18魂
冷たかったように思う。温かかったように思う。嬉しかったように思う。悲しかったように思う。それらの感覚も感情もよく分からなかったから、正式にそう定義されるものかどうか確かめようがなかった。だから、これが勝手にそう思っただけだ。
総合すればきっと、淋しかったのだと思う。
あなたに会えて、これは淋しくなった。あなたを知って、あの街は地獄になった。
生きるのは、苦ではなかった。死も同様に。けれど、あなたがいなくなって苦しくなった。あなたの生が苦しいのは苦しかった。あなたが悲しいのは悲しかった。
死なないように努力しようと思った。生きているからではなく、生きようと思った。生きて、あなたに会いにいこうと思った。あなたの幸福になれるほど、この身は真っ当な心を得てはない。だけど、災いを振り払う盾程度にはなれるはずだと、思ったから。
何も要らないんです。王子、この身が、これが。
私、が。
私が、欲しい物は、王妃には決して与えられないものなんです。
あなただけ。あなただけなのだ。
あなたの、光だけなのだ。
微かな温もりが肌を撫でていく。そんな小さな刺激で、何故か泥のように深い眠りから目覚めた。それがあまりに心地よかったからだ。私にそんな温かさを与えた人は一人だけだったから、この柔らかさを感じれば反射的に意識が向いてしまう。
最初に見えたのは、水底から天を見上げたかのような青緑だった。
「……よし、起きたな。いい子だ」
中指の背で私の額を撫でていた王子は、柔く微笑んだ。そして、ゆっくり立ち上がる。
「イェラを呼んでくる」
長く閉ざされていた瞳は上手く映像を結べず、視界は掠れていた。声も出ず、身体もろくに動かない。自分で呼びに行くのは諦めて、起き上がろうともがいていた重心をベッドへ沈める。一度目蓋を閉ざし、数秒経ってから再び開けた。何度か瞬きを繰り返し、視界の明瞭化を図る。
王子の寝室だ。私の周辺をいくつかの浮いた魔石が囲んでいる。魔力を利用した医術だ。
瞳を動かし、今日が何日か調べようとしたが、それよりも王子の帰還が早かった。宣言通りイェラ・ルリックを連れて戻ってきた王子は、再びベッドに腰掛けた。
イェラ・ルリックは、ぼさぼさの髪を適当に撫でつけ、数個開いたシャツのボタンはそのままに私を覗き込んだ。どうやら寝起きらしい。
「よし、意識が戻ったな。いい子だ」
瞳孔を覗き込みながら落ちてきた言葉が王子と同じで、少しおかしかった。
「気分は?」
片手は浮いた魔石に触れている。魔術を扱えない医者は針による点滴を使うが、イェラ・ルリックは魔術の才もあるのでこの魔道具も扱えるのだろう。他にも心拍数などを測定する魔道具も存在するが、こちらは魔石の補充さえしていれば魔術を扱えずとも使用できる。それらの魔道具を覗き込みながら問われた内容に、少し考えて答えた。
「問題、ないかと」
「吐き気は」
「ありません」
「食欲は?」
「ありません」
「まあそうだろうな。ある意味正常だ。死にかけほやほやの人間が食欲旺盛だと笑ってやる」
そう言ったが、イェラ・ルリックの顔は既に笑っていた。しかし、口角は片側だけ異様に吊り上がった左右非対称の歪なもので、瞳は全く笑っていない。
「オルトスへの説教は、この五日間みっちりした。次はお前だぞ」
「………………」
「あ、こいつ寝やがった!」
どうやら長いお説教が始まるらしい。王子と話せないのなら、その時間を睡眠に当てて体力の回復に努めた方がよさそうだ。そう思い、早々に目蓋を閉ざす。あっという間に意識が沈み始めた。
「まあまあ、流石に生還一発目で説教くらうのはあんまりだろ。昏睡じゃないんなら、休ませてやろう。――俺も、言いたいことは山ほどあるけどな」
