外伝 イエルの側近の独り言
主が挙動不審になり始めたのは、晴れ渡ったある春の日のことだった。
「ハンス、どうしよう……ッ。
マリアージェが可愛すぎる!!!」
いきなり主にそんなことを言われたハンスは当然ながら困惑した。
「マリアージェさまが可愛いのは昔からでしょう? 今更何を言ってるんですか」
何と言っても、大国アンシェーゼの皇帝(美男)と、その皇帝に見初められた侍女(美女)を両親に持つマリアージェさまである。
性格はともかくとして、見た目だけを言えば、あの奥方様は他に追随を見ないほどぶっちぎりの美少女であった。
「そうじゃない!
マリアージェが……、マリアージェが……。お、おん、おん……」
「おん?」
ハンスは首を傾げた。
主が何のことを言いたいのか、さっぱりわからない。
「……………お、おん……、おんなになった…」
やがて、蚊の鳴くような声でそう続けたイエルの顔をハンスはまじまじと見つめた。
「女……?」
昔からマリアージェさまは女だったよなとハンスは思い、一拍おいて「ああ、そういうことですか」とようやく主の言うことを理解した。
要は初潮とやらがマリアージェさまに訪れたのだろう。
いや、めでたいことだ。
「良かったじゃないですか。そういやマリアージェさまはもう十二でしたよね。
大きくなられましたよね」
感慨深くそう呟くハンスだが、主の思いは全く別のところにあるようだった。
「最近、何だかいい匂いがするんだ」
イエルは、どうすればいいんだぁというように頭を抱え込んだ。
「マリアージェはよく私にくっついてくるんだけれども、そしたら何だかいい匂いが……。
お前もそうは思わないかっ」
「思いませんよ」
マリアージェさまは、ハンスにとって娘に近い感覚がある。
弟のように思っていたイエルさまの奥方だから、年の離れた妹のように感じていた事もあったのだが、あの奥方さまははっきり言ってそんな可愛いものではなかった。
反抗期が来るや、その対象はハンスになった。
年もちょうど親子くらい離れていて、夫の次くらいに懐いていたから、反抗するのにちょうど良かったのだろう。
ハンスが愛読する『子どものしつけと上手な叱り方』という本によると(注:ヨハネ・アンブルグ著、イエルさまの愛読書でもある)、この反抗期というものは子どもにとって非常に重要な成長過程であるらしい。
曰く、他者の意見や指示に対し、子どもが拒否や抵抗をする事で、徐々に自己を確立し、大人として成長していくのだそうだ。
ハンスとてすでに三児の父親であれば、そのくらいは経験的に知っていた。
反抗期がない子の方がかえって問題であるという事も聞いたことがあったし、イエルさまに恋をしているマリアージェさまがその反抗の相手にハンスを選んだことも、ある意味仕方がないとわかっていた。
……わかってはいたが、それにも程度というものがある。
マリアージェさまの反抗期はなかなか手強かった。
子どもなんだから仕方がないとハンスは自分に何度も言い聞かせたが、自分の実の子より反抗が激しいのは何故なんだ? と内心首を傾げもした。
まあ、その子その子によって特性が違うのは当たり前なのかもしれない。
時にはイエルさま相手に反抗してくれないかなとも思わぬでもなかったが、マリアージェさまはその辺りはぶれなかった。
そして時に、ハンスが想定しないとんでもない事件も引き起こした。
ある日のことだった。血相を変えた侍女がハンスのところに飛び込んできた。
「大変なことになりました!」
とにかく来て下さい! とものすごい形相の侍女に引っ張られて、マリアージェさまの部屋に行けば、そこには蜂蜜の陶器の瓶を口に突っ込んだマリアージェさまが待っておられた。
「何をなさっているんです?」と聞けば、
「ふへはいほぉっ! ほっへ、ほっへ!」とマリアージェさま。
何を言っているのかさっぱりわからない。
よくよく侍女に事情を聞けば、小さな陶器の瓶にマリアージェさまの舌が入り込み、抜けなくなったのだと言う。
何でも瓶の蜂蜜を嘗めていているうち、瓶に口をつけて思い切り吸い込んだらどうだろうと思いつき、即実行なさったらしい。
