16魂
がつがつと重たい靴音が響く。視界には男の背と地面しか映らない。
先程まで轟音の中にいたからか、ここは酷く静かだ。暗いのは光源の問題か、失血によるものか。
無造作にぶら下がった腕から伝い落ちる血液は、地面へ落ちる直前向きを変え、私を担いでいる男の元へと飛んでいく。恐らく跡が残らないよう回収しているのだろう。
傷口はやはり右の脇腹のようだ。そして杖を跳ね上げられた際に痛めた肩はどうやら折れているらしい。爪も一枚剥がれたままだが、痛みは薄かった。元々大して痛みを感じない上に、失血で感覚が薄れている。さて、ここはどこだろう。
回らない頭でざっと視線を回し、情報を集める努力を試みる。地面は石畳。壁も同じということは、ここは通路だ。この寒さを考えると、二課室へ向かう通路のように地下にあるのかもしれない。
杖は、回収されてしまったらしく首元からぶら下がっていなかった。杖がなくても魔術は使えるが、杖は魔力の調整装置だ。杖を通さなければどんな魔術師も魔力を暴走させてしまう。杖もなく魔力を扱えるのは魔物だけで、それはもう魔法の領域だ。
ざっと見て、王子はいないようで安心する。足音は一つ分。だから、視界に入らない場所に男の仲間がいる訳でもないのだろう。
恐らくは前方に小さな魔術灯がある。光に導かれた影が伸びているからだ。男の背からはみ出た、雑に揺れる私の手の影も見えた。これは私が作った影じゃない。私がつけていた影は、王子の分と合わさって彼を守ったはずだ。だったらこれは、自前の影である。私に戻っているのなら王子にも戻っているはずだ。
そういえば、王子と一緒にいるときはほとんど景色なんて気にしていなかったことに今更気が付いた。状況の把握は務めた。だって、そうでなければ王子に危害が及ぶかも知れない。王子を遠くから見ていた頃は、景色をよく見ていた。だってそこに王子がいるかもしれないから。でもそうでないのなら、景色なんてどうでもよかった。
だったらもういいか。王子が無事なら、状況把握も、もういい。
ぶらぶらと揺れる力の入らない冷え切った指が、男の背へ無気力に当たる感触すら消え失せた事実と共に、意識を保つ努力をさぼった。
父はいつも、夜になると私を家から出したがった。夜ならば外に子どもがいないから、友達を作って遊ぶ心配がなかったから、夜は自分が家にいるから。
殴り、蹴り、鞭打ち、気が向けば凍った川へ放り込み。自分が眠るまで帰ってくるなと命じる。そんな状態では家にいた所で本など読めるはずもなく、余計な傷を増やす趣味もないので父の命令に異論はなかった。
だから考えるべきは、夜の過ごし方だ。
過ごしやすい場所は、既に誰かが住み着いている。橋の下、物置の影。建物同士の隙間。大抵家を持たぬ大人が占拠している。それ以外で少しマシな場所は、こちらも既に親を持たぬ子どもが使っていた。父が思うよりずっと、夜に子どもは存在するのだ。けれどそういう子ども達は警戒心が強いので、家持ちは仲間に入れてはもらえない。
ゴミ箱は巨大で温かかったが、そこは危険だった。誰しもが中を覗き、使える物がないか食べられる物はないかと漁るからだ。
ならば後はどこが残るか。そこで暮らしている人々と違い物を置く必要はないから、一時的に滞在できればいいのだ。夜の間だけ、誰にも見つからず、父が眠るまでの時間を過ごせればいい。
だからずっと、屋根の上にいた。
日によって場所を変えてはいたけれど、一貫して屋根の上を選んだ。
屋根の上はいい。薄汚れ、塵が溢れる町並みを行く人々は、皆寒さに首を竦め、泥と塵で汚れた地面を見下ろしながら足早に去っていく。誰も空など見はしない。自分の頭より上は見ないのだ。どこまでも自分の高さで、自分の目線が映したものだけを捉える。
川に放り込まれた日は服を脱ぎ、その辺に落ちていた新聞紙で身体を包んだ。そうして、父が眠るまでじっと待った。寒さで手足がかじかみ、歯が鳴りそうになれば顎を押さえて無理矢理止める。誰も起こしてはならない。見つかれば、殴り飛ばされるだけでは済まず、翌日から警戒が強くなって隠れ場が一つ消えてしまうからだ。
じっとじっと待つ。雪が私の上に積もり、夜は更け、澄み渡る。
