夫は事態の収拾に向かって動き出す
「では…、では一刻も早くセガーシュの縁組みを整えてやらないといけないわ。
とにかくセガーシュに身を落ち着けさせて、ほとぼりが冷めるのを待つしかないでしょう」
義母が焦ったようにそう言えば、父親が肩をいからせてイエルに詰め寄ってきた。
「お前はここまで知って、セガーシュを助けるために何の手も動かさないつもりか!
蜂蜜の取引先を一つ増やすだけの話ではないか。
…それともこの父と母に土下座して頼めとでも言うつもりか」
どす黒い怒りを浮かべて自分を睨んでくる父親に、イエルは我知らずため息をついた。
「そういう問題ではないんです。
もし今、私がコルド家の条件を飲んで、セガーシュが無事に結婚したとして、この先どういうことが起こると思いますか?」
「どういうこと…と言っても、別に何もないだろう。コルド家は貴族との繫がりを持てるんだ。それで十分な筈だ」
「セガーシュは貴族の間で養子先が見つからないほど評判を下げているのですよ。そんなセガーシュが婿入りした店と、わざわざ繋がりを持ちたがる貴族が出てくると思いますか?
いずれコルド家の当主は、貴族との取引が伸びないのは何故かと調べ始めるでしょう。
そうなればすぐにグクル家との確執に辿り着きます。
セガーシュがグクル卿に恥をかかせ、更には醜聞塗れになっているせいで商売もうまくいかない。そう気付いた時、当主は婿に何を命じると思いますか?
根源であるセガーシュに頭を下げてこいと言う筈です」
そしてイエルは静かにセガーシュに問いかけた。
「お前にそんなことができるのか?
今まで格下だと馬鹿にしてきた貴族に、その貴族よりも更に身分の低い商人となってひたすら頭を下げないといけないんだぞ。
もし、恥を忍んでお前が土下座をしたとしても、結果は変わらないだろう。
家庭を壊した上、浮気相手の女は今も惨めな状況に置かれているんだ。お前だけ幸せになるなど、グクル卿が許す筈がない。
貴族から爪弾きにされて商売は成り立たず、コルド家は王都で大損をすることになるだろう。
負債を抱え込んだ当主は、出来損ないの婿を掴まされたと散々に罵るだろうな」
ようやく状況が分かったセガーシュは血の気の引いた顔でイエルを見つめ、イエルは「だから手は貸せないと言ったんだ」と続けた。
「このまま婿入りしても持参金を取り上げられるだけで、お前は逃げ帰ってくるようになるだろうから」
領地収入の一年分をふいにした上、縁談も壊れ、下手をすれば賠償金まで要求される。その上醜聞は付きまとったままというのでは、プランツォ家はもう身動きが取れなくなる。
だからそれだけは回避させてやらなければとイエルは思ったのだ。
先ほどまでの威勢のよさはどこへやら、三人はすっかり打ちひしがれた様子で項垂れた。
「何とか手はないのか…」
消え入るような声で父親が呟くので、仕方なしにイエルは答えてやる。
「アンノルド家ならセガーシュの醜聞は気にしないと思いますよ」
何と言っても、貧乏すぎて社交の場にもほとんど出て来ないような家だ。グクル卿とて嫌がらせのしようがないだろう。
「持参金を全部家に取り上げられた上、家の維持費で一生貧乏暮らしだ。そんなところに婿入りしたくない…」
セガーシュが暗い顔でぽつんと呟いたが、イエルに言わせれば自業自得だ。
下働きに落ちたグクル卿前夫人に比べれば、まだ天と地ほどの違いがある。
「じゃあ、騎士団に入るのはどうだ。そうすれば自分の金は自分で使えるだろう」
セガーシュは何も答えずに唇を噛み、義母が縋りつくように自分の夫を見上げた。
「あなた、何とか手はないのですか」
父親は顔を歪めただけで何も答えなかった。
その姿をため息とともに見やり、イエルはふと、そろそろ時間だなと時計の方を見た。
取り敢えず、最悪の事態だけは防いでやったのだ。この先は三人が考えていけばいい。
「業者との時間が迫っていますので、私はこれで失礼します」
そのまま部屋を出ていこうとするイエルを「ま、待て」と父親が慌てて引き留めた。
「何とかしてくれ。
お前なら高位の貴族に伝手があるだろう?そ、そうだ、レイマス家が力になってくれたら…」
信じ難い言葉にイエルは一瞬、頭の中が真っ白になった。凪いでいた心に一気に怒りがせり上がってくる。
「…レイマス卿が貴方のことをどう思っているかご存知ないのですか?」
イエルは震えそうになる拳を必死で握り込んだ。
「最愛の娘が死んでふた月も経たぬうちに、娘が生きている頃からの愛人を貴方は平然と家に連れ込んだのですよ。
その上、娘の忘れ形見を可愛がるどころか、新しい妻と子どもたちとで寄ってたかってその子どもを苛め抜き、更には爵位すらも取り上げようとした。
そんな男に祖父が力を貸すとでも?
