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117話 ― 渉外部、初任務 ―

カイエン郊外の丘陵地帯は、この季節としては珍しく乾いていた。

本来なら春先の水を湛えるはずの細い用水路は、水面がかすかに揺れるだけ。

そんな土地を巡り、農民同士の激しい言い争いが起きたのは、布製品組合の設立とファイナの増産計画が最近発表されてしばらくしてからのこと。

このことがあってから日頃気にしていなかった土地問題が農民間で取り沙汰されるようになってきた。

「ここまでがうちの土地だ。この畑、境界を越えてるんじゃねえか!」

「そっちこそ用水路にごみを捨ててるんじゃないか!」

「ファイナを増やすな!水が足りなくなるぞ!」

互いが互いを責め、声はどんどん大きくなり、ついには役場に持ち込まれた。

この一帯のファイナ畑は、布製品組合の設立と増産計画の発表が絡む重要区画。

だからこそ、わずかな境界線のずれや水量不足が大事件へと発展する。


…………

事態は、まず役所から布製品組合代表者であるポリーヌへと伝わった。

次に彼女がイングリッドへ相談し、ウォルケン皇帝へ伝えられた。

ウォルケン皇帝は「う~む」と難しい顔をすると、思いついたようにニヤリとし、「大森林にも一言確認を」と返答した。

かくしてイングリッドとポリーヌを経由して、ついにサモンのもとへ届けられることになった。

これが、渉外部が誕生して初めての大きな案件となる。


…………

サモンの執務室――新たに大陸協会に増設された執務室。

書簡と資料を抱え、顔を青褪めさせたポリーヌが扉をノックした。

「し、失礼します……。サモン様……。イングリット様より……その……渉外部へ先にとも思いましたが……」


サモンは顔を上げた。

今日の彼は珍しく書類ではなく、工具を片付けていた。

(珍しいどころではなく、ケイバンに怒鳴られてから“書類は渉外部に送っている”ので、机に紙はほぼない)

