11魂
どうしたものかと悩んでいたら、あっという間に詰め所が見えてきた。そこで詰め所とやりとりをしている人物は、流石王子の身の回りのことを一身に引き受けてきただけあって、耳が早い。
「で、どうするんだ」
青髪を鬱陶しげに払い、不機嫌そうに腕を組んだイェラ・ルリックは、開口一番そう言った。見ている限り第一釦まで止められていた襟元が開いている。話を聞いて急いでやってきたのだろう。
王子はがりがりと頭を掻きながら、曖昧な声を出す。
「まあ……出ないわけにもいかないだろ。何せクレイ直筆の招待状だ。断ると、それを理由に叛意ありとされかねん」
渋い顔をする王子を見上げながら、起動させた杖で床を二回叩く。王子とイェラ・ルリックが私を見た。
「防音を」
「ああ、成程。お前、気が利くなぁ」
「一応褒めてやる」
「イェラ……お前どうしてそんな偉そうなの?」
「偉いからだ」
「ですよねー」
宰相の息子は偉い。ただの事実を言い合っている二人が歩き始めたので、私もついていく。四歩。どうでもいい人間や、嫌いな人間とは近すぎる距離だろう。けれど、好きな人とは遠く感じる距離だ。もう少し詰めてしまいたいけれど、下手に詰めて嫌われるのも若干躊躇われる。そんな距離があるのだと、初めて知った。なんだか胸がくすぐったいのに、不快ではない。
「出るなら出るでいいが、夜会開催が十日後だから、それまでに準備を整えろよ」
「あ、そうだ。欠魂についての有力情報を手に入れたんだけどさ」
「それは聞くが、夜会の準備は服だ、馬鹿野郎」
「成程なぁ」
久しぶりすぎて忘れてたとからから笑う王子に溜息を吐きながらも、イェラ・ルリックは王子の口から説明される欠魂についての対策を聞いている。昏睡状態に陥る状態が条件ならば、彼の協力は不可欠だ。決めた時間に私と王子の距離を詰めて覚醒させてもらわなければならない。それらの手順を話し合っている二人に二歩遅れて歩き、時々質問に答えながら進む。目指す先はどうやら王子の宮殿のようだった。そういえば、そろそろ昼だ。研究に没頭しているときは一日一食以下になることなどざらにあるが、王子がいるのなら忘れるわけにはいかない。
「イェラ・ルリック」
二人の話が一段落したのを見計らい、声をかける。驚いた顔で振り向いた王子と対照的に、イェラ・ルリックの顔に感情は見られない。私も似たようなものなので、怯みや恐れは感じられなかった。
「ご相談があるのですが」
「何だ」
「王子にはご内密に」
「この距離で!?」
王子のぎゃんっとした鳴き声が響いたけれど、防音の魔術を張っているおかげで音は私達の周辺を回っただけだった。イェラ・ルリックは黙って私を見下ろしていたが、やがて一つ溜息をつき、僅かに身を傾けた。失礼しますと前置き、その耳に口元を寄せる。王子が形容しがたい顔で私達を見ていた。そわそわと視線を動かしている。
「――成程」
話し終えて身を起こすと同時に、イェラ・ルリックは僅かに口角を吊り上げた。
「僕はいま初めて、少しだけお前を信用してもいいと思ったぞ」
「お願いできますでしょうか」
「ああ、引き受けた。ただし、基本的に揃いになるぞ」
「勿論です。それが目的の物ですので」
「よし。ルリック家の名に懸けて必ず間に合わせると誓おう。鍵を寄越せ」
すっぱり言い切ってくれたイェラ・ルリックに、いくつかついている中から一つの鍵を外して渡す。これは軍部に構えられた部屋の鍵だ。物置代わりにしか使っていないが、だからこそ一番最近使用した物は手前に置かれている。
「では、僕は用事が出来たからまた夜まで空ける。夜には戻るから、昏睡開始はそれまで待っていろ」
「……え!? 本当に何も俺を通さない気!? お前ら何の話してたの!?」
「これは僕達二人だけの問題だ。お前はそこで指くわえて寂しがってろ」
「殺生な!」
「その可能性を思いつきもしないお前が悪い。じゃあな」
ふんっと洟を鳴らしたイェラ・ルリックが王子から離れる。
「イェラ・ルリック、あと一歩で防音魔術効果範囲を抜けます」
「分かった。僕が離脱後もそのままかけていろ。その馬鹿が絶対うるさいからな」
