夫は父親に立ち向かう
相変わらず噂は収束する気配を見せず、そんなある日、イエルは突然父の書斎に呼び出された。
同じ敷地内に住んでいるとはいえ、父と顔を合わせるのは久しぶりのことだった。
部屋に入れば、父の隣には義母がおり、さらにその横にはどこか不貞腐れた表情のセガーシュが座っている。
よほど癪に障るのか、イエルとは目を合わせようとしなかった。
「何の御用でしょうか」
そう尋ねれば、父が尊大に顎をしゃくった。
「まあ、座れ」
言われるままに腰を下ろすと、父は徐に口を開いた。
「セガーシュの結婚が決まった。
相手は、サリュー州で茶葉の商売を手広く行っているコルドという商家だ」
「おめでとうございます」
実のところ、祝えるような状況ではないと思っていたが、一応儀礼的にイエルはそう答えた。
「今度、公都に店を開こうとしている商家ですね。
茶葉の産地にもこだわり、丁寧な商売をしている家だと聞いたことがあります」
「セガーシュを婿にくれてやるのだ。相応の商家でなければ私も困る。
聞けば、サリューでは十本の指に入る大きな商家らしいぞ」
一通りイエルに自慢しておかなければ気が済まぬものらしい。
「私からもちょうどお知らせが。
公都に邸宅を購入しました。数日のうちにはこちらを出ようと思っております」
「邸宅だと?」
父親は一瞬驚いたように瞠目した。
が、イエルやマリアージェの顔をこの先見ずに過ごせるなら、ちょうどいいと思ったのだろう。
「好きにするがいい」
二つ返事でそう了承し、イエルは「ではそのように」と言葉を返した。
引っ越しに横やりを入れられないのならそれで十分だ。
「それで一体、私に何の用でしょうか。
蜂蜜販売の関係で業者と打ち合わせが入っていて、少ししたら出かける予定なのですが」
時間があまりないことを暗に伝えると、父親は渡りに船とばかりにイエルの話に乗ってきた。
「その蜂蜜の件で、お前に頼んでおきたいことがあるんだ」
「頼み?」
「ああ。今回の縁組に関して、コルド家から一つ条件が出た。
上質な茶葉に蜂蜜を組み合わせて商売を広げていきたいそうだ。
ついてはお前が販売している蜂蜜を、コルド家に優先的に卸して欲しいと言っている。
弟の縁組のためだ。お前に異論はないな」
イエルは父親を真っ直ぐに見つめた。
イエルの領地で扱っている蜂蜜は質が良く、値が高いにもかかわらず方々から取引の話が持ち上がっている。
だから今は、取引先を選別させてもらっている状態だ。
少しずつ事業を広げているため、新しい商家を参入させることは勿論可能だが、これに対する返事についてはイエルはすでに考えていた。
「申し訳ありませんが、そのお話は受けかねます」
「何だと!」
断られるとは夢にも思っていなかったプランツォ卿は、怒りも露わに立ち上がった。
「弟の将来がかかっているのだぞ!
愚図で考えなしとは思っていたが、ここまで頭が悪いのか!
コルドはお前の蜂蜜が欲しいと言っているのだ!弟のためにそれくらいはできるだろう!」
「…私のことを愚図で考えなしだと思っておられるなら、そのような人間のために手を貸すつもりは金輪際ありません。
貴方が決めた縁談だ。
息子のために力を尽くすのは父親の役割でしょう」
イエルは真っ向から父親を睨みつけた。
以前は言われる言葉にただ傷付いて、言い返すなど考えたこともなかった。
けれど今はそれではいけないと分かっている。イエルには、誰よりも守ってやりたいと思う大切な存在ができたからだ。
マリアージェはイエルが一生をかけて守ってやらなければならない子だった。そのためにイエルは強くならなければならない。
父や義母がイエルを侮辱するならば、自分はきちんと戦わなければならないのだ。
「息子のくせに私に逆らう気か!」
顔を真っ赤にした父親は、激情のままにイエルの襟首を掴み上げたが、振り上げられた拳を見てもイエルは怯まなかった。
「もし私に手を出せば、今後一切セガーシュのために私が動くことはないっ!」
思わぬ言葉に父親は拳を振りかぶったまま凍り付いた。
夫の面子を取り繕おうとするように義母が慌てて場に割り込んでくる。
「あなた止めて!