何も思わなかった。苦痛を感じない。雪が降れば積もるし、冬は寒いし、川に落とされれば濡れるし、夜は暗いものだ。父は私を殴るし、夜道で見つかれば襲われるし、新聞紙は温かい。ただそれだけのことだ。見つからずじっとしていれば、やがて父が眠り、私は家に戻る。そうしてしばらくすれば夜が明けて朝が来る。寒ければ雪が降るし、少し暖かければ雪が溶ける。
何ら驚くべきことはない、当たり前のことだ。何も変わらない、不思議もない、そんな毎日の夜だった。
「…………あ、生きてた」
ふいに声がした。
猫のようにするりと屋根に上がったその人は、いつの間にか私を覗き込んでいた。
「……だれ」
問いに意味などなかった。問うても、相手が答えを持っていても、答える意思がなければ与えられることはなく。答えを持ち得ないのなら尚のこと、拳を振りかざす口実を与えるだけだ。答えとは与えら得る為にあるのではない。自分で得る為にあるのだ。
分かっているのに、何故かこのときは、ふと問うてしまった。
うるさいと殴られても、黙れと蹴り飛ばされても、ここから出て行けと突き落とされても仕方ないなと思っていると、やけに安っぽく見えるフードを被ったその人は困った顔をした。この辺りではこんなに立派なフードを被っている人はいないのに、何故だが安っぽく見えた。それは、それを被る人がとても綺麗だったからだろうか。
「本来なら答えてはいけないのだろうけれど……ここは地上ではないし、こんな場所で出会ったのも何かの縁だ。いいよ、教えてあげる。私はね」
しんしんと降る雪より静かに教えてくれた人の声は、何よりも温かかった。
一滴一滴、行儀よく落ちていく水音がやけに響く。泥にまみれる意識が引っ張り上げられるほどに、鋭利で冷たい。
動かすのが億劫なほど重たい目蓋を薄く持ち上げながら、意識を失う直前と思考を繋げていく。最後に見た景色と然程変わっていない。古びた石畳が四方を囲んでいる。どうやら、使われていない水路のようだ。
次いで人の気配を探る。すぐ近くに一人いた。地面に横たわる私の枕元に、両腕で頭をかき抱いて蹲る男がいる。男の様子を確認しながら、指を動かしてみた。かろうじて動くようだが、ほとんど感覚がない。冷え切っていることがかろうじて分かるのみだ。
気付かれないよう身動ぎを試みて、あまり意味がなさそうだったので諦めた。手は縛られていたし、指がこの状態で身体が動くとは思えなかった。
脇腹は何やら魔術の気配があるので止血くらいは施されているようだ。すぐに殺す気はないのだろうが、生かすには雑である。
「どうしてこんなことに……いや、まだ大丈夫だ。俺ならまだここから盛り返せる。大丈夫だ、こいつがいれば、まだ」
蹲っていた男が顔を上げた。フードが外れて顔が見える。体格から若い男と思っていたが、顔はしなびた老人のようだった。しかし、よく見ればそれも違うと気付く。肌は確かに皺が寄っているが、水分を抜き去った肌を無理矢理寄せられて固定されたかのように歪で、不格好な木彫りに見えた。
「無様ですね」
「っ! 起きたのか……」
動かない身体に精一杯力を篭め、身を起こす。ともすれば頽れてしまいそうだったが、力を入れる場所を間違えなければ何とでもなる。支点になる掌、そして関節の力が抜けなければ、身を起こすくらいは出来た。勿論動き回ることは難しいし、速度を要求されれば不可能だが。
起こした身を冷たい壁に凭れかける。色々仕込んでいたローブも杖と一緒に回収されてしまったようで、壁の冷たさはあっという間に肌まで届いた。水が染みこむようにあっさり広がった冷たさに震えることはなかった。私の身体は、それより冷えていたからだ。
「何だ……ラーニオン、お前は何なんだ。お前さえ邪魔しなければ、どうにでもなったんだぞ!」
わめく男の声はやはり若い。だからこそ、無様だ。
年老いた顔は無様と形容される物ではない。しわくちゃの肌も、垂れ下がる肌も、滲み出した染みも、生きている以上当然の帰結だ。恥じるものでも嘲笑されるものでもない、ただの生きた結果である。
だが自らの欲を優先させて王子の命を狙った末路であるならば、いくらでも侮蔑の手間を取ろう。
