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新魂






 急な寒気により、突如として早まった本格的な冬の到来に追いつかれた旅人達は、皆一様に暗い顔をしている。深く外套の襟を寄せ、足早に進んでいく。

 肌を簡単に通り抜け、骨にまで到達する冷気を纏った風を避けるよう俯きがちな視線が上がるときは、空模様を確認するときだ。

 そして、一向に降り止む気配を見せない重たい雪雲を見て、うんざりした顔を再び俯ける。後はひたすら足早に今日の宿を目指すだけだ。

 そんな中、馬に揺られながら鼻歌を歌っているのはオルトスくらいではないのだろうか。

 そしてそれは、何も問題ではない。オルトスの行動は何一つとして制限されるべきではなく、また感情の発露であるというのなら尚更だ。何者も妨げることは許されない。


「また古い歌を」


 鼻歌こそ歌っていないが、こちらもどこか機嫌のよさそうなイェラが馬を進め、オルトスの隣に並ぶ。


「俺が知っている歌などたかがしれているからなぁ」

「一時期のお前は、襲撃の気配が分かりづらくなると音が出る物一切合切を拒んでいたからな」

「そもそも音楽に触れる機会も少なかったんだ。その価値をあまり重要視できなくてなぁ」

「楽師を部屋に呼ぶわけにはいかなかったのも原因の一つだな」

「仕様がないと言えば仕様がないと思うんだよなぁ」

「仕様がないと言えば仕様がないな」


 互いに語りかけるようでいて、独り言のようでもある会話だ。そこにあるのは親しみと慣れだろうか。視線を合わせるわけでもなく、馬の歩調と機嫌が合っている二人の背中を見ながら、後を追う。

 本来ならば私が先頭を行き、イェラが殿を守るべきなのだろうが、この旅路で先頭や殿はあまり重要視されていないので今更である。


「それに古い歌と言うが、俺が知っている音楽は大半がお前経由だぞ」

「僕を一通りの楽器が扱える人間にした責任は取ってもらうからな」

「ははは! お前も大概器用な奴だよなぁ」


 料理に医学に音楽。確かにイェラはとても器用な人間だ。

 そしてその全てがオルトスの為に築き上げられた技術であることは、周知の事実である。


「市井の流行り歌を知らんのは、まあ許せ」

「お前が知らない歌は俺も知らないんだよなぁ」


 機嫌のいい笑い声を上げたオルトスがくるりと後ろを向く。


「お前は? 好きな音楽はあるか?」


 声がけはおろか、目線すら合わせていない二人の馬が左右にずれつつ速度を落とした。そのまま私の左右に収まった体勢に、思うところがないわけではない。本来、こういった陣形を取る場合は私の位置にオルトスがいるべきである。

 だがまず優先すべきは、私の思うところではなくオルトスからの問いかけに対する答えだ。


「いえ全く」

「うん、潔くていいとすら思う答えだな。そしてわりと予想通りだった」


 うんうんと頷いているオルトスに、補足を続ける。


「正確には好きという感情も嫌いという感情も抱いたことがありません」

「うん、凄いな。言葉を足せば足すほど大惨事だ」


 長くならないよう要点だけを纏めたつもりだったが、大惨事だったらしい。だがオルトスの機嫌はいいままなので、問題ないだろう。

 視界に白い影が落ちる。焦点を合わせずとも、それが何かは分かった。


「ああ、また降ってきたな」


 一時は降り止んでいた重たい雪が、再び地表に降り注ぎ始めた。視界を遮られる状況を好まないオルトスは、こんな状況だというのにフードを被っていない。

 オルトスの鼻の上が少し赤くなっている。防寒の魔術を使ってはいるが、完全には遮断し切れていないのは、ひとえに私の魔術師としての才不足だ。

 私の才が、常時魔術を発動し続けられる魔力を貯蔵できる形をしていればよかったのにと、いつも思う。しかし防寒のために使用し続け魔力を枯渇した状態で旅を続ければ、それこそオルトスに迷惑をかけてしまうので諦めるより他ない。