「どうした、ポリーヌ。暗い顔だな」

「こ、こちらを……ウォルケン皇帝陛下からの……その……大森林へのご照会です……」


“ウォルケン皇帝”の名に少し嫌そうな表情を浮かべるサモン。

その反応にさらにかしこまるポリーヌ。

おずおずと差し出された書簡を開くと、みっちりと文字が詰まっていた。

境界線争い、水量不足、布製品組合、住民の不安……問題がてんこ盛りだった。

サモンは額を押さえた。

「……うわあ、これ全部一度に起こったのか」

「し、渉外部へ回すべきか思いましたが、……イングリット様がおっしゃって。先にサモン様にお知らせしておくべきかと」

「うん、そうだな。これ、渉外部も驚くだろうね。でも対処は俺一人じゃ難しいな。それに丁度いいや。すぐ渉外部に回してくれ」


ポリーヌはやっと安堵してほほ笑んだ。

「はい……。では、これより渉外部へ──」


その時、部屋の後ろからひょこっとニケが顔を出した。

「司令? 妙に長い溜め息が聞こえましたが、問題でしょうか?」


サモンは苦笑した。

「これだ……。問題しかない。だが、渉外部がどうにかしてくれる」

ニケに書簡を見せた。


…………

渉外部の部屋は、あっという間に慌ただしくなった。

机にはポリーヌから持ち込まれた資料、地図と書類が広げられ、クリスたちが眉を寄せていた。

「……これ、帝国から送られてきた地図、古いね。少なくとも50年前のものだよ」

助手のユノが地図を覗き込み、首をかしげた。

「この境界線……なんだか、不自然に曲がっていませんか?」


レアが別の資料を持ってきて重ねる。

「これ、現地の農民が描いた簡易図……合ってるのかなあ」

大森林の自治区などが整備されていく様子を知っているだけに、地図の重要性は皆が知っていた。


「現地に行くしかないね。でも、私たちじゃ不審に思われる。いちばんスムーズに測量できるのは……」

クリスはその場の全員が想像した人物を口にした。

「……ニケさんたちだね」

助手たちが緊張の顔を向ける。

ニケとそのサブ個体――通称シスターズ(アンドロイド部隊)は大森林における土木工事のスペシャリストだ。

今では自治区の者でも彼女らに習い、それなりの技術を習得しているが、その作業速度と正確さはとてもまねはできない。

彼女たちが本気で測量すれば、帝国の地図はすべて“古地図”になるほどの精度を叩き出すだろう。

だが、渉外部が勝手に動かせる存在ではない。


クリスは席を立った。

「サモンさんに許可をもらって、ニケさんに正式依頼してくるよ」

結果は分かってはいたが、組織として動くために必要なことだ。


…………

サモンの執務室。

「……というわけで、現地の測量が必要なんだ」

「なるほど。つまり人が行くと揉めるけど、ニケたちなら“気付かれず”に調べられるってことか」

「はい。あの地図では情報が足らないんだ。あくまで極秘に。帝国にも大森林にも余計な火種を作らないための措置だよ」


サモンは少し考えたが、すぐに頷いた。

「そうだね。ニケたちに任せよう。ニケ!」


ニケは即座に姿を見せ、胸に手を当て一礼した。

「クリス、なにをいたしましょうか?」

「帝国領カイエスの境界線と水量の実測を頼みたいんだ。細密地図が」

「承知しました。シスターズに任務を伝達します。3日以内に必要な精度の地図をご用意できます」


…………

3日後――渉外部の部屋は静まり返っていた。

そこに広げられた地図を見て、誰もが息を呑んでいた。

そこには呼ばれたイングリッドとポリーヌもいた。


「…………ぁ……これは……地図、というより……魔道具の解析図ですか……?」

「この細かい線はなんですか?……帝都の図書庫でも、こんな精密なものは見たことがありません……」

イングリッドとポリーヌが目を瞬かせ、感嘆した声を上げる。


ユノが二人の言葉に説明をはさむ。

「水路の角度も、どこで水が滞っているかも、すべて数字で……」

クリスが説明する。

「シスターズが測量したんだ。地形の微妙な歪みまで正確に記録してる。――で、これが本題」

と、密入国した事実をさも何でもないように、帝国公爵令嬢の前でクリスが説明する。

地図の中央には、境界線が山の稜線からわずかにずれて描かれていた。

その歪みは、長年の地形変化が原因で生まれたもの。

そして水量不足の原因は、水路の分岐角度がわずかに狂っていたこと。

それだけで乾燥期には水が足りなくなる。


「……つまり、誰かが故意に境界線を動かしたのではなく、地形そのものが変化していたのですね」

「は、はい。そして水量不足も、自然と工事ミスが複合した結果が原因と考えています」

イングリッドの言葉に、渉外部のレアが緊張しながら答える。


「農民同士の争いも……仕方のないことだったということですね」

これを受けポリーヌも納得する。


「ただし、“争いを大きくした奴”はいる」

クリスの言葉はイングリッドとポリーヌにとって聞き逃せないものであった。


渉外部のダランが密かに調べていた資料をテーブルに置いた。


「地価操作をしている商人がいます。計画の発表と同時に土地を買い占めていた帝都の商人がいました。名前は……ここに」


イングリッドは険しい顔でその名を見つめた。

「密書で陛下へお伝えします。帝国として対処すべき問題です」


…………

そして作業の終わりに、クリスからイングリッド・ポリーヌに伝言を伝える。

「サモンさんから織機の試作品が出来上がったと伝えてくれと。イングリッド様を通して陛下へ設計図をお渡しくださいとも。あとで試作機も観ていただきたいのでご案内しますよ。これを布製品組合に陛下から渡してもらえれば良いのかと。帝国内でも作れるっていってました。……大森林の意図が“協力姿勢であって干渉ではない”と伝わるようにともね」


クリスの言葉にイングリッドはうなずく。

陛下の表情の意味を少しだけ理解した。

今回のことを言葉のない催促だと。


「はい、ありがとうございます。これで陛下もお喜びになりますわ」

ウォルケン皇帝はこの織機に強い興味を示すだろう。

大森林の技術力への印象が大きく変わるはずだ。

それと渡された地図、帝国皇帝としてこれをどうするのだろう?

(陛下はもちろん周りの諸侯はどう思うのだろう。まあ、陛下は見せないわね。危機感を煽るようなものだもの……お父様には、どうしましょ)

そんなことに思いを馳せるイングリッドだった。


…………

後日、渉外部で書類がまとめられ、最後の署名をサモンへ求めることになった。


「…………こんなに分厚いのか?」

「地図、分析、国王向け文書、帝国行政向け注意点、布組合向け説明……全部まとめたらこうなったよ」

サモンが報告書の厚さに驚きの声を上げ、クリスが得意げに応えた。

サモンも驚きはしたが、すぐに満足した顔に変わる。

「俺が書いたところ……署名欄だけじゃないか」

「それでいいんだよ。これが渉外部の仕事だからね。でもちゃんと読んでね」


ニケも静かに付け加える。

「司令。外の火事は、私たちが処理いたします」


サモンはため息をついたが、どこか嬉しそうだった。

「ほどほどにね……でも、いい組織ができたな」


…………

こうして渉外部は、「境界線争い × 水量不足 × 商人の地価操作」という複合問題をわずかわずかな期間で解決の目途を立てた。

実際に収束させ、手柄を得るのはウォルケン皇帝だが。

そして――

帝都に届いたシスターズ製の地図と織機の試作品に、ウォルケン皇帝は心底驚くことになる。

「……大森林は……やはり想像の上を超えてくるものであるな」

大森林と帝国の関係は、この日を境にまた一歩前へ進むのだった。


なお、地図はやはり他の者には隠匿したようであった。

また、後にイングリッドから地図の話を聞いたナベンザ領主アルフォンソ・カルヴォ公爵は領地の地図製作を泣いて口添えをイングリッドに頼んだとかいないとか。

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