿に渡すのだ」
イングリッドは深く一礼する。
皇帝は静かに呟いた。
「……大森林の技術は脅威でもあるが……同時に国を強くしてくれる宝にもなる。
どう扱うかは、我らにかかっているということだ」
皇帝の心に宿ったのは、恐怖ではなく、“想像を超える存在への敬意”だった。
――その頃、同じ帝都の別室では。
帝国治安局の地下取り調べ室。
薄暗い部屋の中央で、一人の商人が汗に濡れた顔でうずくまっていた。
「も、申し上げます! 全部話します!!」
取り調べ官が冷たく言い放つ。
「帝国に不利益をもたらした商人よ。値のつり上げなどお前だけでは出来ないことだろ。お前の裏には誰がいるんだ?」
商人は震えながら白状した。
「コ、コーデル子爵家でございます。コーデル子爵家から誘いがありまして、……境界付近の土地を買い叩き、布製品組合に“高値で売りつける”算段でした!争いが広がれば、組合も焦って……うまく吹っかけられると……!コーデル家には大きな貸しがあるので、その回収を期待してました」
静寂が落ちた。
取り調べ官は無表情のまま立ち上がり、報告書に目を落とす。
「……すべて記述通りと判断する。上層部へ送致する」
商人の叫びは扉が閉じると同時に飲み込まれた。
…………
翌朝。
治安局 → 内務省 → 宰相ハルベルトへと報告が回る。
ハルベルト宰相は報告書を読み、険しい表情で執務室を出た。
「……陛下に報告するしかあるまい」
皇帝の執務室前に立つと、一つ深呼吸をして扉を叩いた。
「陛下、宰相ハルベルトにございます」
中から「入れ」の宰相は書類を皇帝へ差し出した。
ウォルケン皇帝は目を走らせる。
境界争いを煽り、買い叩いた土地を布製品組合へ転売するための偽装工作。
資金経路には、コーデル子爵家の名。
皇帝は静かに目を閉じた。
「……帝国の顔に泥を塗る行為だ。国の重要な計画に乗じて利を得ようとするとは……」
怒りの波は、水面下で静かに揺れた。
皇帝は机に指を置き、コツ、と鳴らした。
「公に裁けば、帝国そのものの失態となる。この件は“財務不正”として扱い、静かに処分せよ」
「御意」
「コーデル子爵家の資産を凍結し、後継権も無効とせよ。ただし外部に騒ぎは漏らすな」
宰相は深く頷き、退室した。
皇帝は閉じた書類に視線を落とし、小さく呟いた。
「……大森林が関わる案件で、このような醜態を晒すわけにはいかぬ」
皇帝の“静かなる雷鳴”の決断だった。
…………
時を経たずして帝都では治水工作隊が動き始めた。
カイエン郊外の水路へ作業員が派遣され、角度のずれた水路が修正されていく。
現場を監督する役人が、地図を見ながら嘆息した。
「……これ、本当に人間が描いた地図なのか?」
「わずか数刻で水の流れが変わるほど、角度が繊細に指定されてるんだが……」
治水隊の隊長は地図の一角を指差した。
「この角度を二度変えるだけで、こちらの農地まで水が届くようになる。一体だれが……」
整備を終えた水路には、以前よりも豊かな流れが戻っていた。
農民たちも安心したように頷き合う。
争いは沈静化し、混乱は収まっていった。
…………
他方、帝都の行政棟では“土地整備案”がまとめられつつあった。
コーデル家問題が処理されたことで、境界付近の土地の扱いはすべて帝国側に戻った。
行政官は書簡にまとめる。
境界付近は区画整理とし、道路を広げ物流改善。
整備後の余剰地は払い下げ、布製品組合には「利用契約」の形で貸し出し、「買収」ではなく「利用」に切り替えることで、組合への負担を減らしつつ、利益は帝国に集まる構造が完成した。
「――これで、陛下の思惑通り、帝国がもっとも恩恵を得る形になりますね」
同僚が頷く。
「さすが、ウォルケン皇帝であらせられる」
役人たちは嬉々としてと印を押した。
…………
皇帝執務室。
イングリッドはウォルケンから再び呼び出され、大森林へ届けるための書簡を受け取っていた。
その中身は――
・測量技術の一部伝授の正式要請
・帝国の土地整備計画
・大森林への感謝の言葉
そして最後に、一文が添えられていた。
「大森林の技術は、帝国の未来を照らす可能性を持つ。どうか今後も、互いの安定と繁栄のため、知恵を分かち合えることを願っている。」
直接的な警戒の言葉はない。