 常に快適な温度を保てる魔道具開発を急ごうと心に決める。


「エリーニ」

「はい」


 厚い雪雲が覆う空は、まだ夕刻には遠い時間でも世界を薄暗く見せていた。それなのにオルトスは、真夏の日差しの下を歩いているような顔をしている。とてもではないが、幾人もの前任者を屠ってきた地へ向かっている人間には見えない。


「俺が知っている歌くらいなら教えてやれるから、興味が出てきたら言ってくれ。楽器もまあ、多少はいけるぞ。物によるがな」

「騙されるなよ、エリーニ。こいつの多少は、世間では玄人の域だ」

「お前にだけは言われたくないんだけどな、それ」

「圧倒的に性質が悪いのはお前だ」

「そうかぁ?」


 オルトスとイェラの会話は、それ自体が一つの音楽のような速度で進んでいく。聞いていて心地よい。単調な馬の揺れも相まって、なんだか眠くなってきた。

 そう伝えると、オルトスとイェラは形容し難い表情を浮かべ、どちらからともなく顔を見合わせた。


「おいオルトス。これ最悪の子守歌じゃないか?」

「おいイェラ。真っ当な子守歌頼む」

「僕が歌ってやったから、お前も知っているだろうが」

「お前の子守歌、何はともあれ余計なこと考えずさっさと寝ろボケ馬鹿野郎だったんだけど!?」

「寝ただろ、お前」

「まあ、拳と注射器と次なる罵詈雑言を構えたお前がベッド横に立っていたらな? 寝る以外の選択肢が消え失せていてだな?」

「お前が十日くらいまともに寝なかったせいだろ、って、馬鹿、寝るな!」


 完全に眠りに落ちてはいないのだが、目蓋が落ちかけた私に二人の慌てた声が飛んできた。

 馬上で居眠りをすれば落馬して首の骨を折る危険性があり、眠るつもりはないので大丈夫だ。




 それからしばらく、オルトスの機嫌は殊の外よかった。

 よすぎた。

 オルトスが楽しいならばそれでいい。だが、そうあろうとしているのであれば話は別だ。そうありたいのであればそれもまた別の話なのだが、どうやらそうでもなさそうだった。


「飛ばせば次の町までいけるか」


 確実に積もるであろう重たい雪が降る、後一時間もすれば日が暮れるであろう時間。

 それなりに大きな町の中で、オルトスはそう言った。

 私達が今いるのは、寂れがそこかしこに蔓延してはいるものの、それなりに大きい町だ。

 栄えていた時代の名残で、あちこちに手間と値段がかけられた建物がある。しかし、町の北区画にある多くは老朽化し、撤去も維持も叶わぬ状態で放置されていた。使われぬ建物が増えれば増えるほど町の寂れは可視化していく。可視化した寂れは次なる寂れを生み、呼び寄せる。

 逆もまた同様に。

 羽振りのいい建物の周辺には店が集まり、店が集まれば人が集まり栄えは続く。元が大きかった名残で住人の数は多く、収入の差により割れていった様子がはっきりと視覚で捉えられる。

 ここはそんな町だ。


 東区画は王都の貴族がわざわざ足を運ぶほどの名店、高級店が建ち並び、南区画は東区画に住居を構える余裕まではないけれど、生活に困ることはない人々が暮らす。西区画は工業地帯であり、南区画に住むことは難しい人々が暮らす。

