14魂
「どうしてお前が生きていて、俺の姉さんが殺されなければならないんだ!」
「王子、好きです」
「貴方の所為ではない……分かっている。だが、貴方が生きていくには犠牲が伴うんだ」
「王子、好きです」
「お守りできず、申し訳、ございません――……」
「王子、好きです」
「お前が死ねばいいだけだろう! 早く死ね! 死んで、お前の所為で殺された全てに贖え!」
「王子、好きです」
藁と泥と折れた鍬が積み重なった豪奢な寝室で、一斉に飛びかかってきた七体の人型をあっという間に切り伏せた王子は、返す刃を両手で握りしめ、叫んだ。
「分かった! 分かったから黙ってお願い! 何なの、何なのお前! 俺はお前を好きにならないって言っただろ!? なのにどうして酷くなるんだ! 自己嫌悪に陥る暇を寄越せ!」
深い紅色に金の細工が取り付けられた壁に嵌まっている、今にも蹴破れそうなほど朽ちかけた扉から新たな人型が飛び込んできた。王子が動く前に杖を向け、風で弾き飛ばす。ついでに首を落としておいた。何度か試したが、腹に大穴を空けるより、首を飛ばした方が散るまでの時間が早いのだ。手足らしき場所を跳ね飛ばしても、動きが鈍るだけで意味はない。長時間放っておいたら塵になるかもしれないが、そこまで見つめる時間もない。
この世界での体感時間が現実と同期しているのか確かめていないので、衰弱死する前にさっさと現実に返らなければならないのだ。本来なら、五分、一時間と時間を計り、その都度イェラ・ルリックに起こしてもらって時間を擦り合わせ、確認するはずだったのに。
「この人型の影が言葉を吐く度に、黒い靄が飛び散ります。付着しても問題はないようですぐに払えます。ですが、恐らくは王子がそれを気にした瞬間、肌に黒く滲んだ黒が現れました。私が確認した場所は、頬と右手の甲です」
王子は剣を握っている右手へ勢いよく視線を向けた。そこには白い肌があるのみだ。拍子抜けした顔の王子が肩を竦めるので、続ける。
「王子が私に怒鳴ったら消えました」
「……気にする暇が無くなればいい訳か。悪いな、心にもないことを言わせて」
「個人的には愛していると告げたいのですが、愛しているは段階を踏んで告げる告白だと本に書かれていましたので、まずは段階を踏んでいます。王子、好きです。ところで、何度告げれば段階を踏んだことになるのでしょうか。それとも、回数ではなく日数なのでしょうか。それとも段階とは言葉ではなく肉体的な接触で」
「よーし、今すぐ黙れ!」
それは王子次第である。
赤煉瓦の道は、天井を壁を屋根を地下を、縦に横に斜めに、縦横無尽に貫いて走り回っている。その上であれば、どんな場所でも歩けるようだ。だから私と王子は、さっきまでいた部屋を斜めの体勢で眺めながら、道を進んでいく。
不思議とこの道の上に人型は現れないようだ。今も、窓から飛び出した煉瓦道から隣の掘っ立て小屋まで橋のようにかかっている煉瓦道を通っているが、部屋から出る寸前飛び込んできた人型は部屋の中からこちらを罵倒している。
「許さないぞ! 母親を殺したお前が幸せになるなんて、絶対許さんぞ!」
「人並みの幸せなんて生ぬるい。人間としても、幸せになれる可能性を全て根こそぎ潰してやる! 感情を持つなんて絶対に許さない」
「殴ろうが蹴ろうが鞭で打とうが焼こうが冬の川に叩き込もうと、泣きもしない笑いもしない、こんな気味の悪い人形のような奴を生む為に、あいつは死んだのか!」
「人殺し! 母親殺しの悪魔め! 母親の命を食って生まれた化け物が、何をのうのうと!」
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ぬまで打ってやる! 死ぬまでだ!」
「おい、朝の挨拶はどうした。母親を殺した分際で今日も生きていて申し訳ございませんだろ、ほら、這いつくばって謝罪しろ。そうしたら餌くらいはくれてやる。家畜らしく床を嘗めてな」
「この課題を終わらせるまで飯は抜きで、一睡も許さん。もしも眠ったら百叩きの上、凍った川に放り込んでやる」
久しぶりに聞いた父の声は、結構やかましい。昔は特に何とも思わなかったのだが、久しぶりに聞くとかなりやかましかったので驚いた。以上だ。顔は忘れた。見たら思い出すかもしれないが、見ないと思い出さない確信がある。