まずはイエルの話を聞きましょう」
父親は憎々しげにイエルを睨みつけていたが、イエルの視線に一切の揺らぎがないことを見て取ると、大きく息をついてどかりと椅子に座った。
「わかった。お前の話を聞こう」
イエルは乱れた襟元をゆっくりと直し、己も椅子に座り直した。
そして視線を真っ直ぐに父に向けた。
「そもそもコルド家が何故セガーシュとの婚姻を望んだのか父上はご存知ですか?」
「何故だと?
決まっているではないか。貴族の血を家に入れるためだ。
それくらいのことも分からんのか」
居丈高にそう吐き捨てる父親に、イエルはうんざりと首を振った。
「コルド家が我が家との縁組みを望んだのは、公都に販路を作りたいからです。
コルド家は、公都から遠く離れたサリュー州で商売に成功し、今度は公都で商売を始めようとしています。
そのために貴族の人脈が必要なのです」
「…私がさっき言ったことと同じだろうが」
「違います。
コルド家は別に貴族の血が欲しい訳じゃない。貴族との人脈を持っている人間であれば、別に相手が貴族でなくてもいいんです。
……ところで、コルド家にセガーシュを推薦したのは義母上の親族と聞きましたが」
「その通りですよ」
義母はイエルを見下すように顎を上げ、不快そうに言い捨てた。
その姿を改めて眺め、この義母はいつもそうだったなとイエルはふとそう思った。
できの悪い人間を見るような目で子どものイエルを見下ろして、その姿を幼い弟妹たちに見せた。
だから弟妹はことあるごとにイエルをからかい、馬鹿にして、家族全員から出来損ないの烙印を押されたイエルは極力彼らを避けるようになってしまった。
子どもの頃は、言葉や態度で自分を傷つけてくるこの義母が怖かったなとイエルは思う。
けれどいつの間にか自分はその背丈を軽く超え、立場的にも経済的にも義母を大きく上回っていた。
そんな当たり前のことにすら、つい最近まで気付けずにいたのだけれど。
「セガーシュが養子先を探していると聞いて、わたくしの従兄弟がすぐに動いてくれたのよ。
申し分ない裕福な商家を見つけてくれたわ」
「その親族の方は公都の貴族に伝手を持っておられない立場の方ですね」
冷静にそう確認すると、義母はかっと頬を紅潮させた。
「何て無礼な…ッ!
わたくしの親族を馬鹿にするつもりッ!」
「そうではありません、義母上。ただ、事実を確かめただけです。
公都で社交の場に顔を出されている方ならセガーシュの醜聞は当然耳にしている筈ですし、知っていればこのような縁組みを仲介することはないと思いましたので」
「私の醜聞?」
退屈そうに窓の辺りを見ていたセガーシュは、驚いたように壁から背を離した。
訝しげに眉宇を寄せ、次の瞬間、何やら思い付いたようにイエルの方をきっと睨み付けてくる。
「兄上はまさか私の悪口を社交場で触れ回っているのか!」
イエルは危うく噴き出すところだった。
「お前たちじゃあるまいし、私はそんな暇なことはしていないぞ」
思わず本音が駄々洩れになってしまったが、今まで散々されてきたことを思えば、このくらいは構わないだろう。
「今回のことはすべてお前の身から出た錆だ。
父上や義母上なら、当然この醜聞を耳にされている筈だ。そうではありませんか?」
イエルがそう水を向けると、二人はやや狼狽えたように目を泳がせた。
やはり知っていたんだなとイエルは心に呟いた。
ここまでの噂になっているのだ。当て擦ってくる輩がいない筈がない。
…さすがに当人に直接教えてやるような人間はいなかったようだが。
「おいっ!私の醜聞とは何のことだ!」
一人蚊帳の外に置かれたセガーシュが喚き始め、親二人が黙っているため、仕方なくイエルが答えてやった。
「グクル卿夫人との火遊びだ」
「はあ?」
セガーシュは馬鹿にしたように片眉を跳ね上げた。
「もう二年も前に済んだ話だろ?」
「…セガーシュ。終わった話だと思っているのはお前だけだ。
グクル卿にとってもグリムトーレ家にとっても、その話はまだ終わっていない」
イエルはやや厳しい声でそう答えた後、父と義母に向き直った。
「当時、グリムトーレ家の当主夫妻が我が家に来られたそうですね。セガーシュがグクル卿夫人と関係を持ったことで離縁が決まったと。
円満に離縁させるために金が必要だと、その時そう言われませんでしたか?」
「言われたとも」
思い出しただけでも腹立たしいのか、吐き捨てるように父親が言った。
「格下の貴族のくせに、あのグリムトーレは仲介者も立てずにいきなりうちに押し掛けてきたんだ。
その上、挨拶もそこそこにいきなり金の無心だ。
無礼にも程がある!」
「それで追い返したのですか?」
信じられないといった口調のイエルに、父親はムッとした。
「当たり前だろう!あれでは礼儀も何もあったものじゃない!