 そして北区画は、明日をも知れぬ人々が寒さに震えながらも寄り添う強さを持てず、全てを敵にして縮こまる場所。

 そんな町の正門とされる場所は南区画にある。今は、夜に追いつかれないようこの町を今日の拠点と決め、宿探しに奔放している旅人達で賑わっていた。

 そんな中、次の町を目指そうとしているオルトスは奇特な部類に入るだろう。現に、横を通り過ぎようとしていた二人組の旅人が、ぎょっと視線を向けていったくらいだ。

 皆、今夜の宿を探そうと忙しない中、私達は馬から下りてはいるものの荷解きは勿論、宿探しもしていない。イェラが、好きにしろとの言葉を置いて物資の補充に行っただけだ。


「オルトス」

「んー?」


 イェラは要望を何も言い置いていかなかったので、オルトスの判断に任せるつもりのようだ。

 私はイェラではないので、オルトスの考えが分からない。少し赤くなったオルトスの鼻と頬を見上げながら、問う。


「次の町でなければならない理由、またはこの町ではいけない理由があるのならば教えてください。けれど教えたくないのであれば教えないでください」


 防音の魔術を張るため、杖を取り出そうとした私の腕をオルトスが止めた。


「お前に魔術を使ってもらう必要はないんだ、が」


 歯切れの悪い理由に思い至れない私は、自身の未熟さを猛省するしかない。過ごした時間の短さ故か、私の至らなさ故か。それすら分からないのはひとえに私の力不足である。

 エルビスまで、先を急ぐ必要はない。それなのに天候の悪化が見込まれる夕暮れ間近に町を出ようというのだから、何か理由があるのは確定事項だ。だが、その何かが私には分からない。

 オルトスに手間をかけさせたくはない。ましてや不快にさせるなど以ての外だ。


「さて、どうしたものか」


 弱り顔をさせるのも本意ではない。困った。とても、困った。

 私が困っていると、オルトスは苦笑した。


「お前はいいのか?」


 オルトスが笑ってくれたので何よりだが、問いの意図は理解できなかった。やはり私は不出来だ。


「私はオルトスの安全が確保され、オルトスが快適に過ごせる環境であるのならどこでも問題ありません」

「お前が何も分かっていないことが分かったように思えるが、俺は一つ学んだ」


 オルトスは一つ咳払いをした。


「お前、ここがどこか分かってる?」

「はあ。オルトスと初めて会った町です」

「お前の故郷っ!」


 ぎゃんっとオルトスが吠えた。オルトスが元気で何よりだ。


「やっぱりな! 嫌な予感したんだよ! 分かってないのならともかく、分かっててこれなんだよな!?」

「これが何かは分かりませんが、町の形状を見るにここがオルトスと会った町で相違ないかと」

「……ん? エリーニ、説明」


 あの当時、父親から提示される課題はどれも遠い世界のことだった。生活を整える知恵や技術、そして一般的に常識とされる事柄の一切合切がそこにはなかった。

 この町を出る際も、行き先を定めたわけではなかった。地理は勿論地名も知らなかったので、当然町名など理解していなかった。その上で興味もなかったので、改めて調べることもなくそのままだ。

 オルトスがこの町に戻ってくることは恐らくないだろうと思ったのも、理由の一つだった。

 そういったことを告げると、オルトスは深く溜息を吐いた。

 長かっただろうか。私なりに短くしたつもりだったが、どうやら駄目だったらしい。とりあえず息継ぎの回数を増やしてみたのでは駄目なようなので失敗だ。別の手を考えよう。

 そんなことを考えていると、人の流れが変化した。オルトスがさっと視線を上げる。


 どうやら、大人数の集団が現れたようだ。周囲はにわかに騒がしくなった。

 運ばれている荷や集団の格好を見るに、サーカスの一座が到着したらしい。一座を見ようと駆けつけた町の住民も相まって、周囲は一気に人混みが増した。

 イェラの馬を連れ、オルトスと共に道の端へと移動する。正門の側には旅人を当てにした店が沢山連なっているが、店の前を陣取らない位置取りにさっと移動するオルトスは流石だ。

 一座は今年の冬はこの町を拠点にするのだろう。群がってきた住民達相手に、派手な芸を披露している。重たい雲の下、雪に負けじと重たい音と軽快な音が入り混じる音楽が鳴り響く。

 鮮やかな衣装に小道具が人混みの隙間から見える。極彩色の紙吹雪は、人混みを縫ってこっちまで届く。

 この喧噪だ。防音の魔術を張らずとも声は勝手に遮られる。隣同士のオルトスの声も飲まれてしまいそうで、意識を集中している私の耳元へ、身体を傾けたオルトスが唇を寄せた。


「お前はいいのか、この町で」

「特に問題は思い至りませんが、オルトスに問題及び苦痛を感じる要素があるのであれば次の町へ進みましょう。天候を見るに野宿は避けたほうがいいのでしょうが、野宿のほうがよければどうにかします」