「私には私の目的がありますので、あなたが王子を殺す邪魔をしました。それだけです」
「何を……お前、何が目的なんだ。まさか本当に、陰口を叩かれることすらない、セレノーンの虚無と化した黒王子を好きだとでも言う訳がないだろう」
わんわん反響する男の声がやかましい。同じ大声なら、王子のぎゃんっとした怒声を聞くほうがどれだけいいか。最初から比ぶべくもないことだが。
「あなたが誰かは知りませんが、私に王子を殺す命令を下したのは王妃ではありません。依頼者が違えば方法も違う。ただそれだけのことです」
「王妃以外に王子を憎む人間? 王妃に身内を殺された奴か? 何にせよ、昨日と今日、二回も声をかけてやったのに知らないで通るわけないだろうが」
そう言われて、男を見る。羽根飾りが一つ。一課だ。以上だ。誰だ。
記憶を探ろうとして、探り方を変えることにした。そのままだと絶対出てこない自信があったからだ。昨日今日と言うのなら、王子が一緒にいた可能性がある。王子との会話なら覚えているので、そこから辿れば、確かに会話をしているようだ。顔は覚えていないし元より顔が変わっているので確かめようはないが、多分同じ男なのだろう。
「だったら俺達は手を組めないか? 俺も、イェラ・ルリックだけじゃなくお前まで相手にするつもりはない。お前だって、学院首席の俺と張り合いとは思わないだろう?」
誰だろう。学院があれば毎年首席は出る。そもそも私は自分が学院を卒業した年の首席を知らない。幾つか年数を超えたので、本来卒業する年の首席なのか、私が卒業した年の首席なのか最近の首席なのか、どれだ。一課だ。以上だ。誰だ。
そして、王子暗殺の障害として王子自身を数えていないことで、この男の浅はかさが見て取れる。イェラ・ルリックしか味方がいない現状で、王宮を牛耳っている王妃から生き延びているのが一体誰なのか。そんなことも分からない頭で、よくも首席を取れたものだ。
「……私を欠魂させ、尚且つ串刺しにした相手と、手を組む? 戯れ言にしても度が過ぎているのではありませんか。せめて欠魂を修復してもらわないと信用できません」
男は自分の杖を起動させ、それを支えに壁から身を起こした。
「ああ、いや……悪いがそれは出来ない。そもそも、人間の魂を捧げることが悪魔の力を使う条件だからな。後払いでいいとは太っ腹というか食い意地が張っているというか……欠けていた大半は自分で回収しただろう。二人分だから削られた部分は少量で済んだはずだ。生きるには何の支障もないだろうし、許せよ」
「許せません。魔物の特徴を。自分で追い詰めます。私は魔物によって欠けさせられた事実を許しません」
「……ラーニオンって、意外と自己愛強いのな。分かったよ。魔物についてメモはやる。これで俺に協力するか? 俺とお前が組めば、大抵のことはやれるだろう」
しなびた腕が懐から取り出したメモは、ずれのない折り目をつけた真っ白な紙だった。几帳面を覗かせた男が、それにしてはよく魔物だなんて自分では制御できない杜撰な手段を頼ったものだ。魔物の力はどういう与えられ方をしたのか。決まった分を与えられたのか、使用すれば減っていく一方なのか。それとも一定の量は常に使用可能なのか。その程度は利便性がなければ割に合わないように思う。
しかし、愚かの一言に尽きる。人は、己が御せない力を手に入れるべきではない。
「あなたの依頼主は王妃ですか」
「言えない。そういう契約だ。足はつかせない。そういう方だろ。だが、恨まれるにも微妙で中途半端な、本当に空気みたいに透明な王子を殺したい人間なんて限られるだろ。殺意を抱くほどの価値すら認められないし、どう考えても生まれてこない方がよかった人だよ。国の為にも、ご自身の為にも」
何も成せない。何もしない。それなのに、生きているだけで誰かが死んでいく。そんな生だけを課せられた、セレノーンの第一王子。誰よりも早く生まれた。ただそれだけで生を罪にされた、私の王子。
「……私の杖と、ローブを返してください。いい加減、死にそうです」
身体の感覚は失われて久しいのに、口内に残った血の味だけは鮮明だ。
「先に俺と契約しろ。お前の依頼主は聞かないが、獲物を独り占めされたら堪らない」