常識で考えれば、無理に決まっているでしょう!」
「でも…、でもセガーシュは貴方の弟なのよ!家族を助けてやる義理が貴方にはあるでしょう!」
もう後がないと分かっているのか、金切り声で言い募ってくる義母に、イエルはゆっくりと体を向けた。
「家族…?」
あれだけ自分を貶めておいてよくそのような言葉が出てくるものだと、イエルはその厚顔さに感心する。
「私にとって家族とは、私を慈しみ、大切にしてくれる存在のことですよ」
部屋の隅で声を押し殺して泣いていた幼い自分を思い出し、イエルはこみ上げてくる思いに胸を詰まらせた。
「…お気付きでなかったのであれば、今ここではっきりと申し上げておきます。
私は貴方がたのことを家族だと思ったことは一度もない」
冷ややかな言葉に、三人は息を呑んだ。
イエルは何の感慨もなく父親、セガーシュと視線を移し、最後に義母のところで目を留めた。
「貴女が子どもたちに教えたのですよ。
力ない者は好きなように馬鹿にして踏み躙ればいいと、他ならぬ貴女が背中で子どもたちに教えたんです。
そうして出来上がったのが今のセガーシュです。
グクル卿の苦しみを思いやろうともせず、格下のグリムトーレを馬鹿にして、その結果が今に跳ね返っている。
今の状況はそういうことです」
身に覚えがある義母は唇を噛みしめ、一言も言葉を返さなかった。
それ以上何か言う気にもなれず、イエルはそのまま踵を返す。
挑発さえされなければ、こんな女々しい恨みごとなど一生口にするつもりはなかったのにと、イエルは苦い笑みを口元に浮かべた。
過去には耐えがたいことも多かったが、それはすべて過ぎた話だ。
言葉にしてそれを詰るなど、自分もまだ人間ができていないということなのだろう。
思いを飲み下し、そのまま部屋を出ようとしたその時だった。
「…私が悪かった」
思いもかけぬ言葉がイエルの背中に掛けられた。
「レーデにも済まぬことをした。
レーデは何の悪意も知らぬ子で、優しく純真な女だった。
お前に対しても、本当に済まなかった」
イエルは立ち止まった。
父からの初めての謝罪に心が追い付かず、一拍遅れてイエルは後ろを振り返る。
部屋の中央で父親が頭を下げていた。
義母とセガーシュはそんな父親の姿を愕然とした目で見ていたが、イエルの視線に気づくと慌てて自分たちも頭を下げてきた。
ひどいことをしてきたという自覚が徐々に湧き上がってきたらしい。
イエルが困ったように立ち尽くす中、父親もまたそのまま頭を下げ続けた。
白髪の混じる父の頭をイエルはしばらく見つめ、やがて一つため息を落とした。
母ならば許すだろうか…とイエルは顔も見知らぬ母をぼんやりと思い起こす。
アンネたちの話を繋ぎ合わせれば、母は相当にお人好しな性格であったようだ。
だからもし生きていて夫がここまで頭を下げたのであれば、母ならばしようがないわね…と許してしまう気がした。
因みにイエル自身も、人を憎んだり、恨みを募らせたりするのがどうにも苦手な質だった。