言い捨てて、イェラ・ルリックが効果範囲を抜けた。同時に、黙ってぶるぶる震えていた王子の、ぎゃんっとした抗議が響き渡った。
昼休憩も兼ねて戻った王子の宮殿内を、改めて隅々まで見聞した。王子は泣いて嫌がったが、御身を守る為だと説得すれば、泣いて嫌がった。どっちにしろ泣いて嫌がったのでそのまま続行した。昏睡状態に陥るのなら、陥っても問題ない警備状況を作り出さなければならない。
昼食の後も何度か研究室に戻り、持てる限りの魔道具を王子の宮殿へ持ち込んだ。常日頃からやりたかったことなので、つい張り切ってしまったのである。気が付けば、王子が生気を失った目でへろへろと後ろをついてくるだけの人形になっていた。二課に凝らせてはいけない。こだわりに際限はなく、加減もなく、遠慮も容赦もないのだ。
他の王族のように美しく華やかに整えられていない庭に、花より先に魔道具を埋めていく。スコップを持ってくるのを忘れて手で掘ったら爪が剥がれた。まあいいかと続けて掘っていたら気付いた王子に凄まじく怒られた。ぎゃんぎゃんどころの話ではない。ぎゃあすぎゃおすといった怒り具合だった。それなのに、大丈夫ですと答えたら急に表情と音量を失い、静寂の怒りを発し出す。気が付けば言うことを聞き、大人しく手当を受けていた。驚いた。
我に返り、手当くらい自分でやると口を挟んだら、無言の視線が返り、それ以上何も言えなくなった。
しかも、次の往復では荷物を全て取り上げられてしまった。何を言っても無言の無表情が返ってくるので、渋々引き下がるしかない。
今日だけで何往復もした、普段から通り慣れた道を黙って歩く。この道を王子と歩くのは初めてで、お互い黙って歩くのもこれが初めてだ。
「俺は」
王子は前だけを見ている。合わない視線はつらくない。私だけが一人で佇む王子を見てきたのだから当たり前だ。その背を、横顔を、ずっと見てきた。その人がいま、私に話しかけている。それがとても不思議で、奇妙で、足が風魔術を纏わり付かせたかの如くふわつく。
「俺に関係する事柄で他者が傷つくのが、心底嫌いだ。次に自分を守らず無造作に怪我してみろ。女だろうがぶん殴るぞ」
「申し訳ございませんでした。以後気をつけます」
成程。今まで王子を守って沢山の人が死んでいった。だから、王子は周りが傷つくのが嫌いなのだ。優しい人だから少し考えれば分かったのに、私の考えが至らなかった。私の迂闊な行動で王子を不快にさせてしまったので申し訳ない。次は怪我をしたらすぐに隠そう。
くるりと王子が振り向き、抱えていた箱を廊下に下ろした。そして、空いた手が私の顔面を鷲掴みにした。
「お前いま、次は隠そうとか思ってなかったか?」
「何故お分かりになったのでしょうか」
私は何も言っていないのに。人の思考が読めるなど、それは魔法の領域だ。
「素直か! いつも次どう対応するかつらつら語っていた奴が急に黙り込んだら分かるわ!」
「成程。以後気をつけます」
「気をつける場所が違うわ、大馬鹿者!」
「王子、声が大きいです」
「どうせ防音してるだろうが!」
「いえ、私の耳が滅びます」
「怒鳴らせない行動を心がけるという発想はないのか!」
「成程。王子、頭いいですね」
「凄い、こんなに馬鹿にされたの初めて」
心から王子の機転に感心しているのに、何故馬鹿にされたと思うのだろう。でも、王子はぎゃんっと怒っているほうがいい。静かに沈んでいく嘆きや怒りを瞳に抱き、闇で覆うより余程。
「王子、好きです」
「い、ろ仕掛けで誤魔化そうとしても、そうはいかないからな!」
「防音を解きます」
「どうして!?」
「第二王子が来ます」
「あ?」
王子の肩越しに、五、六人の集団が見えている。振り向いた王子もその塊を確認し、面倒くさそうに小さく息を吐いた。いつもなら道を譲るが、今は王子と共にある。道は王族に譲るものだ。王族同士であれば、互いにずれる。ただ一人、王だけがずれることなく歩みを続ける権利を持つ。
王子はまっすぐに立っていた。その隙に、王子が下ろした荷物を抱え上げる。「あ、この野郎!」王子の視線がそう言っているように聞こえて、少し面白い。