「うん、そういうことじゃないんだわ」


 オルトスがぐったりしてしまった。


「オルトス、具合が悪いのであればこの町での宿泊を進言します」

「うん、そうね……お前がいいならもうそれでいいよ」


 私はオルトスが快適に過ごせるのであれば何でもいいのだが、それを伝えれば更にぐったりしてしまった。風邪かもしれない。それとも疲れが急に出たのか。イェラが早く戻ってくるといい。

 イェラはどこにいるだろう。急激に状況が変わったので一度戻ってくるはずだ。

 私達の場所が分かりづらいのであれば、杖を伸ばしておこうかと考えていると、一座の一人と目が合った。

 短剣をくるくると回し、その直後火を噴いている。暖が取れそうだ。オルトスが凍えそうな状況で私の魔力が底を尽き、燃やす物が何もないときは傍にいてほしい。

 男が再びくるりと短剣を回したかと思うと、その手に握られている存在が一輪の花になっていた。その赤い花を、男が放り投げる。歓声と嬌声が上がった。

 大きく弧を描いた花が目の前に降ってきたので、とりあえず手に持つ。花からは薄ら魔術の気配がするが、それ以外は感じないので、ここまで投げてきたのは彼の技術だろう。軽く不安定な重心の物をここまで投げる。その技術は、彼が日頃から培ってきた努力の証明だ。

 赤い花は、どうやら薔薇だったようだ。香りが強い。この季節に鮮やかに咲いているところを見ると、魔術で保管されていたか咲かせたものだろう。

 視線を上げれば、男は片目を瞑った後に二本指を自らの唇に当て、離した。


「オルトス、花は好きですか」

「……この流れで俺に横流ししてくるとは思わなかったなー」


 視線をオルトスに戻せば、呆れた顔をしたオルトスが私を見ていた。馬は暇そうに虚空を見ている。

 馬が暇そうだ。この喧噪だ。いつもとは違う環境下で興奮する馬もいるが、三頭ともそうではないらしい。環境の変化に弱い個体では旅に向かないので、これは喜ばしいことだ。

 しかし、やる気が削がれるのも問題である。家畜は人間の都合に左右されるものだが、肉体的にも精神的にも安定している状態が理想だ。生き物である以上精神面も配慮したほうが安定するのは分かりきっている。

 オルトスが乗る馬なのだからどこまでも安定していて困りはしない。今度馬の暇を潰す方法を考えよう。学ばなければならないことが多すぎて時間足りない。


「魔術がかかっていますので、通常より長く保存できるかと」

「いらん」

「分かりました」


 オルトスがいらないのであれば荷物を増やす必要もない。こっちをじっと見ていた少女にあげることにする。

 少女はぱっと嬉しそうに笑い、礼と共に受け取り駆け出した。地元の子どもなのだろう。人を避けられる道をしっかり把握した、土地勘がある子どもの走りだった。

 私にはできない走りだ。私が把握しているこの町は、北区画の一部、それを夜しか知らない。家の近くを流れる川と、夜の屋根の上。それだけだ。

 なんとなく少女の後ろ姿を見つめていると、オルトスが声を出したので視線を向ける。オルトスの言葉以上に大事なものなどこの世界には存在しない。


「いいのか?」

「何がですか?」


 オルトスは、また火を噴いている男に親指を向けた。


「あいつ、あの一座の花形だぞ。あいつが花を投げたのはお前だけだ。お前、相変わらずモテるなー」

「そうなんですか」


 男の特徴。鮮やかな衣装を着用している。以上だ。

 次に会ったとき、私の感想は決まっている。誰だ。以上だ。


「……お前、モテるのに勿体ないよな」

「何がですか?」

「他の男との比較で勝てる見込みがないから言わないでおく」

「何がですか?」

「言わなーい」


 その後戻ってきたイェラが再び出動し、南区画内で宿を取ってきた。

 王都を出てすぐの頃は部屋割りで少し揉めることもあったが、今はそんな無駄な時間を過ごすことはない。一番手間が省け、安全も確保できる三人同室。以上だ。

 誰が一人部屋になるかの議論も、始めの頃はあるにはあった。

 区別を身分にすればオルトスが、性別にすれば私が、自己申告曰く気苦労にすればイェラが一人部屋案が出た。三人別室は議論の対象にも上がっていない。そもそも旅先で確実に三室を取れるわけではないのだ。