「分かりました」
男は杖を軽く動かし、羊皮紙とペンを呼びだした。契約書を書いている姿を横目に身動ぎし、態勢を整える。流石に、半分以上ずり落ちた状態では何も出来ない。解かれた手を、じっと見つめる。力の入らない指を何度か開閉し、最後に強く握りしめた。
長くは持たないだろうが、一瞬だけなら大丈夫だろう。
「あなたが契約した魔物は、その力を半永久的に譲渡したのですか? それとも一時的なものですか?」
「俺が死ぬまでは半永久的に、だな。何だ、興味があるのか? 二課では魔力量をそこまで重視しないだろう? ……ああでも、お前も王子暗殺なんて依頼を受けるくらいだ。何かに困ってるのか? 俺も庶民出だから、気持ちは分かるよ」
何が分かるというのだろう。
「雷雨を作成してから、身を守る必要性が高まりましたので一応」
「成程な。ほら、契約書だ。問題なかったらサインしろ」
受け取った契約書にざっと目を通す。そこで初めて男の名前を知った。しかし、用が済めば忘れるだろう。懐にしまった魔物の特徴を記したメモ帳に、血で男の名前を記す。その後、魔術で包んで硬質化する。私が死んだ後も解れぬ魔術だが、二課なら溶かせるはずだ。
契約書の内容に、特におかしな箇所はない。互いの邪魔はしない。捕まった場合、互いの名は明かさない。協力した場合は報酬を分け合う。魔術師同士の契約は、破れば毒が回る。魔力を絡め合った契約となり、破った場合は相手の魔力が毒を持ち、絡み合った自身の魔力から身体へと入り込んでくるからだ。だから破れない。一度魔力の形を損なうと、多大なる犠牲を払わないと回復できないのだ。それこそ、魔物へ頼るより他ない。
「問題ありません。ペンを」
「ほらよ。しかし、お前程の頭があれば、わざわざ王子と恋人の振りなんてしなくても、欠魂を誤魔化す方法はもっとあっただろうに。それとも、やっぱり身分の問題か? あんなのでも王子だから、面と向かっては逆らいがたいとか? 貴族の後ろ盾がないと、俺達庶民には大変だよな。よく分かる」
何が分かるというのだろう。
受け取ったペンを取り落とす。拾おうとした男より早く、自分で拾う。もう落とさないよう握りしめた掌を、もう片方の手で包み込む。
「それにしても、お前の依頼者ってそんなに金払いがいいのか? 誰より気前がいい依頼人は決まってるだろうに、わざわざ別口から受けるなんて変わってるな」
薄くなってきた息を整え、魔力を集める。両手の中でひっそりと魔術が咲いていく。杖がなくても魔術は使える。繊細な術は使えず、規模も制御できないが、使えるのだ。暴走を恐れなければ、何だって。
何が分かるというのだろう。あの人の生を何一つとして信じない男が何を。私が王子の傍にいる理由が、彼を損なう目的以外ないのだと信じて疑っていないような男が。
あの人の、人としての貴さを何一つとして見つめないお前が、一体何を。
「ぐっ……!?」
動かない私を、意識を失ったと思ったのだろう。覗き込もうと近づいてきた男に、強化したペンを突き刺す。男は瞬時に事態を把握してはいなかった。けれど、激痛を生み出した物体を己から遠ざけようと拳を振り抜く。反射で繰り広げられた防御による全力を避ける余裕もその気も、最初からなかった。
まともに食らって石畳の上を流れ、男から十歩ほど離れた位置で止まる。
視界が点滅する。心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、湾曲していた。だが、殺し損ねたことは分かった。背後で、男が立ち上がる気配がしたからだ。腕は片方が完全に駄目になり、指は一本駄目で。鼓動がうるさい頭の中で、使えるものを素早く思考する。
「くそ、いてぇ……お前、よくも!」
脇腹に手を当て、傷口を探る。血が止まりかけていた。流しきったのか、生命活動自体が止まろうとしているのか。それでも服が吸ってくれた分を握りしめ、魔力を篭める。これはペンより強化しやすい。何せ鉄がある。
男が杖を振りかざすと同時に、跳ね上がる勢いで腕を振り回し、矢へと変えた血液をぶちまけた。魔術による防衛を突き破る雷雨の弾と同様の造りで飛ばした矢は、防ごうとした男の盾を貫いた。飛ばしきれないと判断した矢は地面に落ち、血液へと戻って飛び散る。