第二王子側もこちらに気付いているのだろう。第二王子の称号は赤だ。濃淡の差はあれど、護衛も含めた全てが同じ色を纏っている。
王子とつかず離れず歩いていた護衛が立ち止まった。真ん中であり先頭を歩いている第二王子だけが、歩調を速めて片手を上げる。
「やあ、兄上。久しいな」
金の髪に青緑の瞳を持つ第二王子は、王子より背が高く、体格もいい。第二王子が日を背負っている為、王子に影が落ちる。顔を覗き込む第二王子の笑顔に、王子はへらりと笑った。
「同じ場所に住んでいるのに、久しいというのも妙な話だけどな」
「ははは、確かに」
第二王子に与えられた区画は、王妃に匹敵する広さがある。端から見れば同じ城内という括りではあるが、互いを訪ねるとお茶が冷める距離だ。
護衛を数歩下がった場所で留め、自分だけ近寄ってきた第二王子は、私達の前で足を止めた。
「兄上、私の招待状は見てもらえたかな」
「ああ、有り難く出席させてもらうよ」
「それはよかった!」
ぱっと笑った第二王子に、王子は静かに微笑む。
「用事があるならここで言ってくれれば、出なくていいとは思うけどな」
「そんな寂しいことを言わないでくれ。私達は、誰より年の近い兄弟じゃないか」
「はは」
にこやかに穏やかな会話が繰り広げられているのに、どこか寒々しい。干魃に見舞われた大地のように乾燥した声が王子の口から続いているのに対し、第二王子の声は真冬に凍り付く水場の空気だ。
「……母上が、また何かをしでかしたようで、兄上には申し訳なく思っている。17にもなって、母親の管理下から脱せていない我が身を恥じ入るよ」
潜められた声で告げられた言葉に、王子は第二王子の影で苦笑した。彼の身体に隠れて、彼の護衛からは見えない位置だ。
密やかな空気は瞬き一瞬の間に霧散し、第二王子の瞳が僅かにずれた。
「城中の噂になっているよ。貴方が、エリーニといい仲だとね」
「あー……まあな」
暇だなと横目で庭を見ていたが、私の名前が出たので意識を全面的に戻す。いつ見ても笑っている人だ。顔面が笑っているだけで、内面がどうかまでは興味がないので分からない。
「交際を始めるなら、相談してくれればよかったのに。兄上もエリーニも冷たいなぁ。私はいつも仲間はずれだ……。二人は知り合いだったんだね。全く知らなかったよ」
「俺も知らなかったよ……」
「兄上は冗談がお上手だなぁ」
虚ろな視線で乾いた笑いを浮かべる王子が私を見る。王子が私を認識したのは昨日が初めてだから、王子の言葉はただの真実であり本心だ。
私と王子を、第二王子の視線が嘗めるように通り過ぎていく。見える情報から、私達の関係全てを把握しようとしているように見えた。だが、残念ながら私達の関係は私達自身もよく分かっていない。分かっているのはただ一つ。私達は四歩離れれば倒れる。以上だ。
「酷いよ、エリーニ。私が求婚した際は、考えてもくれなかったというのに」
「申し訳ございません」
「兄上からは受けるのだから、私はとても傷ついてしまったよ。本当に意外だ。私から見ても、誰に聞いても、君が誰かと仲を繋げる素振りは欠片も見つけられなかったのに」
「王子から交際の申し込みを受けたわけではありません。私から申し込みました」
揺らがなかった第二王子の目が見開かれる。その様に、王子の瞳まで開かれた。
「私は、ずっと王子をお慕いしておりました。ですので、有り難くも王妃様より賜った機会に縋りつき、王子に交際を申し込みました。王子はそれを受けてくださいました。現在、天にも昇る心持ちで浮かれております」
「……え? 浮かれ……浮かれ? えぇー……?」
王子が疑問に満ちた声を上げている。第二王子が目を見開いたまま瞬きすら忘れて固まっているからいいが、そこまで疑問を形にして表出しないでもらいたい。
「そう、だったのか……道理で私の求婚を受けてくれないわけだ。いや、私に限らずどんな男の求婚も、だな」
「王子以外、恋しい方がおりませんので」