 結果的に纏めて一室になったわけだが、防衛魔術をかけやすくて非常に助かっている。三人同室に最後まで抵抗したのはオルトスだったが、その場合私が備蓄している予備魔力が毎日数本単位で消えていく旨を説明すれば、大いに嘆きながら渋々納得しながら嘆いていた。

 よってこの旅での基本は三人同室が決定した。魔術師としてはとても楽だ。



 栄養補給も睡眠も恙なくこなせた翌日、早朝に目が覚めた。

 エルビスへの旅が始まって以降、日常であった夜を徹しての研究をすることがなくなり、朝が早くなった。

 呼吸をするだけで痛む肺に、今日の寒さを知る。起き上がり、ひとまず暖炉に火を入れた。魔術を使ってもよかったが、私の魔力量は決して多くはないので、手でできる事柄は手で済ませてしまうのが、結果的に一番手っ取り早い。

 暖炉に火を入れても、部屋を暖気が満たすにはまだ時間がかかる。今はまだ、暖炉から少し離れるだけで白い息が見えた。

 睡眠時間は充分に取れている。ならば起床した人間が見張りがてら起きているのが一番効率的だと思い、睡眠に戻ることなく一日の行動を開始することにした。

 できるだけ音を立てないよう身支度を整える。同じ部屋で着替える場合、何か境になる物の陰で着替えるか、申告した後二人が視線を外してからにするようにと言われているが、二人とも眠っているので問題ないだろう。

 そもそも着替えといっても、緩めていた部分を締め、上着を羽織るだけだ。この旅ではずっとそうやってきた。有事が起こった際、すぐに動けないのなら意味がないのだ。

 身支度を済ませ、振り向く。隣のベッドではオルトスとイェラが眠っている。この宿は一部屋にベッドが二台までしか置けないのだ。一台しかない場合は三人で詰めるか、椅子があれば一人がそっちで寝るようにしてきたので、二台あればいいほうだ。

 二人を起こしていないことを確認し、立ち上がる。

 活動を開始するといっても、早朝だ。オルトスとイェラが寝ているのであれば邪魔をしてはならない。ならばできることは決まっている。

 私は窓の外を見ながら、これから進めていく研究と学習の優先順位をつけることにした。当然ながら、オルトスにとって必要な事柄が最優先だ。だが私の行動原理はそれしかなく、どれもオルトスにとって必要と思った事柄ばかりなので難しい。


 窓の外は、白に覆われている。昨日降り始めた重たい雪が積もったのだろう。

 寒い朝は肺をも凍り付かせようとする冷たく尖った空気が蔓延している。冬の朝の空気が、透明だと表現されることは知っていた。

 だが、私の知っている冬の空気は、いつだって淀んでいた。淀み、濁り、内からも外から突き刺し爛れさせる攻撃性だけを持った、命の天敵のような空気だった。

 私がこの町にいたとき、誰より身近にいた人間が私にとってはそういう存在だったなと思い出す。思い出したことで少し思うところあり、考える。


「やっぱり気になるか?」


 いつ如何なる時も、身体反射のように意識が向く声がした。

 振り向けば、自分が抜け出した毛布の隙間を閉ざし、上着を羽織ったオルトスが音もたてずベッドから下りたところだった。

 隣に並んだオルトスは、私がさっきまで見ていた窓の外へ視線を向ける。


「気になるとは?」


 声を潜めて問うと、オルトスは静かに笑った。それは彼の感情の発露というよりは、私の為に用意された表情に見えた。この人は優しい人だから、自分の為より、誰かの為に笑うことが多いのだ。