王子と何度も目が合った。目が合う度、私の肌を視線が撫でていく。黒く染まっていないか確認しているのだろう。ちなみに王子は一度、黙れと言われたから黙ったら手の甲が真っ黒に染まって以来、私の告白を止めなくなった。だが、私は全く平気である。
「王子、私は無傷です」
「……そんな訳あるか」
それがあるのである。この場で全ての衣服を滑り落としても、何の陰りもないと断言できた。実際脱ごうとして引っぱたかれた。ボタンを留め直しながら、考えていたことを言う。
「父の言い分を聞いていると、矛盾が幾つも出てきますのでそちらの方が気になっています。感情を持つなど許せないと言い、そうなるよう仕向けていたはずなのに、感情が見えないと気味が悪いと怒る。課題を終わらせないと百叩きだと言いながら、終わっても百叩きの上凍った川に放り込まれるので言う意味はないかと。百回とは限りませんでしたし、鞭の場合もあれば拳の場合もあり、中には蹴りの場合も多く百「叩き」とは違ったように思われます。父自身はあまり学がない人でした。ですので私への行為も毎日同じことの繰り返しで、あまり種類がありませんでした。私が苦痛を感じる内容を吟味するより、自分がされたら嫌であろう内容を選んでいたようです。ですので私とは乖離していました。住んでいた場所も貧民街でしたので、お金もなかったのに、働く時間を増やすのではなく私を殴る時間に充てていたので無駄の多い人だったように思います。友人もおらず酒も飲めないようで落ちていた煙草を吸うことだけが楽しみだったようです。恋愛とは主観で行うものですので他人の私がとやかく言うことではないと理解していますが、母は彼のどこを好いたのかよく分かりません。写真を見れば、仲のよい夫婦だったことは覗えました。父は逆境に弱い人間だったようなので、母が死ななければ別人だったのでしょうか」
父との縁を切った事実に悔いや思う所は欠片もないが、母には少し興味が残る。恋とはどんなものだったのか、聞いてみたかった。そしてあの男の子どもを生んだ気持ちを、命を懸けた結果生まれてきた子どもが私などだった気持ちを、聞けるものなら聞いてみたい。
「俺は、お前の父親にも母親にも会ったことがないから分からないし、分かろうとも思わない。だがな、何度でも言うが、お前は何も悪くないしお前の父親の行動はどんな理由があろうと正当化できない恥ずべき屑野郎のものだ。いいな、分かったか」
「はい。同様に、王子は何も悪くありませんし、あなたは私の光です」
「そういう話じゃあない」
どういう話なんだ。
赤錆が積み重なった敷石の上を歩き、塵と割れた氷が浮かぶ川が流れる壁を横目に、宝石や硝子がぶら下がる天井を見上げる。大粒の宝石と割れた酒瓶が交互に飾り付けられた天井は、数多の声に埋め尽くされた。
一つ一つに誰かの顔があり、怨嗟を叫ぶ。しかし遠すぎて人の顔だとは分かっても個人まで識別できないし、言葉はここに来るまで聞き慣れたものだったので特に興味は引かれない。そもそも、ここで告げられる言葉はこれまで飽きるほど聞いてきた言葉ばかりなのだ。今更思う所はなかった。
赤煉瓦の道を随分上ってきた。ふと視界に入った閉じられた門はとても小さく見える。あれだけ高くそびえ立っていたはずなのに、初めて見た大きさに戻っているようだ。門は、虹のように婉曲している赤煉瓦道から見れば、ちょうど真上にある。門の位置からすれば私達が逆さまになっているのだろうが、ここまで縦横無尽に走る赤煉瓦道を辿ってきた身からすると、どこが上だろうがもう大して変わらない。重力は常に赤煉瓦道が主体なので、歩く分に障りはなかった。
人型は赤煉瓦道には現れないので、必然的に橋のようにこれだけが通っている場所には姿がない。建物内からがなり立てるのが関の山だ。
「なあ、お前は、その、何だ」
「王子、好きです」
「そう、それ。それ以外に何か望みはないのか」
「王子に好意を持っているのは事実ですが、これ自体にも望みはと問われるとよく分かりません。王子が私を認識してくださったのは嬉しいですし、出来ればお側にありたいですが、王子がお嫌でしたら遠くからお守りします」
王子の身の安全が確保される。望みというならそれが第一だ。次いで、王子の心身の安寧が保たれればと思う。それを告げれば、王子は歩みを止めてがっくりと項垂れてしまった。