「……はぁ。久しぶりに見たお前のその顔に免じて今は引いてやる。一応水分と栄養補給はしているが、次に目を覚ましたとき食欲があるなら僕を起こせ。僕は仮眠し直す。お前も、一旦寝ろ」
「……ああ」
イェラ・ルリックの呆れた溜息が聞こえた。
「いい加減にしろ。お前が倒れたらそいつ治療分の魔力をお前に使うぞ」
「分かったよ。仮眠する」
「普通に寝ろ」
「ったぁ!」
ふわふわ途切れる意識がかろうじて引っかかっている覚醒で、聞こえた会話はいつも通り仲がいい。
もう恨まれているかもしれないと静かに笑った、あの日の王子に教えてあげたい。あなたの友イェラ・ルリックは、あれから十年経った今もあなたの隣にいて、あなたの向こう臑を蹴り飛ばしたようですよ、と。
ぼんやりと漂う意識は、ふわふわ思考する。五日。イェラ・ルリックは五日と言った。だったらまだ第二王子主催の夜会は始まっていない。それまでにある程度の体力を戻せばいいだろう。
影はどうなったのだろう。私が作った影。私の分が剥がれて王子を守るほどの衝撃を受けたのだ。一度点検はしておきたい。場合によっては修理もだ。そういえば向こうで行った採取は成功したのだろうか。そしてあの男に取られていた私の杖とローブは。ローブといえばイェラ・ルリックに話を。
回しすぎた思考は、睡眠から覚醒へ意識を切り替えた。ふっと目を覚まし、息を吐く。
「起きたか」
視線を向ければ、私の横に王子がいた。前回と同じだが、今回は着崩している上に寝転がっている。どうやらここで眠っていたようだ。
当たり前である。ここは王子の寝室で、寝台だ。
目が少し溶けているからさっきまで寝ていたようだが、何故ただ目を覚ましただけの私に気付いたのか。それだけが謎である。
「おはよう。何か食べるか?」
「おはよう、ございます」
答える前にさっさと起き上がった王子が寝台を下りた。それを追った視界の端に時計が入る。時間を確認するも、早朝なのか夕方なのかが分からない。
「水を。けれど、自分で」
枕元の小棚に用意されている水差しを取ろうと、身体を起こす。しかし、私が身体を起こしきる前に、さっさと回り込んだ王子がコップに入れてしまった。諦めて、礼を言う。目の前に差し出されたコップに手を伸ばせば、何故かひょいっと戻されてしまった。
何だろうと視線を向けた先で、王子はコップの水を飲んでいる。
「……流石にクリサンセマムは入ってないみたいだな」
成程。どうやら確認してくれたらしい。
新たなコップに注がれた水を改めて受け取り、少しずつ飲む。急ぎの何かがあるわけでもない。一息に飲み干し、機能が低下している身体に負担をかける必要もないだろう。
王子は一息で空にしたコップを置き、寝台に腰掛けた。私が飲みきるのを待ち、コップを受け取ってくれる。それを置き終わった後、視線と身体が私へと向けられた。
「どうしような」
「はい」
「言いたいことは沢山あったんだが、お前が生きてるのを見るとどうでもよくなるから困る」
「そうですか。私は特にありません」
「お前そういう所だからな!」
そうは言われても、特にないのだ。王子が元気だ。ならば問題ない。以上だ。
しかし、ぐしゃぐしゃとかき回された金髪が短いと気付き、言いたいことが出来た。
「王子、髪をどうしたんですか」
「切った」
「何故。怪我を?」
「はいはい。それはどうでもいい。それよりお前だ」
それこそどうでもいいと思うのだが、王子が話したいのなら仕様がない。質問を一旦引っ込める。
王子の手が伸びてきて、私の髪を取った。五日間昏睡状態だったらしい私の髪は恐らくあまり綺麗ではないので、触らないほうがいいと思う。しかし思っていたより肌を含めてさっぱりしているので、浄化の魔術をかけてもらっているのかもしれない。イェラ・ルリックがどこまで魔術を扱えるのか、今度聞いておきたい。
