5魂
がんっと鉄を蹴りつける大きな音が、家を揺らしながら響き渡った。
杖を起動させたのは反射だ。反射とは、思考を通さず行われる行為である。次いで、起動した杖への衝撃と、胸への衝撃が走った。咄嗟に身を折り畳んだのも反射だ。
そうして跳ねた身体が折り畳まれ、膝も一緒に畳まれる。胸を押さえ噎せ込む私の頭上で、呻きながら悶える人の悲鳴が聞こえた。
「………………一晩で、随分仲良くなったことだ。恋人関係はフリだけでよかったんだが、お前達真面目だな」
ベッド上で互いの身体にしがみつき、息も絶え絶えの私達は、部屋の入り口に視線を向けた。激しく引いているイェラ・ルリックの手には、大きなバスケットが抱えられていた。
「ちが、うわ、馬鹿者っ」
先に復活したのは王子だった。額に脂汗を滲ませ、腰を叩きながら身を起こす。その顎が赤くなっている。まだベッド上で身体を折っている私を見て、眉を落としながら、引き抜きかけていた剣を収めた。
「悪かった……」
「い、え、こちらこそ、申し訳ありませんでした」
咄嗟に起動させた私の杖が王子の顎を跳ね飛ばし、同時に剣を引き抜こうとした王子の腕が私の胸を打ち、跳ね上がった私の膝が王子の腿を打ち、折り畳まれた王子の足が私の足ごと押し上げて更なる悲劇を呼んだ。ただの大惨事である。
他害でありつつ自傷でもある衝撃から立ち直り、ベッドから下りた。一度王子と反対側から下りようとして、反対に回ればベッドを迂回する段階で四歩離れることに気づき、王子の横に並んで下りた。
「男として同情くらいはくれてやる」
「やかましいわ!」
「で、表明する関係は決まったのか。僕だけで調査するのは限界があるから、早いところ決めて外に出てくれ」
「………………こ、恋人、しか、思いつかなかっ脱ぐなたわけ――!」
二人が話している間、私はやることがないので着替えていたら、脱いだ側から王子の寝間着が吹っ飛んできた。一瞬で脱いだのか、凄いなと思ったが、よく見たらボタン部分が引きちぎれていた。脱いだというより破り捨てたらしい。
頭から被った寝間着から顔を這い出させれば、王子とイェラ・ルリックが背を向けていた。上半身の服を失った王子は寒そうだ。
「王子、風邪を引く前に着衣を推奨します」
「先に! お前が! 着ろ!」
「ところで王子」
「ところわない! 何だ!」
「申し訳ないのですが、寝間着に引き続き服を貸して頂けないでしょうか。私の着替えは昨日着用していた軍服しかありませんが、こちらは昨日倒れ込んだ際に付着した土で汚れていますので、出来れば着用したくありません。そして、恋人という設定を採用するのであれば、外を歩く際には説得力を持たせる為に手を繋ぎますか、腕を組みますか。同衾した事実を表明する為に、人通りの多い道を歩きましょう。目撃者が多い方が、説明する手間が省けます」
「おま、なに、も、おまえ、なんで、もう、おま、もう……ばかぁ……」
軍服の基本形は、誰かの陣営の色を優遇するわけにもいかない結果の白色。これだけは誰にも与えられない色となっている。どこかの陣営に入ったのであれば、自前で用意する必要がある。軍服なのに色と形が揃わない。セレノーンの軍事形態は、少々特殊だ。
所属は髪飾りで判別し、魔術師以外は帽子で判断するので混乱はなかった。
他の陣営ではそれぞれ色と意匠が統一された衣装があるが、王子にもあると思わないほうがいいだろう。イェラ・ルリックも黒を着ていないくらいなのだ。
王子は息切れしたかの如く言葉を途切れさせていたが、終いにはがっくりと項垂れてしまった。寒そうな背中が、今度は寂しそうだ。
「……俺なんかと交際の過去があったらお前の経歴を傷つけるし、絶対未来の邪魔になるから、俺が、俺がどれだけ考えて……俺がお前の弱みを握って脅した設定にしようかと、お前、それなのにお前……何なの!?」
「男として全く意識されていない現状は同情してやる」
「お前もされてないからな!? お前の前でも平然と脱いでるからな、こいつ!」
「僕は医者だ」
「ちくしょう!」
「王子の服をお借りして宜しいでしょうか」
「お前もう黙って!?」
何故か泣き出しそうな声で怒鳴られたので、口を閉ざす。分かった。では、黙って借りよう。四歩以内で確保できる王子の服は、王子が昨日着ていた上着しかなかったのでそれに手を伸ばせば頭を叩かれた。どうしろというのだろう。
王子は難しい人だ。
今日の朝食はイェラ・ルリックが用意させたらしい。忙しいのでさっと食べられる物にしたかったのだそうだ。
確かに、彼の目の下にはくっきりとした隈がある。公表する関係性が決まるまで人前に出られない私達の代わりに、私達を襲った襲撃者についての調査は彼任せになっていたのだ。
「襲撃者の情報は得られなかったが、依頼主は王妃だろう。相変わらず証拠はないが、それ以外お前の周辺で増えた厄介事は今のところないはずだ」