「兄上より剣の腕がある男も、兄上より魔術の才がある男も、兄上より頭が回る男も、兄上より商才がある男も、兄上より美しい男も、沢山いるだろうに。交際相手としても、主としても、どうして兄上なんだ?」
本当に不思議だったのだろう。第二王子の声に悪意は見られない。いつもは王子より余程大人に見える表情を浮かべて崩さない人なのに、今はきょとんと、まるで幼子のような顔をしている。
眼球だけを動かし、王子を見た。王子は少し俯き、静かな笑みを浮かべている。怒りを、嘆きを、浮かべていたほうが穏便だと思った。薄く静かで鋭利な笑みは、王子に似合わず、酷くもの悲しい。あなたから感情が失せる瞬間が何より腹立たしい。
「私は王子に才がないとは思いませんが、そもそも好意に才は関係あるのでしょうか」
そんな物で人の想いが確定的になるのなら、世の中はもう少し分かりやすく回っている。
「才がなければ好きになってはいけないのですか。才がなければ愛してはいけないのですか。才がない人を目指してはいけないのですか。才がない人に笑ってほしいと願ってはいけないのですか。才がない方に救われてはいけないのですか」
無駄は好きではない。けれど王子へ紡ぐ言葉ならどれだけ無駄になってもいい。どこにも溜まらず垂れ流されても、誰にも受け取られず消え去っても構わない。千の言葉が、万の願いが、一欠片でも王子に届けばそれでよかった。その一欠片が、瞬きほどの一瞬の癒やしになるのなら、私の生涯を懸ける価値がある。
「王子は私の人生です」
そう決めたのだ。そう決まったのだ。合い言葉を手に入れたあの日、私の人生は定まった。
「私がお仕えするのは、王子だけです」
王子へ捧げるのであれば何をどれだけ失っても構わないが、それ以外へ費やして王子への時間が減るのは問題しかない。私は荷物を持ち直し、軽く頭を下げた。
「それでは失礼します」
「あ、ああ……何かあったら手を貸すから、遠慮なく言うんだよ」
「ありがとうございます。王子、行きましょう。イェラ・ルリックが戻ってくる前に済ませたいので」
歩き始めた後を、黙ったままの王子がついてくる。少し離れた場所にいた第二王子の護衛達とすれ違う間も速度は緩めない。特に用事がないからだ。私の態度は無礼だろうが、彼らは私を咎めない。いつもと同じだからだ。第二王子が私の研究に興味を持ち、話しかけ始めた頃には咎められたが、私は変わらず第二王子も彼らを制止した。そこで彼らを制止せず、厚い忠義と敬仰を要求するのであれば、関わりを絶っていただろう。邪魔はしないと言っていたので、二課長の顔を立てた。
一応防音の魔法をかけ直したほうがいいだろうか。しかし今は手が塞がっている。王子も黙っているので後でいいだろうと思っていたら、王子の区域に入った途端、肘を掴まれた。
引く力が強く、思わず荷を落としてしまった。咄嗟に足を出し、箱が落ちる前に一段階入れる。私の足を緩衝材にしたので、中身は大丈夫なはずだ。そんなに重い物でもないので、足に怪我もない。
「お前は馬鹿か! 二課内でならともかく公衆の面前でクレイに歯向かう奴があるか! 求婚ならば拒んでも一応個人の問題で済ませられる範囲だ! だが、主としてあいつより俺を選ぶな! 王妃とあいつが組めば、いくらお前でも潰されるぞ!」
「それが何ですか」
「お前はっ!」
王子の手が私の肩を掴む。私の肩を覆ったついでに指は髪をも絡め取る。引っ張られた髪が数本千切れたが王子は気付かず、私はそんな物どうでもよかった。だって、髪を伸ばしたのも手入れを欠かさないのも、私が大事と思ったからではない。見せたい相手がいたからだ。
激昂している王子を見上げる。
「あなたはあなたへ降り注ぐ理不尽に抗わない。それが己の傍にいる人間を殺すと身を以て知っているからです」
「分かっているなら何故、欠魂が終わったあと穏便に離れる選択を選ばない!」
「そんなものに興味などないからです」
怒りも悲しさも虚しさも、全て光のない瞳に覆い隠してしまったあなたが感じた絶望がどんなものか、私には分からない。それらを正しく受け取るには、私の人間性は正しく機能していないのだろう。だからこそ、出来ることもあると思うのだ。