「綺麗に伸びたな」
「王子に見せたので、もう切っていいですか?」
「俺いまそういう話した?」
「王子はいつも、私の頭が寒そうだと心配していました。なので、伸ばしました。その姿を確認して頂けたので、もういいかなと」
「よーし、少し待とう。話し合おう」
「話し合っています」
現状話し合っている場面だと思うのだが、王子は項垂れてしまった。しかし私の髪から手を離さない。手入れに時間をかけ長く伸ばした髪を、王子が握っている。
「お前の髪だし好きにすればいいとは思うけどな……折角似合ってるのに勿体ないとは、思うぞ、俺は」
「分かりました、切りません」
「どっちにしろ罪悪感が湧くのは何故なんだ……」
何故か胸に手を当ててよろめいてしまった王子の体調が心配なので、寝てほしい。お誂え向きにここは王子の寝台だ。今すぐ眠れる。その旨を伝えれば、今度は頭を抱えてしまった。早く寝てほしい。
深い溜息の後、ようやく顔を上げた王子には隈がある。何だか昔のようで懐かしくもある。しかし寝てほしい。
「…………大きくなったな」
「十年経ちましたので。王子も大きくなりました。縦に」
「今一感動しきれないのはお前の受け答えの所為だと思うんだがな!」
昔だって、私よりは大きかった。けれど、今の私より小さかった。小さく薄く、儚かった。人のことをひと冬で溶ける雪兎に例えておきながら、その実誰よりも生が薄い人だった。薄い生を望まれ、形作られ、受け入れた人だった。
「いつまで経っても来ないから、もう溶けてしまったのかと思ったぞ。初めてお前を見つけたとき、雪兎の精霊かと本気で思ったしな」
そこで一度区切れた言葉は、次に紡がれた際、随分声音が変わっていた。
「…………よく、生きていたな。よくやった。本当に、よく生きてきた。……しかし、何故会いに来なかったんだ?」
心底不思議そうな王子は、分かっていない。
「あなたの死に意味など与えたくはなかったからです」
酷く傷ついた顔をしたあなたは、やっぱり、何にも分かっていない。
「私はあなたに救われた。あなたを目指してここまで来ました。あなたが与えてくれた全てに生かされ、ここにいます。私はあなたの生に救われました。あなたが生まれてきてくれたから、私は生きているんです、王子」
欲しいものは死ではない。あなたの価値は死ではない。
「あなたの死などなくても私は生きていけます。けれど、あなたの生がなければとっくに死んでいました。死ぬ理由がないから生きていましたが、生きる理由もなかったので。けれど、あなたが生きていたので、私の生きる理由も定まった」
人の生に意味などない。産まれたから生きている。生きているから死んでいない。死んでいないから生と呼ぶ。ただそれだけのことだ。生に意味を持ちたがるのは人間だけだ。
そして私も、あいにくと人間なのである。
「あなたの死なんていらない。あなたの死を前提とした未来など、いらないんです。生きたあなたのくれた言葉が私をここまで連れて来てくれました。生きたあなたが待っていてくれたから、私はここまで来たんです。十五才の私は、あなたの生が連れてきたんです。あなたの死は私に何も与えない。あなたの死に意味などない。あなたの死に幸福なんてない。あなたの死は他者の幸福の前提なんかじゃない。あなたの死なんていらない。欲しくない。欲しいのは、あなたの生だけなんです。私はあなたがくれた合い言葉をあなたの死への道筋として使いたくはない。私はあなたの生を前提とした道に立つあなたに、家族になりましょうと言いたいんです。ですが私は人としてかなり不完全である自覚がありますし、正しい家族の形も分かりません。会話すらままならない。だから私以外の誰かがあなたの生を光溢れるものとした頃合いを見計らい、もう待たなくても結構ですと伝えにいくつもりでした。けれど互いに欠魂したことですしこれ幸いとお側に侍りました。これからも侍るつもりではありますが、ひとまずあなたの魂を奪った魔物を殺して魂を奪い返そうかと……王子? 王子、どうしたんですか……あの、王子」