起き上がりきることは出来なかったが、咄嗟に振り払った杖に弾かれた以外の矢が刺さり、よろめいた男への追撃は可能だった。一本の矢が、男が追跡を恐れて私の血を回収した小瓶を直撃していたからだ。男の足元に散らばった血液と、男までの道にした血液を通し、魔力を叩き込む。
魔力が少ないなら少ないなりの戦い方がある。細やかに指示を通し、姑息に押し切る。これに尽きた。
全力で拳を地面へと叩きつける。
血液の海へと落ちた拳から飛び散ったのは、血液でも火花でもなく、雷だった。最早矢へ変質させる力すら残っていない魔力で発生させた、火花にも似た小さな雷。
静電気と鼻で笑われても仕方ない魔術師としては恥ずべき威力の雷を、魔力が混じった血液で無理矢理増幅して叩き込む。私の血には私の魔力が滲んでいる。それを浴びた男、男と繋がる道。私の魔力本体である私の身体。全部を血で繋げて、全部の魔力を絞り取り、男の身体に雷を纏わせた。
落とす威力はなかったが、それでも男の小刻みに揺れる潰れた悲鳴は響き渡ったので、それなりの効果は発揮したようである。
しかし、舌打ちはしなければならないようだった。
煙と焦げ臭さを纏い、天を向いていた男の目がぐるりと動き、私を捉えた。
飛びかかってきた男を防ぐ術はもうなく、魔術を使うことすら忘れた男の腕が振り上げられるのを見上げる。顔面へ振り下ろされた衝撃は久しい。幸い一撃で済んだので、まだ私の息はあるようだ。女は顔を殴ればたった一撃で戦意を喪失すると思っているらしい男は、随分優しい環境で育ってきたようである。
胸倉を掴まれ、中途半端に身体が浮いた。
「お前よくもっ! 報酬を独り占めする気だろう! この強突く張りのあばずれめ! ああ、ああ、あの王子に気に入られたのも頷けるさ! どうせ母親と同じ娼婦の気質でも見出したんだろうさ! お前の顔に誑かされた男が多いのも分かるな!」
強突く張りは同意するが、それ以外は突如現れた謎の結論だ。しかし彼の中ではきちんと繋がっているらしい。私へ交際を申し込んだ過去を憤慨しているようだが、言われるまで私は忘れていたので彼は黙っていた方が気が楽だったのではないだろうか。
しかし、全てが全て、どうでもいい話だ。この男の心情も、魔物と契約した人間の末路も、私の命も。大事なのは一つだけ。
あなただけ。あなただけなのだ。
誰が信じずともいい。あなたに届かずともいい。けれど私はずっと、真実だけを告げている。
全てが全て、真実だ。
「あなたに、あの人が、殺せるものか」
「あんな運だけで生き延びてきた奴に、この俺が負けるとでも言うのか!」
そんな愚かしい目しか持たない男が、あの人に勝つつもりだったのか。
この男を殺し損ね、魔物からあの人の影を取り戻せなかったことは心底無念だが、あの人に影が戻り、大半の魂が戻り、そうして二度と兎が戻らないのなら、概ね満足である。
あの人は約束を守り続けた。約束の兎が現れるまで絶対に殺されないと約束した。
だから、兎が現れないのなら、彼は生き続けなければならないのだ。一つだけ心配があるとすれば、兎が現れなければあの人は王子以外の道を選ばないだろうことだ。
こんなに血が溢れ出すのに、いよいよ血の味すら分からなくなった。それでも、血を吐き出してでも言い返したい言葉がある。あの人への侮辱は、何があろうと許せるものか。
「あの人は、子ども一匹との約束を守って生き続けた。あんなに酷い環境を、約束を守る為に、自分を殺させる為に生き続けると約束してくれたあの人の決意を、お前如きが破れるものか」
誰より生に絶望していたはずの人が、それでも生き続けると言ったのだ。それまで生きると、殺される為に生きると、言ったのだ。
「春を待たずに溶けるはずだった雪兎を今日まで生かしたあの人の生が、どうしてそれより短くなければならないんだ!」
生涯最期の言葉になっても構わない。最期の言葉にしてみせる。私にとっても、この男にとってもだ。
肺の奥からせり出してきた血液を言葉と共に撒き散らし、刃へと変える。命を遣い尽くしても、魂を砕いてでも、許せない。あの人を損ねた存在全てを、許さない。