「俺を省いたお前自身の願いだ……」
「ございません」
「お前なぁ」
王子を困らせるのは本意ではない。けれど、どうしたって願いなどありはしないのだ。
「元々、生まれたから生きていました。死ぬ理由がないから明日が来ました。それを人が生と名づけていたから、私は生きていたに過ぎません。それを悲しいとも虚しいとも惨めとも思いません。私にはそれらの感情自体よく分からないので別にいいのですが、王子に関しては一律嬉しいの感情がしめているので幸せです」
「あー……うん、なんで俺なんかにそんなもの感じちゃったのかは全く理解できないが……」
項垂れたまま歩き出した王子について私も歩き始める。
進行方向の建物には屋根から入った。建物に入るや否や、あちこちから人型が手を伸ばしてくるが、これは私が風で吹き飛ばす。本来なら水を扱う方が得意なのだが、この場に水がない以上、0から構成するよりこの場にある空気を活用した方が楽なのだ。
ここまで何度か術を連発したので、そろそろ補充しようと小瓶を取り出し、一気に飲み干す。空になった容器を掲げ、水を発生させて中を洗う。その後風を発生させ乾かし、積もった赤錆を採取する。持ち帰れるかは分からないが、試す価値はあるだろう。塵となった人型はそのまま消えてしまうので回収は不可能だった。
「俺はな、それなりに自分のことを不幸だと思ってきたわけだ」
「はい。王子の人生は非常に災難で散々です」
「よーし、俺は突っ込まないぞ!」
生まれてすぐに母親が「事故死」し、生きる環境を与えられただけで放置され、面倒を見てくれる大人も親しくなった相手も軒並み殺されていく。遺族からは責め立てられ、それでも残ろうとしてくれた人々を拒絶することでしか守れず。どこにも行けず、どこにも行かない。何の権利も立場もない、意味がない存在でないと許されなかった生を、この人はどんな気持ちで過ごしてきたのだろう。
「……俺は強い子俺は強い子…………よし、それでだな。他の誰かに優しくする余裕も、まあ、必要もないと若干思っているわけで」
「はい」
「いやそこ冷たい奴だなって引く所で、受け入れる所じゃないからな!? まあいいけど……それでだな、そんな俺でも、お前の人生は相当だと思ったわけだ。俺がそう思ったのは、昔いた兎くらいだぞ」
「そうでしょうか」
「そうだな。だけどな、俺はもう自分の死に方は決めてるんだ。だからお前にしてやれることはない。ここには何もない。何もないんだ。なあ、分かるだろ。お前は頭がよくて賢い女だから、分かるだろ?」
それは懇願のようだった。誰にも頼らず、裏切られることを前提として生きてきた人が紡ぐにはあまりに静かな、祈りのようで。
「ごめんな。俺は昔、俺の命をあげると約束してしまったんだ。だから今はまだ死ねないけど、その時が来たらその少年にあげるつもりなんだ。だから、ごめん。俺はお前に何もしてやれない。何一つ渡してやれないんだ。それなのに、相当な生き方をしてきたお前が、まあ、それなりに幸せになれるといいな程度には思うんだ。俺は何もやれないのにな。自分勝手なのは百も承知だけど、そう思うからこそ、俺のことはお前の人生から省くんだ。な? 頼むよ」
そんなものはとっくの昔に捨てたはずの人が、最初から持っていない私に祈る。世界を閉ざし、国に閉ざされたこの人に残されたもの。この人に許された最大の優しさだった。
だからこそ困ってしまう。
「王子、私は王子の願いであれば何でも叶えたいと思います。どんなことであっても、王子が喜ぶのであれば私は何だって出来ます。けれど、王子。だからこそ、私は王子の願いを叶えようがありません。どうしたらいいでしょうか」
心底弱り果てて答えた私を見て、王子は目を見張った。
「お前……そんな普通の顔できたんだな」
そして、何故か声を上げて笑う。困ったように眉を下ろし、けれど楽しげに目を細め、声を上げるのだ。
ああ、どうしよう。ますます願いなどなくなってしまった。だって私はずっと、ずっと、あなたのこの顔が見たくて。終わりを、死を得る安堵ではないこの人の笑顔が見たくて、ずっと。
あの日からずっと、それだけを。
「王子、王子、私」
思わず口を開いた時、世界が激しく揺れた。




