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よーい

 別の店みたい。


 昼と同じ黒いサロンを腰に巻いたティムは、厨房から出たところでしばし立ち尽くした。


 まず匂いが違う。ケーキのクリームや、コーヒーに入れるミルクのやわらかい匂いはどこにもない。鼻にまとわりつくような甘いアルコールと、一皿料理のスパイシーな香辛料。そして客がまとうタバコや香水。雑多な香りは混ざり合い、ティムの脳を溶かしにかかってる。


 そして色。いつも朝のような陽光が差す大きなガラス戸は、薄暗い通りに点在する街灯の小さな明かりの玉しか映さない。店内の照明もオレンジ色のランプに切り替わり、アーチを描く天井には人の影がちらちら揺れて、タイルの床は水に濡れたように光っている。視界にキャラメルのフィルターでもかけたようだ。


 そして何より、客層が違う。ティーセットを並べておしゃべりするご婦人や、小さなカップでエスプレッソを飲むハンチング帽の老人、ラージサイズのカフェオレを片手に読書する学生。そんな人たちのくつろぐ空気は一掃され、店内は活気に満ちている。


 タンクトップにショートパンツ姿で乾杯している女性グループ。夜だと言うのに頭にはサングラスがのっていた。カウンターには仕事帰りらしい男性がふたり、エールのジョッキを抱えて笑い合っている。肘までまくった作業着の袖から、タトゥーが覗いていた。そしてテラスに近い止まり木には──。


 クッキーだ!


 ティムは思わず背伸びをした。


 白いVネックのTシャツに、半そでのパーカー。少し前屈みで背の高い止まり木に両肘を置き、カウンターの上にあるメニューを見ている。同じテーブルには、ほかにふたりの若い男性がいて、親し気に言葉を交わしていた。


「エリカ、エリカ! ぼく、あそこの注文取って来ていい?」

「お好きにどーぞ」


 ラメの入った唇で、カリナの妹のエリカが笑う。ティムの目的はしっかり姉から吹き込まれているらしかった。


「──だからさ、ああ言うサプライズは、スタッフにくらい先に言っといてくれないと」

「事前に通知したら、サプライズじゃないだろ」

「でも、『知ってたのか!』って家族に詰め寄られるこっちの身にもなってほしいね。うちの母親が王室ファンでさ、うるせーのなんのって」

「まぁ、十年ぶりのお出ましが、よりによって選帝侯だしな。サイトも一時アクセス殺到してダウンしたらしいし」


 人をかき分けて近づいていくと、連れたちの会話が聞こえて来た。


 サイラス王子の結婚式にサプライズ登場した、弟のエリオット王子の話だろうか。王宮前の広場で並んでいるとき、近くにいた人がスマートフォンで中継を見て驚いていたし、その後も連日テレビで放送されているから、話題になっていることはティムも知っている。

 天使のように青い祭服を着た華奢な王子が、新郎新婦に銀の冠とティアラを授ける場面は、何度見ても敬虔な気持ちを起こさせる、宗教画のような演出だった。そのあと電話で聞いたが、カーシェでも大騒ぎだったと言う。


「ほんと、あれはびっくりしたわー」


 ゆるいクッキーの感想。その言い方が初めて会ったときの「いやー、びっくりしたね」と同じで、ティムはなんだかホッとした。彼はどこにいても彼だ。


「ご注文は?」


 ようやく止まり木にたどり着き、ティムは尋ねる。

 振り返ったクッキーが、瞳孔の大きなブラウンの目を見開いた。


「ティム! お前、昼のシフトだろ? それにここの担当、エリカじゃないのか?」

「注文取って来ていいって」


 ティムが指すと、カウンターの中でエリカがウィンクした。クッキーが指二本で「覚えとけよ」のジェスチャーをする。


 なんで?


「なにそのボク。知り合い?」


 ロックバンドのTシャツを着たブロンドの男が、クッキーの向こうから顔を覗かせた。


「ティムです」

「ボク、クッキー狙い? やめとけよ、こんな調子いいだけの男」


 なんだこいつ。


 ティムはむっとする。たしかにクッキーはお調子者だけど、『だけ』なんかじゃない。


「おい、ダン。絡むな」


 もうひとりの連れ、黒髪のインテリっぽい人が、ロックバンドブロンド──ダンをなだめる。こっちはいい人だ。


「ごめんね、ほかで一杯飲んできたところで」


 そう言われてみると、ダンは頬骨のあたりと鼻が赤くて目が潤んでいる。クッキーたちが平気な顔をしているので、彼はあまり酒に強くないのかもしれない。


 だからって絡まなくたっていいじゃん。


「ご注文は?」

「おれピムス。スコッチのやつ。ボク、綴りは書けるか? P、I、M……」

「ダーン、やめろ。ラガーをハーフで。あとチップス」

「ピムスとハーフラガー、チップス。──クッキーは?」

「……サイダー」


 伝票を書いていたティムは、聞いたことのないトーンに瞬きしてクッキーを見た。


 ……怒ってる?