「思うところはあるんじゃないか? ……ここは、お前に優しい町じゃなかったからな」


 そう言われて、頷く。確かに思うところはあった。


「思うところが全くない自分に、多少思うところがあります」

「……………………溢れんばかりのお前らしさをどうもありがとう」


 オルトスの笑顔は完全に消え失せ、呆れと嘆きと悲しさと虚しさを詰め込んだ諦念を浮かべていた。起きたばかりなのに感情が忙しい人だ。


「お前の答えにちょっと予想がついていた自分に絶望しそう……」

「申し訳ありません、オルトス。ここで浮かべるべき真っ当な感情に思い至らない類いの人間がお側にいて、ご迷惑をかけることはありますか。あるのでしたら、常識的な感情を浮かべられる人間になりたいのですが、その方法が思い浮かびません。そういえば父親は母を愛していたらしく、私を憎んでいたので、少なくとも愛憎は持っていたなと思いますので学んできたほうがいいでしょうか」

「その結論に至るのはちょっと予想外だな!」


 思わず上げてしまった声だったのだろう。オルトスは叩きつける勢いで自分の手を口に押し付け、慌てて先程自分が抜け出したベッドを見た。

 未だイェラが潜っている毛布は動きを見せない。イェラは結構寝起きが悪いのだ。

 強張らせていた肩をほっと落としたオルトスが、そぉっと視線を私に戻した。


「……会いたいわけでは、ないんだな?」

「私が会いたい存在はオルトスだけです」

「いや……うん……そうね、ありがとう……」


 せっかく私を見てくれたオルトスの瞳は、オルトス自身の手によって覆われてしまった。


「どうしたもんだろうな、これ……」

「今ならば殺されずに会えるかと思ったのですが」


 深い溜息を吐いたオルトスの手が外され、再び私を見る。嬉しい。

 オルトスと視線が合っていると、いつも温かい。オルトスがいれば暖炉は必要ないのではと思うくらい温かくなるのだが、オルトスの恩恵をオルトスは受けないようなので暖炉の火を絶やしてはならない。


「会いたいわけじゃないのならやめておけ。復縁や復讐を望んでいるのではない限り、勧めない」

「分かりました」


 復縁は勿論、復讐も望んでいない。そもそも、あの人に望むものが一つもない。不幸になれとは思わないが、幸せになってほしいとも。

 あの人に向ける感情がない。何一つ。あの人という存在に思うところは何もなかった。

 生死すら知ろうと思わない私という個体は、人間として間違った倫理観を持っているのだろうなとは思う。その過程で存在を記憶している事実を知るくらいだ。

 もう一度、深く長い息を吐いたオルトスは、少し困った顔をした。けれどその瞳はどこまでも柔らかい。幼子の手を引く親が子に向けている瞳にどこか似ているのに同じではない、不思議な色をしている。


「エリーニ」

「はい」


 ただ、オルトスが私に向けてくれる瞳はいつも温かい。それだけは分かった。


「俺に、何かしてほしいことはないか?」

「生きていてほしいです」

「あ、はい、どうも……って違うわ!」


 オルトスには、幸いと感じる生を歩んでほしい。一般常識を心から述べたのだが、オルトスはぎゃんと吠えた。


「俺に、お前に対して何かしてほしいことはないかって聞いたんだ!」

「はあ」

「はあじゃあない、はあじゃ」


 そうは言っても、そんなこと考えたこともなかったのだ。

 そんな私を見て、オルトスは呆れた顔になる。さっき吠えた衝撃で落ちかけた上着を羽織り直し、腕を組む。


「そんな全く考えたことありませんでしたって顔されると、少々複雑だぞ」

「私はオルトスの損失にならずお側にいられたら嬉しいです」

「質問の答えとしては不適切。ついでに言えば、損失にならずってところも不適切」

「お側にいられたら嬉しいです」

「どうもありがとう。で、質問の答え」


 オルトスは、時々よく分からない。ぎゃんっと怒る時もあれば、静かに笑う時もあるから余計にだ。けれどオルトスのことならば理解したい。オルトスが私に求めているものを返したい。