私の刃が先か、男の炎が先か。
互いの魔術がぶつかり合う寸前、私の上に跨がっていた男が吹き飛んだ。
「そ、ういうことは、最初に言え!」
男を殴り飛ばした人がきらめかせた金は、黒い服に縫いつけられた金糸のように美しい。見惚れながら、私としても話が聞こえる距離にいたのなら存在を主張してほしかったと思う。それなら、絶対口にはしなかったのに。
「イェラ!」
「死ぬ前によこせ!」
次いで視界を埋めたのは、雪の精と名高い顔を忌々しげに歪めたイェラ・ルリックだった。その背後で殴打音が続く。王子が手を痛める前に、男が意識を失うといいなと思う。
「待って、待って待って待って。これ一課と戦争じゃない? 全面戦争じゃない? 僕の二課にあんまりじゃない? 一課の魔道具整備全部中止に廃止に禁止だよ」
イェラ・ルリックで遮られて見えないが、どうやら二課長がいるらしい。
「捌いて宜しいか?」
「死んでからにしろってば。道具出すのはえぇよ」
どうやら先輩とキンディー・ゲファーもいるらしい。
成程。私の居場所が分かったのも頷ける。この面子が揃っていたなら、即座に王子につけた影から私の魔力を繋げ、位置を測定することは容易だっただろう。彼らが気付かれず現れたのも、音と姿を消す方法なんて幾らでもある。国に認知されている方法も、存在を許されていない道具も、それこそ山ほど。
イェラ・ルリックの魔術と手による処置が身体を走り回る。それでも、思考と視界はぶつ切りになり、意識と鼓動が浮き沈み、呼吸は浅く薄い。父に殺されかけたことは何度もあったが、その時でもここまでではなかった。やはり失血はまずいらしい。王子は是非とも気をつけてほしいと思う。王子に会えて嬉しいと思う。王子が元気で幸福だと思う。
思って、想って、ぶつりと途切れる。
薄い薄い息に鼓動が合わさっていく。感覚の全てがふわりふわりと途切れる。身体の機能が生に置いつけない。生に置いていかれた肉体を、死体と呼ぶのだ。
「エリーニ!」
途切れる感覚が、一拍から二拍、三拍と増え始めた中、意識を根こそぎ引っ張り上げる声が私を呼ぶ。あなたが私を呼ぶのなら、生きている限り応えないわけがない。
目を開ければ、王子の顔が逆さまに見えた。美しい青緑色の瞳に光が点滅していて、少し心配だ。光が定着してほしいのに、私の呼吸に合わせて点滅しているように見える。しかし目蓋が重たくて、それ以上見ていられない。呼吸に合わせて点滅するのは私の意識も同様だ。
「何の為の合い言葉だ! 言わなきゃ、分からないだろうが!」
寒さも暖かさも何も感じない。痛みも、音も、遠い。
最期に見る光景としては申し分ないはずなのに、王子が酷く怒っているから微妙に気になる。ぎゃんっと怒ってくれたならまだいいのに、どうしてだか王子は喉が張り裂けんばかりに何かを叫んでいるようだ。
「俺は約束を守って生き続けたのに、お前が死んでどうするんだ! 生きる理由の約束相手が死ぬんなら、俺はもう生きるのを止めるぞ!」
「お前よくも僕の前でふざけたことを言ったな! こいつが死んだらお前は僕が殺してやる! その後、二人揃って地獄の底で説教だ!」
「エリーニ! お前はいま三人分の命を背負っているぞ!」
なかなか、無茶を言う。理屈も理由も滅茶苦茶で。思わず笑ってしまうほど、無理矢理で。
「馬鹿! 笑うな! ここでその顔は駄目な流れだろ! おい、エリーニ!」
はい、王子。
声は、もう出なかった。
「俺は殺しに来いと言ったんだ! それなのにお前が死んでどうする! 俺の雪兎なら、とりあえず性別を偽った理由を弁解してから溶ける許可を取りに来い! 絶対やらんがな!」
髪を刈られていた私を見て、あなたが勝手に勘違いしたんですよ。そもそもあなたは私を男扱いも女扱いもしなかったから、勘違いしていたことすら知らなかったのに。
「大体、冬が来る前に溶けようとする奴があるか! これから本番だろうが、粗忽者!」
必死な声がおかしくて、こんな状況なのに楽しくて、くすくす笑った命はふわりと溶けた。
あの雪の日々と同じく、柔らかで温かいあなたの色が降り注いでいたから、寒さは一切なかった。