「だろうなー……おい、ちゃんとボタンは上まで閉めろ、一つ開けるな。俺のシャツだと一つ開けただけで大惨事だ。外に出るときは絶対にローブを着ろよ」
「はい」
ローブの件は大変遺憾であるが、この条件を飲まなければ服を借りられなかったので致し方ない。
「……隊服に戻さない? 隊服似合ってたよ。とっても可愛いよ」
「嫌です」
「泣きそう」
冷めかけたスープを下ろす。開いた胸元から杖を取り出し、全員分のスープを温める。杖を引っ張り出したままボタンを留めた。袖が落ちてきて無言でたくし上げる。王子の服は私には大きいが、全身黒で気分がいい。袖や裾をたくし上げ、腰回りを絞り上げる手間などどうでもよくなる。
「王城内で欠魂者が出たにもかかわらず、調査が全く行われていない。王妃が原因なら王が把握しているし、あの方はお前に関して以外は常識的だ。他には使わないだろうから、当然調査は行われない」
「で、お前の見解は?」
「僕のではなく家の伝手で集めた魔術師達の見解だ。現場には魔物の残滓があるも薄い。魔物本体がいたとは考えづらい。魔物の力を一部譲渡された魔術師がいたと見るほうが妥当とのことだ」
「俺、いまいち魔法と魔術の違いが分からんのだが」
「おい、魔術師」
サンドイッチから噛みきれなかった厚手のハム脱走を阻止していると、お呼びがかかった。ハムを完全に脱走させ、スープで丸呑みする。温め直さなくてよかったなと思った。
「魔法と魔術の違いは」
「待て! ちょっと待て!」
「はい」
「丸暗記の教科書そのままは勘弁してくれ。砕いて、易しく、頼む」
「了解しました」
王子がそう言うのなら仕方ない。少し黙り、話そうとしていた内容を頭の中で整理する。
「では例えで話しますが、魔法は物理的な力、魔術は解から解く数学です。対象者が魔力持ちであることは前提となります。ここに林檎があるとします。その林檎を潰したいと考えたとき、魔術は林檎を潰す術を模索します。潰れた林檎を解とし、そこに至るまでの式を構築します。式と解が繋がれば魔術となり、解は現実の物となります。林檎が潰れなかった場合、式が間違っているので、式を見直します」
「……これ易しいか?」
「魔法は自分の手で林檎を潰します。林檎が潰れなかった場合、それはただ自分の握力が足りなかったからです。だから握力を鍛えます。何の理解も公式も必要ありません。力任せが可能なのは魔法だけです」
「あー……何となく分かった」
よかった。易しくなったかは自分でもよく分からない。そもそも、他人が理解できるよう意識して話したことがないのだ。
「そうなると、魔法を扱えるのが魔物だけっていうのも分かる気がするな」
「はい、そもそも人間は魔法に耐えうる構造をしていません。しかしごく稀に、魔法に対する耐性を持った人間がいます。魔物と比べれば微々たるものではありますが、多少は耐えられます。そういった人間が魔物と契約した場合、魔物の力を扱えます。正確には扱える場合があります。自分の身体が四散しない程度に力を借りて使用すれば、魔術師でも魔法を扱うことは可能です。四散と言いましたが、圧縮されて拳大になる場合もありますし、石になったり塩になったり土になったり様々ですので四散とは限りません」
「食事が美味しいなぁ……」
王子が急に遠くを見つめ始めた。話に飽きてきたのだろうか。私は会話を弾ませる術など知らないので頑張ってもらいたい。
「僕と一緒に習っただろうが」
「お前に便乗する形で習ってはいたけどな、俺いない日もあっただろうが」
「王妃に殺されかけた次の日とかな」
「そうそう。だから俺、あの辺りの授業内容すっぽり空いてるの」
その後追加で勉強しなかったからさぁとけらけら笑う王子を、イェラ・ルリックは呆れ顔で引っぱたいた。
友人二人が楽しげに思い出話に花を咲かせている間、私はハムを失い野菜とパンのみになったサンドイッチ攻略に再び取りかかる。すると、ハムが出現していた。
顔を上げれば、王子が新たに取り出したサンドイッチにかぶりついたところだった。そこにハムはいない。王子はもうこっちを向いていないので、お礼を言いそびれた。ハムが収容されたことによりちょうどいい塩気が帰還し、美味しい。スープで死にかけた味覚が帰還する。
「僕はあの時間帯にあの辺り一帯の広範囲にはなるが、目撃された魔術師を当たる。お前達はとにかく影を何とかしろ。欠魂を隠すなら影をどうにかしないと始まらん。ずっと日陰や夜を歩くわけにもいかないだろう」
「俺が引き籠もったところで誰も気にしないだろうけどな」
「一度引き籠もったら二度と出られなくなるからやらないと言ったのはお前だろう」
「お前よく覚えてるなぁ。そんなの五つかそこらの話だろ」
「お前と同じで暇人なんだよ、僕も」
「俺なんかと関わってるからだろ。医者と兼任は大変だろうけど、宰相の仕事も手伝えよ」
「今でも手伝わされてるだろ。いつも通り、半分はお前やれよ」