王子、王子。
呼んでも答えてはくれない。困った。これは、困った。
心底困っているのに、王子はあの時みたいに困った私を見て笑ってもくれない。長いとも言わない。
私の髪を握りしめて俯く王子の前で弱り果てる。
「泣かないでください、王子」
この人はどうして、静かに感情を零してしまうのだろう。
悲しみも怒りも絶望も。誰にも気付かれない場所でそっと溢れさせ、なかったことにしてしまう。ぎゃんっと怒ってくれたらいいのに。わんわんと嘆いてくれたらいいのに。
こんなに静かでは、気付けないかもしれない。この人の感情を取りこぼすなんて嫌だ。だけど本当に、しんしんと降る雪のように静かに零す人だから、困るのだ。
そして現状でも、大変困っている。
「王子、泣かないでください。王子……おやつを食べますか? 何かつまめるものを用意しましょうか? 温かい、飲み物を…………本を読みますか? 何か、遊びますか? 私、あまり会話が上手くはないのですが、何かお喋りを? 王子、あの……イェラ・ルリックを呼んできます。だから、手を。王子、イェラ・ルリックを。イェラ・ルリック、イェラ・ルリックを。王子、イェラ・ルリックに、王子」
思いつく限りの手段を提示するも、王子は緩く首を振るのみだ。俯き、私の髪をしかと握りしめている王子に弱り果て、視線を彷徨わせる。しかし現状打破に使用できそうなものは何もない。
「王子、お腹空いていませんか。王子、眠りませんか。王子、遊びませんか。王子、本を読みませんか。王子、見たい魔術はありませんか。王子、空を飛びませんか。王子、人形遊びしませんか。王子、かけっこしませんか。王子、泥遊びしませんか。王子、球技しませんか。王子、カード遊びしませんか。王子、卓上遊戯しませんか。王子、王子、あの、王子…………王子、お腹空いていませんか」
弱り果て、役ただずな脳みそから言葉を絞り出していると、王子の身体が僅かに揺れ始めた。王子の反応を注視し、よくよく聞けば、どうやら笑っているようだ。
「戻るのか」
くつくつ笑いながらようやく上げられた顔に、息を呑む。
光が、舞っていた。薄暗い部屋なのに、雨上がりの晴れ間に降る木漏れ日のように、温かで鮮やかで柔らかな光が。
笑っているのだ。王子が、王子が、ここで、この世界で。死に近しい魂の側ではなく、いま、ここで。光を散らして、笑うのだ。
王子はどうしてだか小さく噴き出し、苦笑と共に指を伸ばした。静かな温かさを伴った掌が、私の頬を擦る。初めて会ったあの夜、正常に受け取れなかった優しい温度を、今度は正しく受け取れた気がした。
「どうしてお前が泣くんだ」
どうやら私は泣いているらしい。成程。道理で視界が滲むわけだ。道理で鼻の奥が痛くて、道理で目の奥が痛くて、道理で胸が熱いわけだ。
「王子」
「うん」
「王、子」
「うん」
王子の顔が見えない。けれど、王子の声は何故か幸福そうで。
「私、私ずっと、あなたに、笑ってほしくて」
「……うん」
「あなたに、生きていて、ほしくて」
「……うん、そっか」
泣くという行為は、こんなにも痛いのか。痛くて、息もつらくて。胸を引き絞るように苦しくて。なのに、命を削る行為ではないのだ。こんなに身体も感情も全てを費やさなければならないのに、ただ感情の反射だなんて、信じられない。