済んだ事を思い出して憎悪を膨らませても何にもならないし、そんなことに時間を割くより、やりたいことに目を向けて日々を過ごす方が余程人生が楽しいと思えるからだ。
仕方がないなあとイエルは心に呟いた。
この三人は、この先どう行動をとればいいのか本当にわからないようだし、もう少しだけ話に付き合ってやってもいいだろう。
「…取り敢えず、悪評を鎮めることから始めてはどうですか。
今ならばまだ、過ちを清算することができると思いますし」
そう言葉を掛ければ、父親はようやく頭を上げてイエルの方を見た。
「過ちを清算…?」
「ええ。
グリムトーレ家に二年前の謝罪をし、当時要求された額を支払って差し上げて下さい。
そのお金があれば、グクル卿前夫人は実家に帰る事ができるでしょう。
そちらの件が片付けば、妹たちに対する風当たりも少しは軽くなると思いますよ」
「…それでグクル卿も許してくれると思うか?」
「いえ。グクル卿へは別個に謝罪が必要です。
こちらの方が根が深いでしょう。グクル卿には一切の過失がないのに、とんでもない恥をかかされているのですから」
イエルは言葉を切り、どうすればいいかと考えを巡らせた。
手を貸すつもりは毛頭なかったのだが、この件ばかりは父の力ではもうどうしようもない。
「もし謝罪する気があるのなら、謝罪の場だけは私が設けましょう。
気は進みませんが、お祖父さまに頼んでみます。レイマス家から話を持ち掛ければ、さすがのグクル卿も断ることはできない筈ですから」
父親は僅かに逡巡し、それから考えを定めたように頷いた。
末娘から、あの醜聞が出てから夫や夫の親族の目が冷たく、離縁という言葉も出始めたと泣き言を言われていた。
残り二人はそこまでひどくはないようだが、婚家でかなり居心地の悪い思いをしているようだ。
「お力をお借りしたい。
レイマス卿にはそうお伝えてしてくれ」
「わかりました」とイエルは頷いた。
「ただし、場を設けるだけなので、謝罪に向かうのは本人です。賠償についても話し合わないといけませんから、父上や義母上も同席された方がいいでしょう。
家庭を壊したことを心から悔いて頭を下げれば、向こうは目に見える形の賠償を求めてくると思います。
その要求に従うかどうかは貴方がたで判断して下さい。
…もし高額な賠償金を請求されたとしても、私は一切、金銭面で貴方がたに手を貸すことはありません。
これはセガーシュの問題で、そういう風にセガーシュを育てた貴方がたの責任です。
手持ちの金がないならば、館にある調度類や宝玉を売り払ってでも自分たちでお金を工面して下さい。それがけじめであると私は思います」
「…わかった」
「グクル卿との和解が成立すれば、これ以上悪評が広がることはないでしょう。噂も収束していくと思います」
「セガーシュの持参金どころか、有り金全部がこの家から消えるようになるだろうな」
父親はどこか虚ろな声で呟き、ややあってイエルに尋ねてきた。
「噂がおさまれば、セガーシュにいい縁組が舞い込んでくるようになるだろうか」
「父上ならどう思います?