 私が理解できないことは、分からなくていい理由にはならないのだ。


「オルトスに、してほしいこと……」

「深刻に悩む必要はないぞ。何でもしてやるから、便利な小間使いができたと思って言ってみろ」

「何でも……」


 オルトスにしてほしいこと。何でもいい。

 その言葉を理解した途端、口から音が滑り出ていた。


「あの頃みたいに抱いてほしいです」


 王子の口から壊れた鞴のような音が飛び出した。

 そのまま激しく噎せ込むので、呼吸に支障を来たしたのかと私は慌てた。イェラを起こさなければと向きを変えた私の腕を、オルトスが掴む。


「だ、いじょうぶ、だ」


 オルトス自身のことに対するオルトスの大丈夫はあまりあてにできないのだが、ひとまずオルトスの言を信じる。その上で、やっぱり駄目だと判断したらオルトスを裏切ろうと決めて様子を見ることにした。

 しばらく黙って見つめていると、オルトスの呼吸はなんとか平常状態へと回復してきた。ほっとする。

 オルトスは、未だ少し乱れた荒い呼吸を、大きな深呼吸で飲みこんだ。


「抱っこ、抱っこな、抱っこだな!」

「……駄目でしょうか」

「それはいいんだけどな!?」

 

上着ごと大きく広げられたオルトスの腕が、私を抱え込む。寝起きの体温も相まって、普段より温かいように思う。元よりオルトスは私達の中で一番体温が高いのだ。

 抱えた私の頭に顎を置いたオルトスの深い息が、振動と共に聞こえる。オルトスは温かい。体温も肌も瞳も吐息も、音も気配も匂いでさえも。

 温かさというものは、じわりじわりと浸透してくる。そう知ったのは、オルトスからだった。

 オルトスの腕が広げられ、その中に抱えられてから、暖かな空気が私を覆う。温度と、香りと、柔らかさと。それら全てが温もりで。

 大きく固く柔らかい。そんな温かさをがあること、初めて知ったのはこの人だった。


「言い方に思うところは多大にあるが……お前は欲が無いなぁ」

「そうでしょうか」

「曲がりなりにも王子が何でもすると言ってきたんだ。領地の一つでも強請ればいいものを、こんなことでいいのか?」

「あなたの体温以上に欲しいものはありません」

「うん、言い方」

「あなたの肌の温度が欲しいです」

「言い方っ」


 私がこの世界で初めて温かだと思ったのはオルトスだった。オルトスの言葉であり、体温だった。体温とは基本的に肌から発せられる。だからそう言ったのだが、オルトスの様子をみるに不都合があるようだ。


「ですが、あなたの体温以上に温かいものを、私は知りません」

「……………………お前それ、他の男には絶対に言うなよ」

「何故ですか?」

「男に理由を作らせるな。いいな」

「はい」

「……絶対分かってないよな、お前」

「はい」

「……………………」


 オルトスの腕は長く、身体は私より大きい。私より高い体温を持った私より大きな身体が私を覆った世界は、柔らかな温もりと穏やかな心音が彩る場所だ。ここ以外、目指す場所はどこにもなかったし、それでよかった。


「オルトスの発言を理解できていない事実は大変申し訳なく思うのですが、他の人間に同じ言葉を告げる可能性は無いに等しいので大丈夫かと」

「ああ、そう……」


 オルトスは疲れ切った声を上げているが、これは事実だ。


「勉強を有意義に行っていることに気付いた父が、私を働かせようとしていた場所は北区画にある娼館でした。北区画はほぼ無法地帯ですので、法律で禁止されている年齢の子どもも働いており、その店で働かせるつもりだったようです。働く前に品質検査があるのですが、そこでオルトス以外で初めて私を殴らない人に会いました。ですが、温かいとは思いませんでした。初物は高くなるそうですが、私は髪の問題があり、即時の採用には至りませんでした。結局、働きに出る前に町を出ましたが、町を出た後も、誰の温度も生温い何かでした。熱が出た人と握手をしても、そう思いました。思うに、私は基本的に他者との接触をあまり好まない性質を持っているのかもしれません。私が温かいと思うのはオルトスの体温だけです。ですから、オルトス以外に発言する可能性は皆無に等しいかと」