……何故そんな馬鹿なことをやらかしたのだろう。
理由は簡単である。子どもだからだ。子どもは時に意味のないことをする。
で、どうなったかと言えば、結果的に舌が瓶にすぽんっと吸い込まれて抜けなくなった。
見た目は大間抜けで笑えるが、事は深刻だ。
悲劇である。
マリアージェは泣きそうになっていたが、泣いて鼻が詰まるといよいよ大変なことになるので、皆でマリアージェさまを宥めていた。
すぐにイエルさまに連絡を取ろうとしたらしいが、イエルさまだけには絶対に伝えないで! とマリアージェが半泣きで紙に書きなぐってきたため、それもできずにハンスが呼ばれた。
ハンスは頭を抱え込んだ。
見れば、完全に舌が陶器の瓶に入り込んで、引っ張っても抜けそうにない。
瓶の口は余りきつくなく、マリアージェさまが痛がっていないことだけは幸いだが、このままでは生活に支障が出るので抜いてやらないといけない。大体、間抜けだし。
抜かないといけないのだが、どうすればいいのだろう。下手に瓶を割ると舌が傷ついて、大量出血を起こしそうだ。
これはもうイエルさまに知らせるしかないと言ったら、その途端、マリアージェさまがものすごい形相で抵抗し始めた。「だめ! いや!」と紙に殴り書きして、挙句に癇癪を起して大泣きを始める。
そのうちに鼻が詰まり、瓶が突っ込まれたままの口でぜいぜいと息をし始めたので、これはまずいと思い、つい知らせないと約束してしまった。
そんなに嫌なら何故した? とハンスは思う。いや、理由はわかっている。子どもだからだ。
同じ瓶を用意させ、中のものを傷つけずに割ることができないか、いくつもいくつも試すことになった。
比較的薄い陶器であったので、両側に瓶の直径よりほんの少し短い長さの木片を置き、絶妙な力で金づちで叩けば、中のものは傷つけずに瓶だけが割れることがわかった。
方法は見つかったが、あとはそれを誰がやるかだ。
当然、皆嫌がった。
失敗すれば、マリアージェさまに大怪我をさせるかもしれない。
とても責任が持てないと今度こそイエルさまを呼ぼうとすると、マリアージェさまは泣き喚き……以下略。
結局ハンスがすることになった。
もう生きた心地がしなかった。
金槌を片手に、自分の人生もこれで終わりかと、ハンスは半ば覚悟した。
ぐっしょりと手に汗をかき、無事、マリアージェさまの舌を傷つけずに瓶が割れた時は、もう腰が抜けそうだった。
ヘロヘロになっているハンスには見向きもせず、「取れた、取れた」と大喜びしているマリアージェさまを見て、このクソガキ! とハンスが思ったとしても仕方がないだろう。
あの一件で、絶対に自分の寿命は縮んだとハンスは思っている。
無事に瓶を割ってやった命の恩人であると言うのに、それ以降もハンスに対するマリアージェの反抗は続いた。
「奥方らしく」と諭せば、つんとそっぽを向かれるし、「勉強なさって下さい」と言えば、「今日はそんな気分にならない」と言ってくる。
「イエルさまが恥をかくだけですから構いませんよ」と突っ放せば、ハンスがいなくなってから必死になって勉強をしていた。
ある時は、ロシェール商会のドレスが欲しいと言い出して、あそこのデザインはまだ早いだろうと思いながら店主を呼んでやれば、幼児体型が見事に強調されたドレスが出来上がり、ハンスは思いっきり吹き出した。(あの後十日間、口をきいてもらえなかった)
まあ、そんなこんなで、反抗期まっしぐらのマリアージェさまだったが、イエルさまに対しては相変わらず恋する乙女道を驀進していた。
ハンスにはあれ程反抗的なのに、イエルさまに対しては可愛いわがままを言うくらいだ。
でも、だからと言ってマリアージェさまの凄まじい反抗期についてハンスがイエルさまに伝えることはない。手がかかる子ほどかわいいと言うか、やっぱりハンスもマリアージェさまが可愛かったからである。
マリアージェさまを妻に迎えられて以来、イエルさまは一家の主としての自覚を強くされ、貴族としての風格や威厳を少しずつ身に持されるようになった。