「王子が、王子じゃなくても、よくて。王子でも、よくて」
「うん」
「戦場、でも、下町、で、も、他、国、でも。どこ、どこでも、よくて」
「うん」
「あなた、あな、たが、わら、笑って、生きてて、くれたら、なんでも、よくて」
「…………うん。うん、そうか。ありがとう」
何度拭ってもらっても一向に止まらない水分を諦めたのか、王子の掌が離れていく。
温もりは後頭部と背中に回った。額も、頬も、身体の前面も、背中も、全てが温かい。あの頃に比べれば私も大きくなったのに、やはり王子の方が大きくて。抱きしめられればあの頃のように世界の温度は王子一色になる。あの頃は何度抱きしめられても、触れられなかった。そんなこと考えもつかなかった。なのに今は、反射的にその背へ腕を回していた。ぎゅっと握りしめ、縋りつく。
生きている。王子が生きている。ちゃんと生きて、ここにいる。
「ごめんな。俺がびっくりさせたんだな。怖がらせてごめんな」
癇癪を起こして泣き喚く子どもへするように、緩やかなリズムで後頭部を撫でながら、王子は笑う。泣く子には叶わないと苦笑しているようでもあったし、何かを噛みしめるようでもあった。けれど私には人の心の機微など分からない。まして、顔が見えなくてはどうしようもない。それなのに顔なんて見えるはずもなかった。だって涙が止まらなくて、世界すら見えないのに。
「お前は凄い子だなぁ。お前はえらい。凄いな。お前は本当に、優しいいい子だよ。お前は、凄いよ。優しい、いい子だ」
それらは事実ではない。私は凄くなどない。私は決して賢くもなければ優しくもない。人間づきあいや日々の営みといった、人間が築いてきた文化や文明を維持する努力を放棄し、自分の持ちうる機能を一点集中させてきただけだ。それなのに、王子は私をあやすのだ。自分だって慣れていないだろうことが丸わかりの、ぎこちないあやし方で。
「……本当は、こんな馬鹿げた約束からお前を解放してやるのが一番お前の為なんだ。そんなことは分かってるんだ」
そんなことあるものか。そんなことを言ったら撤回するまで視線を送り続け、背後をついて回る。そう言いたかったのに、しゃくり上げる喉からは嗚咽しか零れない。泣くとは本当に厄介だ。湧き上がった感情は勝手に流れ出ていくし、意思を伝えようとする言葉は嗚咽に阻まれる。何も言えない代わりにしがみつく力を強くすれば、やっぱり王子は苦笑に近い笑い声を上げるのだ。
「だけど俺はどうにも我儘で、お前とイェラだけはどうしても連れていきたいんだ。お前とイェラは俺に生きろと言うから。イェラなんて、死んだら殺す上に地獄の底までついてきた上で注射ぶち込むって言うんだよ。酷くないか?」
私だってそうする。注射の代わりに私の魂を突っ込んで蘇生させてやる。
温かな頬が私の頭に擦り寄せられた。
「……ついてくるか?」
それは、確信の上での問いではなかった。ここまで来てもまだ迷い、躊躇っている人が張った防衛線だ。まだ間に合うのだと、引き返せるのだと、自分にも私にも言い含めたがっている、優しさと弱さが綯い交ぜになった戯言だ。
王子の胸を突っぱねて、互いの間に距離を取る。単に顔が見たかっただけなのだが、王子は柔らかい笑みを浮かべてすんなりと手を離した。こうしてすぐに諦めてしまう所が、王子の駄目な所だ。同時に、この人が手放してきた、手放さざるを得なかった全ての象徴でもあった。
不自然に乱れた呼吸と、それ以外の何かで痛む胸も宥める。そうでなければ、声が出せない。この人に伝える言葉が、届かない。
適当に目元を擦った腕はよく見たら包帯だらけだったし、王子が微妙な顔をしたので、どうやら折れた方の腕だったらしい。後でイェラ・ルリックからのお説教を受けよう。だが、それはどうでもいい。