 オルトスは私を覆う腕の位置を変え、深く抱き直した。

 温かい。決して強くはない力が籠もった腕は、柔らかなのに私の体重を傾けても動かない不思議な力だ。


「……どうしような。お前他に、俺にしてほしいことはないのか?」

「オルトスにとって不都合がなく尚且つ気が向いた際、また抱いてほしいです」

「言い方ぁ――!」


 絶叫した後、ぐったりと脱力したオルトスの身体が徐々に震え始めた。どうやら笑っているようだ。


「お前の父親の罰は、お前を知らずに生きることだな」

「それが罰になるとは思えませんが、私への罰は何でしょう」


 私を抱えたまま、オルトスは頭を上げた。体温は少し離れてしまったけれど、オルトスが囲った世界は温かなままだ。


「お前に降ったものは、罰ではなくただの不運だ」

「不運、ですか?」


 オルトスの笑顔は穏やかであり、どこか不穏を宿していた。子の手を引く母親のようで、無情を嘆く老人のようで、庇護を担った父親のようであり、諦念を知った子のようであった。

 不思議な顔をしたオルトスの顔が降ってきて、唇が鼻へと落ちた。


「俺以外の人間が、お前を見つけてやれたらよかったのにな」


 それこそが不運なのではないかと思う。


「……ごめんな、普通に愛してやれなくて」


 どうしてそんなに、雪のような声で笑うのだろう。

 そう問いたかったが、ついでのように旋毛へ降ってきた唇を受けている間に、話は終わってしまったようだ。


「起きたか、イェラ。おはよう」

「…………………………おはよう」


 眠気に溶けた声が、部屋に加わった。まだ毛布を被ったまま身を起こしたイェラは、どこを見ているかよく分からない。


「…………可愛がりたいのか……甘やかしたいのか……両方なのか、は、知らないが……その結果、出てきた言葉が何でもするは…………落第だろ、お前」

「喧しい。甘やかし方なんざ知るか」

「……エリーニは、まあ…………言い方は落第だが、まあ……及第点でいいだろ」

「いやあれ、絶対ろくでもない男引き寄せるから直したほうがいいだろ」

「相手……お前だし……いいだろ……別に……どうせ、お前だし……」

「俺への対応雑すぎない?」


 話してはいるが、イェラはまだ半分以上寝ている。話している内に覚醒するのだそうだ。

 オルトスも合わない視線を気にせず、イェラの意識が完全に覚醒するまでのんびり待っている。

 こんな状態だが、医師が必要な状況になれば即座に覚醒する。当人曰く気合いの問題だそうだ。普段からそんな気合いを籠めて起床していては疲れるから絶対に嫌だと言っていた。



 イェラが起きたら朝食にして、この町を出る予定だ。

 この町は通り過ぎる町であったし、これからもそうだろう。用事があれば立ち寄り、終われば立ち去る。ただそれだけの、どこにでもある町の一つだ。

 エルビスまで、まだ旅は続く。その間、オルトスの歌がまた聞けたらいいなと、ふと思った。

 成程、してほしいことでこれを言えばよかったのかもしれないなと、少しだけ残念だ。けれど、のんびりイェラと取り留めない話をしているオルトスの声は心地よく、歌のようにも聞こえる。


「……おい、オルトス」

「ん?」

「エリーニ、寝てないか」

「あ!?」


 オルトスが覗き込んでくる気配がしたので、目を開ける。目の前にほっとした顔のオルトスがいた。特に問題がなさそうだったので、もう一度閉じる。


「だからお前、なんでこんなどうでもいいもの子守歌にするんだ!? せめて歌にしろ、歌に! ――っておい! イェラ寝るな!」


 オルトスは忙しそうだが、腕の中から放り出されるまではもう少し聞いていようと思う。ここはいつも温かい。そしてオルトスが元気なのだから、それが世界の全てだった。








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― 新着の感想 ―
とってもとっても良かったです! 素敵な作品ありがとうございました(^^)
[良い点] この作品大好きです。忘却聖女と一緒に本棚の一角にそろえてみせます。 頑張って稼ぎますから待っててください…! [一言] 書籍化おめでとうございます。 ようやくわかりました。3人はかわいいの…
[一言] 更新ありがとうございます。 大好きな話だったので、続きが読めて嬉しいです。 書籍化も、おめでとうございます
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