そうなるとあのお顔も味が出て来ると言うか、顔が整っているだけの薄っぺらい貴族よりもよほど頼りがいがあると貴婦人たちに思われたようで、変なモテ期に突入された。
仲の良いご友人方からそれを聞いたマリアージェさまは、イエルさまが他に目移りされたらどうしよう……とハンスに言ってきたが、ハンスに言わせれば無用の心配である。
イエルさまはマリアージェさま一筋であり、社交の席でどんなボン、キュッ、ボンの女性に出会っても、一切の関心を持たれることなく、マリアージェさまだけを溺愛されていた。
そんな風に、兄妹以上恋人未満のほのぼのとした関係を続けて来られたお二人であるが、今回マリアージェさまの体が大人になられたことで大きな転機を迎えることとなってしまった。
イエルさまはマリアージェさまを一人の女性として完全に意識され始め、今まで想いを抑えてこられた分、身体に熱が溜まり、どうしようもなくなってしまわれたようだ。
ハンスはどうしたものかなあとため息をついた。
同じ男としてイエルさまのお気持ちはわからないでもないが、マリアージェさまは女性となる準備が整ったと言うだけで、本当の妻になるのは早すぎる。
これからはイエルさまにとって、ひたすら忍耐を強いられる生活が始まることだろう。
「匂いなんて別に感じませんよ。大体私がそんなの感じたら、変態みたいじゃないですか」
取り敢えずそう返せば、
「へ、変態?」
その言葉に、主は大いにショックを受けたようだ。
「変態なんかじゃない、ぞ。……多分」
そこはしっかり否定するところだろうと、ハンスは思った。
「最近、体つきが変わってきたような気もするけど、なるべくそのことは考えないようにしていたんだ。
だってマリアージェはまだ子どもだし、そういう目で見る訳にはいかないだろ」
「まあ、そうですかね」
「なのにさっきアンネが来て、マリアージェが大人になったって」
「おめでとうございます」
ハンスはきっちりと頭を下げた。
「めでたくない! い、いや、すごくめでたいんだけど、マリアージェはまだ十二だ!」
「……十二ですね」
「まだ手を出す訳に行かないだろ! まだあんなに幼いのに!
なのに、大人になったと知った途端、あんなことやこんなことやそんなことが一気に頭の中に押し寄せてきて、これじゃあ、まるで変態だ!」
「いいんじゃないですか? 一応、お二人はご夫婦なのですから」
「た、体格差というものがあるだろう?
どう考えても、入らな……いや、違う! そんなことは考えてない! 絶対に考えていないぞ! つ、つまりいろいろと無理だし……」
「ま、そうでしょうね」
十二の子供に手を出すのは、さすがにハンスもお勧めしない。
「なのに、いい匂いがするんだ。
一生懸命そのことを考えまいとしていたけど、もう無理だ。
もう一緒になんか眠れない……。そんな拷問のようなこと……」
「……寝室を別にするべきだと思いますよ」
冷静にハンスはそう提案した。
ここまで主が意識している以上、一緒に眠るのは無理だろう。
イエルさまは何としても我慢するだろうが、寝不足になるのは目に見えている。
「だよな。それしか道はない」
イエルは追い詰められた眼差しで虚空を見上げ、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
それから一刻と経たないうちに、ハンスは半泣きのマリアージェさまから突撃を受けることになった。
「今日からイエルさまがわたくしと一緒に寝て下さらないって!」
ぽろぽろと泣きながら叫ばれて、あー……とハンスは天を仰いだ。
マリアージェさまにとってはおそらく青天の霹靂なのだろう。何かもう、この世の終わりみたいな悲壮な顔つきになっている。
「やっと大人になってイエルさまの妻になれると思ったのに……。も、もう、一緒に寝るのは止そうって。
イエルさまと一緒に寝た方が、マリアージェ、良く眠れるのにぃっ!」
うーん、マリアージェさまは気持ちよく眠れるだろうが、イエルさまは悶々として一晩中眠れないだろう。
「わたくしに魅力が足りないのかな?