「王子の位置が王城から戦場や地獄へずれた所で、何が変わるのか理解できません」
「位置ってお前……」
「目的地が移動すれば、移動方法と方向を調整するだけではないでしょうか」
「……そういう問題じゃなくてだな」
「屋根上から出発し既に王城へ到着していますので、現状あの頃より問題なくお側にあれるかと思います」
「ああ、うん、そうね……」
何故か王子は項垂れてしまった。きっと寝不足なのだろう。寝てほしい。
「私の目的地はあの日からずっと王子です。ですから、王子の位置は関係ありません。王子がいるかどうか。大事なのはそれだけです。左でも右でも、上でも下でも、空でも地下でも、天でも地獄でもどこでもいいです。どうでもいいです」
雪解け水になりたがったこの人の夢だけは叶えてあげられない。消えて初めて誰かの益になれるのだと、自分が消え去った後に咲く花を、それだけを救いとして死んでいこうとした静かで悲しい願いだけは、叶えてあげられないのだ。
だから、他の願いは全て叶える。この人の願いを一つ残らず掬い取るのだ。
その為には見える場所にいなければならないし、何より私がいたい。最初から、そう言っているではないか。
これでまだ納得してもらえないなら、貧弱な言葉を垂れ流して物量で押すしかない。じっと見つめ、息を吸い込んだ私の前で、王子は肩を震わせた。ふはっと吐き出された息と共に、顔が上がり、光を散らして笑う。
見惚れられたのは一瞬だ。王子はすぐに私の頭を抱え胸に抱き込んでしまったので、温かさしか分からなくなった。そのまま寝台に倒れ込むから、布団に塗れて世界さえ見えなくなる。
無造作に倒れ込んだようでいて、傷口には全く響かない。そういう所が油断できない人なのだと、知っている人間はどれだけいるのだろうか。
布団に縺れ、柔らかさに塗れ、温かさに溺れそうになる。私の背に回った腕は外されていないが、顔が見える程度には距離が出来た先で、王子は楽しげな笑い声を上げた。
「分かった。俺の負けだ。というか、最初から負けてるな」
「勝負した覚えも勝利した実感もありませんが、どういう意味でしょうか」
「そうだな。俺がちょっと頑張るから、それをお前達に手伝ってもらおうかなって話」
ぱちりと瞬きする。よく分からないが、それは。
「嬉しいです」
涙より簡単にほろりと零れ落ちた言葉を拾った王子は、やっぱり楽しげに笑って、目蓋の上に温もりを降らせた。
驚いて、もう一度瞬きする。
「王子、好きです」
「子どもを誑かした悪い大人の気分だ。一応言っておくがな、お前のそれはひな鳥のすり込みのようなものだからな」
「王子、手を貸してください」
「ん? 何だ、起きるか?」
背に回っていた手ではなく、衝撃を抑える為に差し込まれていた手が差し出されたので、両手で取って胸に当てた。瞬時に王子の全身が総毛立つ。水に触れた猫のようで面白い。
「何っ………………俺が悪かった。子どもは俺だ」
「分かってくださって嬉しいです」
では、改めて。
「王子、好きです」
私の心臓に服の上から触れた王子は、私の感情表出手段として唯一働き者の鼓動に合わせて、耳まで赤くなった。どうも私は、顔には出にくいようだが身体は素直だ。
王子はそのまま布団に顔を埋め、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「………………保留でお願いします」
「是非前向きな検討でお願いします」
欠魂ついでに結婚します?
そう問えば、跳ね上がった王子により布団で頭まで埋められた。王子が見えなくなってしまったが、一応追い打ちをかけておく。
「王子、家族になりましょう」
「過去の俺が首を絞めてくる!」