あんな親から生まれた娘だ。どうせ身持ちも悪かったんだろう。セガーシュとだけではなく、おそらく他にも男がいたんじゃないか」
「…父上。お言葉ですが、あの一件については私も調べてみました。けれどそのような事実はなかったとはっきり申し上げておきます」
父親がそっぽを向いたままなので、イエルは仕方なくセガーシュの方を向いた。
「さっきから黙っているが、お前はどう思っているんだ」
「どう…とは?」
「グクル卿前夫人はお前との情事を見咎められて、ご夫君に離縁を突きつけられたんだ。
それについて自分には責任がないと、お前は本気で思っているのか?」
痛いところを突かれてセガーシュは逆ギレした。
「さっきから何様のつもりだよ!グクルだのグリムトーレだの、私の過去を当てこすってそんなに楽しいか!
あの尻軽が最初に俺を誘ってきたんだぞ!
そのせいで自分が離縁されそうだからと言って、何でうちの財産をあの女の実家に持って行ってやらなければならないんだ!」
傍から義母が加勢するように言葉を挟んできた。
「そうですよ。夫がいるくせに男を誘うなど、悪いのはあの女ではありませんか。
セガーシュは惑わされたんです。むしろ被害者なのですよ」
好き放題言ってくる義母に、イエルは思わずぼそりと呟いた。
「妻がいる男と関係を持っていた貴女がそれを言いますかね」
「な……っ!」
イエルとしてはこの義母に言いたいことは山ほどあったが、まともに相手をしても時間の無駄だということもわかっていた。
だから気持ちを切り替えて、まずはセガーシュの件を片付けていくことにする。
「どっちが誘ったかはともかくとして…」
そう言いかけて、今の発言はどっちとも受け取れることに気が付いて、イエルは一応、義母に断った。
「失礼。今のはセガーシュの話です」
義母が鬼のような形相で睨んできたが、気にせずにイエルはセガーシュの方に顔を向けた。
「そもそもこれはお前の不始末だ。
お前は何故、二年前の話を私がこうまで詳しいか不思議に思わないのか?