しかし行間には、「あなたたちの力には到底及ばないが、可能ならば技術を学び、正しく扱いたい」という皇帝の意思が滲んでいた。
イングリッドは書簡を受け取り、丁重に頭を下げる。
「必ず、サモン殿へお渡しいたします」
皇帝はうなずき、イングリッドを送り出した。
「……頼んだぞ。大森林は、今や帝国にとって“避けて通れぬ隣人”だ」
その言葉には、恐れではなく、大国の君主としての“覚悟”が漂っていた。
――帝都に響くはずのない雷鳴は、静かに鳴り渡っていた。
こうして帝国は、大森林の力を改めて認識し、同時に『未来のための一手』を打ったのであった。
118.5話 ― イングリッドの帰路、胸に宿る秘密 ―
帝都を離れ、小さな馬車は王都街道を静かに進んでいた。
窓の外を流れる田園風景を眺めながら、イングリッドは膝の上の書簡にそっと触れた。
ウォルケン皇帝から預かったもの――
帝国が大森林へ正式に要請する、「測量技術伝授」の書簡。
その重みが、今になってずしりと胸に響く。
(……陛下も、本当に驚いていたわね)
あの精密すぎる地図。
境界線のゆらぎ、わずか二度にも満たぬ水路角度の狂い。
それらが克明に記載され、地質の層まで描かれた“地図という名の解析図”。
皇帝は驚きと畏れの入り混じった表情を見せた。
けれども――
(その“作り手”を、知っているのは……帝国で私だけ)
イングリッドは誰にも聞かれぬよう、そっとため息を漏らした。
初めて地図を見た時。
――「シスターズが測量したんだ」――
あれを聞いた瞬間、イングリッドは胸が冷えたのを覚えている。
(“死天使の測量”……。 あの子たちが本気を出せば、帝国の地図など……紙くず同然なのね)
帝国側には絶対に言えない。
口に出せば、”アンファング”という言葉が想起されることになるだろう。
荒野”アンファング”にて、ヴァンクローネ帝国VSグラール聖王国の両国間で勃発した大きな戦の最中、あっという間に両国の兵力の半数が失われる歴史的事件。
それから時間を経てやっと今の関係へと至っている。
(あの“アンファング”……。あれを思い出させるような話は……絶対にしてはいけない)
一種のトラウマとなっている”アンファング”が思い起こされれば、大森林への必要以上の警戒が生まれる。
軍部は騒ぎ、宰相は眠れなくなるだろう。
だから秘密は、胸の奥に沈めたままだ。
ふと、馬車の揺れに合わせて隣に積んである木箱がカタリと鳴った。
箱の中には、サモンへ渡す 書簡が入っている。
思い返せば、しばらく屋敷に帰っていなかった。
(お父様には……今回のこと、どう説明しましょう。 でも、お父様なら喜んでくれるはず)
アルフォンソ公爵は改めて大森林との良好関係に価値を見出している。
そして技術に敏い男だ。
(……もしあの地図を見たら、お父様は腰を抜かすでしょうね……その代わり、織機の設計図については陛下から“持ち出しの許可”をいただいていますし )
イングリッドは思わず苦笑した。
しかし――
それでも、父には見せられなかった。
ウォルケン皇帝が「閲覧は私のみ」と決めた以上、その命に逆らうことはできない。
(いつか……安全に共有できる日が来るかしら)
そんなことを思っていると、馬車が少し揺れた。
道沿いでは、道路の敷石を持ち上げ、土を均している作業員の姿が見えた。
おそらく何日もかけて道路を修復しているのだろう。
彼らは知らない。
今この作業が、たった数時間で終わる方法を。
――ニケたちアンドロイドなら、わずか半日で終わらせてしまうことを。
しかし、イングリッドの目には、彼らの姿が愛おしく映った。
(帝国の人は、努力家で、真面目で……。 だからこそ、守らなきゃいけない秘密がある)
イングリッドは胸に手を置いた。
(この秘密は……私の判断で守るべきもの)
皇帝は地図の技術に驚きながらも、「大森林の力を恐怖ではなく、尊重として扱うべきだ」と決断した。
あの判断は、国家の長として極めて冷静で、そして賢明だった。
だからこそ、イングリッドは皇帝の意向を汲んで、この秘密を胸に抱く覚悟を決めた。
――やがて、馬車は穏やかな集落へと入っていく。
イングリッドは遠くに見えた帝都を眺め、そっと息をついた。
(お父様。 私は今、帝国と大森林の間の橋のようなところに立っているのかもしれません)
その役割の重さも、喜びも、少しだけ実感した。