「いつも思うんだけど、なんで俺、当たり前にお前の仕事手伝ってんの? おかしくない?」
「その分タダで診てやってるだろう」
「診てって言ってないよね!?」
イェラ・ルリックはサンドイッチを掌で潰すと、口に放り込みあっという間に飲みこんだ。成程、そうやって食べると早く済むのか。いいことを知った。忙しいときに実践しよう。
「お前達はどうするんだ」
「あー、こいつが影をどうにか出来るかもと言ってるから、二課の研究室に行く予定だ」
スープも飲み干したイェラ・ルリックは、手を叩きながら立ち上がる。
「あまり長引かせると、仕事が溜まって徹夜一直線だぞ。いつもなら自分の事なんざほっとけというお前も、巻き添えがいる現状ではそうもいかないだろう。いい機会だ。そいつを守るついでに自分の身も守ってみろ」
「何度も言うけどな、俺はちゃんと自分の身を守っていーまーす! そうじゃなきゃ、とっくに殺されてるだろ」
「どうだかな、あほんだら」
「今のどこにあほんだら要素が!」
叫ぶ王子を無視して、イェラ・ルリックは玄関扉に手をかけた。しかし、不意に振り返る。
「魔術師」
「お前の態度も相当だよなぁ」
「うるさい、頭の中宵闇」
「それ罵り文句!? ……はっ、根暗!? 根暗ってことか!?」
「現状を打破する唯一の手段を取るつもりのないお前なんて、あほんだらで充分だ」
王子が先に反応したので返事をし損ねたが、とりあえず要件を待つ。王子を黙らせたイェラ・ルリックは、私へ視線を戻した。
「お前についてもざっと調べた。出世も名誉も他人も自分の命にも興味が無い、氷の精と評判のようだな。そのお前が何故こいつに協力する。雷雨投入時、戦場に立っても眉一つ動かさず、隣に立っていた同僚が敵の流れ弾で死んでも視線一つやらなかったそうだな。お前は自身もこいつも、欠魂で永久の眠りについたところで気にしないだろう」
「イェラ」
「黙ってろオルトス。お前はこいつの目的が何であれ気にしないんだろうが、僕はそうじゃない。現状クリサンセマムを無効化する薬も術もない。だからお前が暗殺者でないことは信じる。だが、答えろ魔術師。お前は何故こいつに力を貸す」
これは恐らく、昨日の段階で王子が聞かねばならない事柄だ。けれど王子は何も尋ねなかった。クリサンセマムを飲んで答えたから?
本当にそれだけだろうか。
いや、違う。どうでもいいのだ。
イェラ・ルリックが言う死にたがりは、説得力がとてもある。暗殺者が来たら退けてきた人だ。けれど、一人でぷらぷら歩き回るその様子は、死を退けようとしているとは思えない。
剣の腕はある人だ。けれど魔術の才はない人だ。何度も死にかけた話を耳にした。何度も何度も怪我をした話を耳にした。命は守っているようだが、怪我にはまるで頓着していない。
イェラ・ルリックが医者になったのは何故か。考えなくても分かることだった。
王子と目が合う。確かに私を見ているのに、その視線はどこまでも空虚だ。輝いたのは私の名を知ったあの一瞬だけで、後はガラス玉のよう。いつか砕ける繋がりを見つめる暇はないのだろう。
私が暗殺者でも、この人を罵倒しても、侮辱しても、きっと笑うのだ。昨日と同じように、しくしく嘆いて、ぎゃんぎゃん怒鳴って、けらけら笑って、じゃあ仕方ないなと言うのだろう。もう傷つく場所が残っていない心で、きっと笑うのだ。
ならば、笑えないようにしてやろう。
「王子が好きだからです」
「――――――は?」
そのガラス玉を溶かす熱が、いつか宿ればいい。
「だから王子がよくいる庭が見える通路を選んで通っていました。だから王子の名を知っていました。だから王子が戦場に出されることを聞いて雷雨を作りました。防御壁も作りました。毒検出装置も作りました。まだ必要な物があれば仰ってください。作ります。欠魂についてはこれから研究しますが、私は王子のお側に侍ることが叶って嬉しいです」
「ちょ、ちょっと待て! お前なに言って……モテない男をからかうものじゃありません!」
持っていたサンドイッチを握り潰した王子の前に、ずいっと顔を寄せる。本当は直接関わりたくはなかったけれど、こうなっては仕方ない。
「あなたが好きです、王子。だからどうか、あなたの未来を考えてください。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
茶化すことも怒鳴ることも嘆くことも出来なくなった王子の手から、握り潰されたサンドイッチがぼたぼたと落ちていく。野菜とパンのみとなったそれは、彼の優しさだ。そういうところも好きだと告げたら、更に呆けてしまった。
照れるわけでもなく、青褪めるわけでもなく、ただただ呆けたあなたの心が動けばいい。
熱を灯せ。熱を灯せ。あなたに熱を。あなたの生に息を吹き込め。
熱を灯す光の火が現れたその時、私は約束を果たすのだから。