もう少し蠱惑的な格好とかした方がいいと思う?」
涙を拳で拭ったマリアージェさまに見当違いの質問をされ、ハンスは慌てて、「お止め下さい」とお止めした。
これ以上イエルさまの忍耐を試すようなことをしては、イエルさまがお気の毒である。
「今だってイエルさまはマリアージェさまに夢中ですよ。見ててわかるでしょう?」
「でも……」
マリアージェはしょんぼりと頷いた。
「今までのように気軽に抱きしめて下さらないの。お膝に乗っかろうとしたら、それもダメだって」
それ、私の忠告だ。
ハンスはそう思ったが、口にはしなかった。八つ当たりがこっちに来たら大変だからである。
実はあの後、ハンスはイエルさまに、うっかり暴走しかねない危険行為について事細かくお伝えしておいた。
口づけや抱擁をする時は、周囲から隔絶されたところではしないこと。
気持ちが盛り上がっても、なだれ込むようなところがない場所なら、まだ理性が働きやすい。
二人きりの部屋で膝の上に乗せでもしたら、マリアージェさまは当然甘えてイエルさまの首に抱きつくだろうし、そうなるとイエルさまにとってはもはや苦行である。
今まで我慢に我慢を重ねてきた分、何かの拍子に押し倒しかねない。
「それだけ、イエルさまがマリアージェさまを意識しておられるということですよ。
人目のないところでマリアージェさまに甘えられたら、鉄壁の理性を誇るイエルさまでも、何が起こるかわかりませんからね」
「何か起こればいいのに」
マリアージェは本気で頬を膨らませているが、その意味がアンタ本当にわかってる? とハンスは心の中で呟いた。
この体型では、大人の男性を迎え入れるのはかなりきついだろうし、そもそもどこまで男女の営みをわかっておられるのかも不明である。
イエルさまは本当にマリアージェさまが大事なのだ。
欲望のままにマリアージェさまの体に負担がかかるような行為をしたいとはイエルさまは微塵も望んでおられないし、何より万が一妊娠でもしたら、今のマリアージェさまのお体では出産に耐えられそうにない。
母君を産褥で亡くされているイエルさまにとって、それは二重の意味で耐え難いことだ。
「とにかく、マリアージェさまもこれでようやく大人となられたのです。大人の女性になられた以上、慎み深さは身に着けなければなりません」
そう説教すれば、反抗期真っただ中のマリアージェさまにふんとばかりにそっぽを向かれた。
じゃあ、泣きついてくるなと、心からそう言い返したいハンスであった。
さて、ハンスが必死にマリアージェさまの暴走を止めようとしたにもかかわらず(反抗期のマリアージェさまにはかえって逆効果であったのかもしれないが)、マリアージェさまは何とかイエルさまに振り向いてもらおうと、あの手この手でイエルさまの誘惑に励み始めた。
「どこまで耐えられるだろう」
そう呟くイエルさまが、非常にお気の毒である。
ハンスの目から見ても、マリアージェさまは日に日にお美しくなっていかれるようだった。
身体は丸みを帯びて、女性特有の艶が感じられるようになり、更に男性を惑わせる仕草や香りなどについてもいろいろと研鑽を積んでおられるようだ。
侍女たちまでがそれを後押ししているようで、気になったハンスはアンネに聞いてみた。
「何でわざわざイエルさまを煽るの?」
「幼い頃からのご結婚ですので、マリアージェさまはイエルさまに飽きられることをひどく恐れておいでなのです。
ですからイエルさまには是非とも、今以上にマリアージェさまに夢中になっていただかないと!」
「いや、もうそれ、ただの苦行だからね」
ハンスは疲れたように首を振った。
イエルさまの受難はまだまだ続きそうである。
思春期になったマリアージェとイエルの一コマを書いてみました。楽しんでいただけたら幸いです。
余談ですが、この度、マリアージェの兄夫妻を主人公にした『仮初め寵妃のプライド 皇宮に咲く花は未来を希う』が、4月10日にメゾン文庫さまより発売されることになり、WEB予約も始まりました。イラストはCielさまで、とてもとても素敵なイラストとなっています。こちらも一迅社のメゾン文庫のページでご覧いただけるようになっています。よろしくお願いいたします。