「嘘だろ、サイダー? 子どもじゃねーんだから。お前いつもベネットだろうが」


 書いてやるから伝票寄こせ、と手を伸ばしてくるダンを抑えながらクッキーが手を振るので、不機嫌の理由は聞けずにティムはテーブルを離れた。






◇◇◇






「ほら、子犬が戻って来たぞ、クッキー」


 グラスとチップスの皿を運んで行くと、ダンが肩を組んでティムを引き寄せた。

 見た目はそう悪くないのに、酒癖が残念すぎるせいで株は駄々下がりだ。


「クッキーの友達なんですか?」

「そ。ダンとステファン。フットマン仲間で、シフトがよく被るんだ」


 クッキーは先ほどの不機嫌を忘れたように、ぐらついた盆を支えてくれた。


「な、ボク。知ってるか? こいつ大学で学位とったくせに、この年でバイトなんだぜ」

「ダン!」


 ステファンが本格的に声を荒げる。

 それでも、クッキーは笑っていた。


「それって、おれの頭の良さを褒めてくれてる?」


 じっとクッキーを見た。人懐っこい、でもたぶん、うわべだけの笑い顔。


 ティムはまだ盆に載っていた、ダンのピムスを掴んだ。


「ギャップイヤー気取りだっつってんだよ。他へ行く気もないくせに、上にあがるのも嫌ってフラフラしてんのが一番ムカつく──」


 パシャッ。


「わっ」


 きゅうりの輪切りが貼りつき、ピンクのシミが広がって行く。──クッキーのTシャツに。


「ごめんなさい! 裏にタオルがあるから来てください!」


 クッキーの腕を掴み、唖然とするダンとステファンを残してティムは客の間をかき分けた。






◇◇◇






「どうしよう。色、落ちないかも……」


 勢いで引っ張りこんだロッカールームで、ティムは泣きそうだった。


 濡らしたタオルで拭いても、シミはどんどん広がって行く。とにかくクッキーをダンから遠ざけたかった。でも、もっと他に方法があったはずだ。


「いーよ。こっちこそ、つまんない話聞かせちゃってごめんね」

「つまんなくないです」

「ティムは優しいなー」


 また、鼻歌でも歌いそうな、明るい声。


「なんで……」

「ん?」

「なんで怒んないんですか。バカにするなって、余計なことするなって、怒ればいいじゃん。なんで笑ってんの。主張しろって言ったの、あなたじゃないですか」


 雑誌やコップが散らかったテーブルの角にもたれて、クッキーが肩をすくめる。


「あいつの言うことはホントだし」

「本当のことだったら、なにを言ってもいいんですか」


 そうじゃなくてね、とクッキーはタオルを握るティムの手をとった。

 短く切りそろえた、スクエア型の爪。ティムの丸っこい爪とは全然違う。


「フットマンってね、いろいろな人がいるんだ。おれはやりたい仕事を見つけるまでのつなぎみたいなもんだけど、ダンは侍従を目指してる。侍従って分かる?」

「王さまとか、王子の世話をする人」

「そうそう。で、侍従ってのはフットマンの経験が必須なのね。だから、下積み時代はおれみたいな特に目的もない奴とも一緒に働かなきゃならない」


 おもしろくはないよねーと首を傾けるクッキーに、ティムは唇を尖らせた。


「でも……仲悪いのに、飲みに行くって変です」

「別に仲悪くはないよ? きょうはちょっと、タイミングが悪かったって言うかね」

「タイミング?」

「上司がね、おれに侍従へ上がる気があるかって打診して来て。それを聞かれた」


 それは、たしかにタイミングが悪い。


 自分が目指しているものに、他人のほうが先に近付くと知ったら、ティムだっておもしろくないかもしれない。


 うつむいたティムの頭に、こつりと硬いものがのっかった。

 クッキーの顎だ。

 両足の間に立ったティムの頭に顔を載せたまま、クッキーがしゃべる。


「断ったんだけど、そしたらダンが怒っちゃって」

「……なんで?」


 そこは普通、ライバルが減って喜ぶところでは?


「仕事ができて、それを認められたんだから応えるべきだって。待遇もいまよりかなりいいし、お前ならできる──って」

「……普通にいい人じゃないですか」

「いいやつだよ。だから飲みに行くのも変じゃないでしょ?」


 なんだ。


 深いため息をついて、いっこうにとれないシミを見下ろす。


「ごめんなさい、余計なお世話でした」

「んー、むしろティムがすっげー怒ったのに驚いてる。あれ、ダンに怒ったんだよね? もしかしておれにキレて酒ぶっかけた?」


 頭のてっぺんに、笑っている感覚が伝わって来る。


 ティムは目の前にあるクッキーの肩に額をぶつけた。鼻先には、ピムスに浸けたフルーツの匂いがした。


「あんな、へらへら笑うのが嫌なんです。もっと、ちゃんと太陽みたいに、本当に自分がしてることを楽しんで笑ってるあなたが好きだから」

「…………」


 …………ん?


「待って!」


 がばっと体を起こす。


 顎を強打したクッキーは仰け反ったが、掴んでいたティムの手は離さなかった。


「待って、違う! いまのナシ!」


 なんてことを口走ったんだ、ぼくのバカ!


 足を踏ん張って抜け出そうとするのに、ティムを捕まえたままクッキーはあの牧羊犬みたいな目を輝かせている。


「ティム」

「ほんと勘弁して! こんなはずじゃなかった!」

「ありがとう!」

「……は?」


 見上げた時には、大きな体に抱きしめられていた。


「く、クッキー……」


 絞まってる絞まってる!


 圧死しそうになってティムがもがくと、今度は両手で痛いほど背中を叩かれる。


「実はちょっと迷ってたことがあったんだ。でも、いまの言葉で吹っ切れた。やっぱ、自分が楽しまないとだめだよな。うん」


 訳が分からず混乱するティムをよそに、クッキーは何かを納得して何度も頷いた。


 そして──。


 チュッ。


「ティムのおかげだ。ありがとう」


 額に、柔らかな、なにかが。


「じゃ、おれ戻るね。やらなきゃいけないことができた。あ、服は気にしないで。ほんと。サンキュ」


 ぱたん、とドアが、閉まる。


 なにそれ。


 ねぇ。


 ちょっと。


「……どう言うこと──⁉」


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