「私はあなたを害する全てが許せない。あなたが理不尽に晒される現状に怒りを覚える。あなたは理不尽に怒ることを止めてしまったけれど、私はあなたの現状が不愉快でならない。あなたが望まない故にこの場に留まっているだけです。そうでなければ、あなたを害する誰かに走りより、きっと殺していた」
「お前っ……!」
歯を食いしばり、何かを怒鳴ろうとした王子がその何かを飲みこもうとした。それが言葉だったのか感情だったのかは分からない。分からないが、嫌だった。心底。叫び出したいほどに。
「あなたは終わりを待っている。巻き込まぬようにと支援者全てを遠ざけて、領地を望まず財も持たず。王位継承権を完全に捨てても王妃は必ず追ってくる。だからこの場で終わりを待つ。全部流してしまえるのは終わりを待っているからです。あなたは先を信じない。望まない。私に身の安全を図れと言いながら、自身の未来を信じない。私はそれが、腹立たしい」
「……調子に乗るなよ。二課の、世俗に疎い研究員如きが、知った口を叩くな」
「その程度で私が怒り貴方の元から離脱するとお思いでしたら、認識を改めてください」
「黙れ」
肩が掴まれたまま壁に叩きつけられる。一瞬息が詰まった。しかし、光を背にする王子を見上げると苦痛はすぐにどうでもよくなる。美しいのだ。金を通って降り注ぐ光は、この世の何より美しい。この人を通して降り注いだ私の世界が美しく思えたように。
「お前には悪いが、俺がイェラ以外で信じるのは一人だけなんだ。お前が何の目的で俺に取り入ろうとしているか知らないが、俺はお前には殺されてやらないぞ。それに、万が一本当に俺を慕っているだの何だのという話ならば、愚かの一言に尽きる。俺はまだ死ねない。だから俺は、自分の身を守る為なら、簡単にお前を裏切るぞ」
冷え切った瞳は、けれど熱が見えた。光を失った瞳ではない。抱いた熱を無理矢理押し込もうとして漏れ出した光が、ちかちかと溢れ出す。
「俺を殺したければ、兎を連れてくるんだな」
結局、この人は優しいのだ。だから裏切るだなんて言葉を使ってしまう。使えてしまうのだ。
「王子は絶対に私を裏切れません」
「嘗めるなよ。俺はお前を裏切るなど容易に出来る人間だぞ」
「王子が私に出来るのは切り捨てのみです。そして私はそれを裏切りとは思わない。だから、あなたは私を裏切れないんです。残念でしたね、王子。私などに好かれたのが運の尽きと諦めて頂かないと」
整った顔が、泣き出す寸前の子どものようにくしゃりと崩れた。しかし、突如その瞳が丸くなる。咄嗟に視線を辿って足元を見れば、黒い影が滲み出していた。私がつけた影が形を変え、滲み出した黒を覆おうとしている。だが、二つの黒の間には白線でも引いたかのような明確な線が出来ていた。影が押し込み切れていない。
反射的に起動した杖が弾かれ、腕ごと天を向く。骨が嫌な音を立てた。この黒は見たことがある。黒として存在する色ではなく、他の色を一切持ち得ず、光までをも飲みこんだ結果生み出される虚無の色。晴れ渡った空の下、鳥も飛んでいないのに、王子の足元を覆った影。
これは、魔法だ。
「王子!」
この影の上にいてはまずい。弾き上げられた腕を下ろす手間も惜しみ、魔術を発動する。影と連動し、黒を押し止める。そして、全力で王子を突き飛ばした。魔法を留めた状態で対象をずらせば、魔法は行き先を惑い彷徨う。そのまま術者に帰ればいいが、そうでなければ暴走を身代わりが受けるだけだ。王子にいかなければそれでいい。私がどうにかなっても、キンディ・ゲファーが歓喜と共に何とかするだろう。そう思ったのに。
「このっ、馬鹿野郎!」
王子を突き飛ばした私の手を、王子が掴み返した。ぎょっとして振り払おうとしたのに、魔術は黒を押さえ込むのが精一杯で、女の力では男の手を振り払えない。王子は掴んだ腕を力任せに引き寄せた。当然身体もついてくる。王子の必死な形相に、そんな場合ではないと分かっているのに苦しくなってしまう。ほら、あなたはやはり、こんなにも優しい。
微塵も躊躇わない力で胸に強く抱き込まれたのを最後に、私達の意識は黒に溶けた。




