1魂
「俺を殺したければ、兎を連れてくるんだな!」
ひっきりなしに現れる暗殺者へ、そう高らかに宣言することで有名なその人は、黒の称号を持つセレノーン王国王子。
そして、虚無の象徴だった。
極限まで薄く伸びたガラスが砕けるような、透明感と鋭さ、そうしてもろさを象徴する音が響き渡る。
濁点はない。かしゃあんと、心地よささえ感じる軽やかな音だった。
そんな音を身の内から響かせた私達は、縺れ合いながら地面に倒れ込む。倒れ込んだ勢いが収まった瞬間、腕を突っぱねて身体を起こす。
「うぎゅ!」
杖を構えたまま周囲を見回すも、人の気配はない。私が飛び出した通路側には背の高い建物がそびえ立つ。それらを一階から屋上までざっと視線を走らせ、誰もいない事実を確信できるまで見続けた。
確認後もしばらく杖を向けたまま固定する。頭上からは、雲一つない空を通り過ぎた陽光が降り注ぐ。夏はとうに過ぎ、冬の訪れをひしひしと感じるも秋が去りきらないこの季節。当然焼けるような暑さは感じず、寒さが強くはあるが、光が当たれば熱はある。光の熱をじわじわ服越しに感じながら、ちらりと一瞬だけ視線を落とす。
現状を確認し、溜息を吐きながら完全に身体を起こした。
「きゃうっ!」
不安定な体勢からきちんと地面を踏みしめ、立ち上がる。視線が上がってもやはり人影は見つけられず、また周囲に変化はない。襲撃者は完全に去ったとみていいだろう。
杖を立て、力を抜く。脱げかけていた分厚いフードをかぶり直し、長いローブを叩いて汚れを落とす。すると、それまで私の下で呻いていた存在がようやく起動を開始した。
私の体勢変動と体重移動を一身に受けていた人は、私の体重を乗せた膝と肘によりダメージを負った箇所を押さえながら起き上がった。
どうでもいいが、この人悲鳴が犬みたいだ。
「何だ何なの何なんだ!」
一気に怒鳴ったことにより噎せ込んだ人を見下ろす。特に動く必要性を感じなかったからだが、その人は涙目になりながら私を睨み上げる。起き上がったとはいえまだ座っているから致し方ないことだが、太陽を背にする私を見上げて眩しくないのだろうか。
「こういうときは背を擦るのが一般的だろう!」
「はあ」
「はあ!?」
復活するや否や、騒がしい人だ。
その人は、痛みと酸欠で赤くなった頬を隠しもせず、だんっと地面に拳を打ち付けた。
「大体お前、俺を誰だと思っている!」
「さあ、とんと存じ上げません」
「そっ……そう、なのか……?」
何やら衝撃を受けたらしい金色の物体は、悲しげに目を伏せかけて、はっとなった。その勢いで立ち上がる。
私より優に頭一つ分高い金色の物体は、日の光に透ける金髪が乱れるのも構わず私のフードに掴みかかった。大きなフードが無造作に外され、日除けがなくなる。
黙って見上げていると、金色の物体はうっと怯んだ。しかし、すぐに持ち直したらしく、きっ、と私を睨んだ。青みがかった緑色の瞳の中に、私が映り込んでいる。我ながら、いろいろどうでもよさそうな顔をしている。
三つ編みにした前髪を横に流し、後ろも大雑把に三つ編みにした髪型。これは個々人の自由だ。しかし、頭の左右にある銀色の羽根飾り。これは、国軍所属魔術師の証だ。ついでに軍服も着ている上に、持っている杖を鑑みれば一目瞭然。
私の所属はセレノーン国軍魔術二課である。魔術師だから杖を持ち、二課だから髪飾りは二つ。簡単な話である。
「セレノーン国軍魔術二課が、俺の顔を知らないわけないだろう!」
「存じ上げませんが」
「え……?」
きりりと跳ね上がっていた眉が、へにょりと下がった。
「身形から身分の高い方かと判断致しましたので言葉遣いを改めましたが、何処のどなたかまでは……そもそも魔術二課は、人付き合いに難がある魔術師が集まった課ですし」
「そ、れはそうだと、聞いたことが、ある、が……あの、本当に?」
「はい」
「なん、だと……?」
金色の物体はへなへなと崩れ落ちた。
「俺は、国で一番価値のない男として名を馳せている自信があったのにっ……!」
柔らかな草が生い茂っているから怪我はしないだろうが、地面にへたり込むのは、服を汚すと思うのだ。後々面倒になったら困るので、フードをかぶり直しながら溜息を吐く。
「お召し物が汚れますので立ち上がった方が宜しいかと、オルトス王子」
「お前やはり知っているじゃないかっ!」
セレノーン王国第一王子は、ぎゃんっと吠えるように叫んだ。
オルトス・ゼース・セレノーン。18歳。セレノーン国第一王子。
さらりとした透き通る金色の髪に、青みがかった緑色の瞳。王位継承権第十三位、堂々の最下位。称号・黒。