例えばゾフィアが跡取り娘であったとして、ここまで醜聞塗れだった男性を婿に迎え入れますか?」
父親は何とも言えない顔で押し黙り、イエルは「貴族との縁組は諦めた方がいいと思います」ときっぱりと告げた。
貴族は名を惜しむから、この先セガーシュに声がかかる可能性はほとんどないだろう。
「そうなれば、相手はやはり商家ですかね。
貴族の血筋欲しさに縁組を申し込んでくる商家は時々いますから」
だが、そういった商家は皆、しっかりとした大店だ。
きちんと商家を仕切る使用人頭がいて、盤石な経営基盤を持っているからこそ、ただ箔をつけるためだけに貴族の血筋を家に入れることができる。
「けれどそのような家の場合、向こうが貴族を選びます。
裕福な商家の婿の座を狙う貴族の次男三男は大勢いますから、その中から持参金が多く、聞き集めた噂で評判のいい者を、店主が選んでいくようになるでしょう。
公都の商人はすでに今回の騒動を聞き知っていますから、数年後に持参金が何とか用意できたとしても、セガーシュにいい縁を見つけるのは難しい気もします」
セガーシュの頭が一段と項垂れた。
「貴族と早急に縁を結びたがっていて、かつ持参金なしでもセガーシュを婿に迎えたいという奇特な商家が、都合よくそこらに転がっていればいいのですが……」
吐息混じりにそう呟いて、イエルはふと言葉を止めた。
一人だけ何とかなりそうな商家を思いついたからだ。
普通に考えればあり得ない縁組だが、先方が求めているものをこちらがきちんと用意することができれば、もしかすると何とかなるのかもしれない。
勿論、そのためには様々な譲歩が必要になってくるだろうが。
急に考え込み始めたイエルに、父親が訝し気な視線を向ける。
「何か案があるのか?」
「……グリムトーレ家とグクル家にきちんと謝罪して和解ができたらの話ですが、持参金なしでセガーシュと縁を繋いでもらえないかコルド家と交渉してみましょうか」
「コルド家と?」
父親が太い眉宇を寄せた。
「もし和解できたとしても、この醜聞はいずれ伝わるだろう。
今のセガーシュでは商売に必要な縁は繋げないし、その上、持参金も持たぬのでは向こうが受け入れるとは思えないが」
「他の貴族がまだ目をつけていないので一番に交渉できるという点と、すでにコルド家が公都に土地を購入して、早急に貴族との繫がりを持ちたがっているという二点がこちらの強みですね。
うまくいくかどうかは私にもわかりません。
ただ、交渉の余地はあります」
「そうか…」
父親は、半分諦めの滲む顔で頷いた。
「取り敢えずこちらはグリムトーレ家とグクル卿の件を何とかしよう。
グリムトーレ家はともかく、グクル卿との話し合いは難航するだろう。
やれるだけやってみるさ」
一気に老け込んだような父親に小さく頷き、イエルは次にやや厳しい面をセガーシュに向けた。
「私も力は尽くすが、醜聞まみれの上に持参金も用意できないお前をコルドが引き取ってくれる可能性は限りなく低い。
今回の話が潰れたらお前はどこかの騎士団に所属した方がいいだろう。
日々真面目に暮らしていれば、いずれ名前も回復し、いい縁が来るようになるかもしれない」
セガーシュはすっかり打ちのめされた様子で、暗い顔で小さく頷いた。
何と言ってもこれから両家への謝罪が待っているのだ。
散々に詰られ、罵られるのがわかっている場所に赴くのは恐ろしいし、それを済ませたからといって思うような未来はもう自分に残されていない。
魂が抜けたように床の辺りを見つめているセガーシュと義母を一瞥し、イエルは父親へと顔を向けた。
「では私はこれで。
グクル卿との面談の日時と場所が決まれば、ご連絡いたします」
部屋の外に出ると、イエルは我知らず大きく天を仰いだ。
関わるつもりはなかったのに、どうしてこんなことになったかなとイエルはふと自分に問いかける。
お祖父さまは嫌がるだろうし、伯父たちもいい顔はしないだろう。
まあ、いずれ代替わりすればイエルが悪評を受け継ぐことになりかねないから、最終的に力は貸してもらえると思うのだが。
それよりもコルドとの交渉だ…とイエルは心の中で呟いた。
セガーシュの素行を知れば、当然コルドはこの縁に難色を示すだろう。
その上、婚姻に必要な持参金すらセガーシュは用意できないのだ。
セガーシュというお荷物を渡されても縁を繋ぎたいとコルドが思うようなものをイエルは提示していかなければならず、相応の譲歩だけでなく、かなりの駆け引きも必要となる。
したたかなサリューの商人を相手に自分はどこまで交渉を進めていけるだろうか。
そう思った時、わくわくしてきた自分に気が付いてイエルは思わず自分に苦笑した。