知っている情報を頭の中でつらつら流している間も、王子はぎゃいぎゃい怒っていた。
「この突飛な状況下でそんな冗談どうかと思うぞ! 何故なら甚く傷ついたからだ! 俺が!」
「冗談ではなく本気です」
「本気……俺を知っているのだろう? どういう意味だ?」
「その上で、うわ直接関わりたくないなと思いまして」
「この正直者!」
正直に答えたら、正直者と言われた。予定調和である。
王子は柔らかな金の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、じとりと私を睨んだ。
「……俺は最も不人気でほぼ永久欠番になっていた黒の称号を押し付けられるような男ではあるが、一応曲がりなりにも王子だ。いくら王位継承権最下位といえど、ここまで無礼な扱いを受けたことはないぞ!? 少なくとも、誰もが表面上はかろうじて取り繕っていたぞ! ぼろは大分出ていたがな!」
母は娼婦。父は国王。それだけで大体事情を察することが出来るが、この男の不運は出自だけに留まらない。
生まれた順番もまずかった。低い身分でありながら、なまじっか一番目に生まれてしまったばっかりに、正妃であり第二王子の母である王妃から散々手を回された。結果は簡単に想像がつくだろう。更に、正妃が同盟国からの輿入れであり、夫となる現セレノーン国王を慕っていたのだからどうしようもない。
見事な大惨事である。
セレノーンの王族には色による称号がつく。それぞれの指揮系統を分かりやすくする意味合いも兼ねて、属する派閥によって色の基調を統一するのだ。
そうはいっても、全身を同じ色に統一するのは側近だけだ。それらは親衛隊と呼ばれる。陣営に入っていても大半はその色のマントを身につける程度だ。
全身をその色に染める場合、絶対に他の主を持たない。仕えていた主が死ねば墓守となるほどに徹底して、ただ一人を主とする。
その中でこの王子は、地味、不吉、純粋に暗いという理由で忌み嫌われていた黒の称号を得ている。当然王妃の嫌がらせだ。
王子の服は上から下までほとんど黒一色といっていい。申し訳程度にセレノーン国の紋章が金色の糸で刺繍されているだけだ。本来なら当人の髪や瞳の色程度は使っていいのだが、刺繍ですら黒だ。鮮やかな金の髪があるから映えて見えるのが唯一の救いだろう。
そして、当然というべきか王族なのにというべきか、権力もなければ臣下も数えるほど。あってないような王子である。王族でありながら一人ぽてぽて呑気に王城内を歩き回る姿がよく目撃されるほどだ。
それでも、一応は王族であり、第一王子だ。皆、上っ面では一応敬っている。一応感がありありと覗える惨状ではあるが、一応。
王子はぎゃんぎゃん怒る。立ち上がれば私より身長があるから、今度は私が見上げなければならない。そうはいっても太陽は私の背にあるから眩しくはないので助かる。
「大体お前は何なんだ! 突如飛びかかってきたと思えば、俺の腹に肘を入れるわ膝を入れるわ! 襲撃か!? 真っ昼間の王城ど真ん中で王子暗殺未遂か!? 堂々とし過ぎるにも程があるわ!」
「暗殺未遂ではありますが」
「あるの!? 嘘ぉ!?」
両手で自分をかき抱き、長い足を駆使してざかざか離れていく様子は脅えた動物のようであり、謎の進化を遂げた虫のようでもある。
そんな王子を一歩も動かないで見送ると、追われないことに安心したのか、王子の動きが四歩で止まった。そぉっとこっちを伺ってくる。
「私が仕掛けたわけではありません」
「え?」
王子が半歩私に近づいた。
「むしろ、僭越ながらお救いした立場にございます」
「そ、そうなの?」
王子が一歩私に近づいた。
「はい」
「そ、そうか。うん、大義であった?」
そぉっとそぉっと近づいてくる王子を見て、頷く。
「はい。ですので、どちらも欠魂で済みました」
「致命傷だわ大馬鹿者――!」
絶叫と共に崩れ落ちた王子がやかましくて、私は無言で耳を塞いだ。きーんとした。
王子は、元々黒で目立たないとはいえ、汚れた裾をはたきもせず堂々と靡かせ、私から数歩距離を取った。
「いいか、そこにいろ! 俺はすぐに人を呼んでくる! いいかっ、動くな、よ――……?」
走り出した瞬間、そのまま糸が切れた人形のように倒れた王子に駆け寄る間もなく、私の意識もぶつりと途切れた。最後の瞬きで目蓋が閉じる寸前、王子の医者が血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。