こういう話に疎い私の耳に入るほど、今、社交場ではお前のことが話題になっているということだ」
「え?」
セガーシュはたじろいだ。
「もう二年も前の話だろ。なんだって今更…」
「二年前、自分がやったことの尻拭いをきちんとしなかったからだ。
…尤も、それを知りながら金を惜しんで放置した親にも同じくらいの責任があると思うが」
当てこすられた父親は、かっとなって言い返した。
「お前はグリムトーレが要求してきた金の額を知らないからそんなことが平気で言えるんだ。
うちの領地収入の凡そ一年分を言ってきたんだぞ!」
「アリラやリジア、ゾフィアには、それ以上の額を出してやったでしょうに」
「当たり前だ。我が子の持参金を惜しむ親がどこにいる!」
「…貴方にとってアリラたちが大事なように、グリムトーレ卿にとっては二人の娘が大事だったんです。
ようやく決まった下の娘の縁組みが壊れぬよう、一年間離縁を待ってやって欲しいとグクル卿の前に土下座して、代わりに賠償として示されたのがあの金額です。
本当に支払えないグリムトーレ家と違って、我が家なら払うことが可能だったでしょう」
「ちょうど我が家はゾフィアの結婚が決まった頃だったんだ。私たちはあの子の持参金を用意するだけで精いっぱいだ。
よその家にまで払うような余裕はない!」
「確かに負担な額ですが、用立てるのは可能でした。
セガーシュに無駄な遊びを辞めさせ、放蕩をこれ以上許さぬよう騎士団にでも入れれば良かった。
新しいドレスを作るのを控えたり、日頃の生活を節制したり、僅かな努力で金は捻出できた筈だ。
なのに、貴方がたはグリムトーレ家に侮蔑的な言葉を吐いて家から追い返した。
恥をかかせたグクル卿のことも、格下だからといって放置した。
グリムトーレ家に金を用立ててやり、人を介してグクル卿に何らかの詫びを示しておけば、ここまで話はこじれなかったのです。
我が家が無関係を装ったせいで、グリムトーレ家はお金が支払えず、グクル前夫人は今、下働きの身に落ちているのですよ」
「まさか!貴族のくせに娘にそんなことをさせたのか」
他人事のようにグリムトーレ家を詰る父親に、イエルはついに怒りを爆発させた。
「こちらにまで無心に来るくらいグリムトーレ家が追い詰められていたことが、貴方にはまだおわかりにならないのか!」
イエルは高ぶった感情を落ち着けるように大きく息を吐き、今度はセガーシュに目をやった。
「セガーシュ。お前のせいでグクル卿前夫人は一生下働きだ。
グリムトーレ家や本人がいくら頑張っても、到底返せるような額じゃないからだ。
同じ罪を犯したのに、これでは余りに不公平だと思わないか」
自分の過ちを認めたくないセガーシュは、不愉快そうにふんとそっぽを向いた。
「セガーシュ。お前の優れているところは何だ。剣技や馬術に優れているところか?
なら、騎士団に入って、何故実績を上げない。
プランツォ家を継ぐと周囲には言っていたらしいが、領地に足を運んで領民の声を聞いたことがお前にはあるのか?
私は立場が不安定であったからプランツォ家の領地経営には一切関わらなかったが、所有するツープに関してはきちんと結果を出している。
土地の広さ自体はプランツォ家の所領の十分の一以下だが、すでに同額かそれ以上の収入を弾き出しているんだ」
「え」
父親が間抜けな声をあげた。
「お前はただ、プランツォ家の金を食い潰して遊んでいただけだ。
そればかりでなく、関わりを持った女性が自分のせいで不幸になっても助けてやろうともせず、更に女遊びを重ねていた。
だからお前に縁組みが来なかったんだ。ここまで悪評が広まったら、縁を繋ぎたいという相手が出てくる筈がないだろう?」
「じゃあ、何で教えてくれなかったんだよ!そこまで知っていたなら、兄として教えてくれるのが当然だろ!」
一方的に責められたセガーシュは反対に突っかかってきて、この期に及んで責任転嫁かとイエルは呆れ果てた。
「知ったのはつい一月前だ。ここまでひどいことになっているなんて、私だって思いもしなかった」
悔しそうにイエルを睨みつけるセガーシュを庇うように、義母が口を挟んだ。
「まるで他人事のように言わないで!
プランツォ家の名前が落ちて、困るのは貴方も一緒でしょう!」
だから何とかしろとでも言うのだろうか。
イエルはうんざりとした目で義母を見た。
「今回のグクル卿がらみの件とは別にもう一つの噂が出回っていることを、貴女はご存じないのですか?」
「もう一つの噂?」
「ええ。
嫁いだ妹たちを含めた貴方たち六名が先妻の息子である私を虐げ、爵位までも取り上げようとしていたという噂です。
実際に貴方がたが私の悪口を触れ回っていたところを多くの貴族たちが目撃しているんです。
嫁いだ妹たちも陰で私を嘲笑っていたようですから、余計信じる者も多かったようですね」
「それがセガーシュの件と何の関わりがあると言うの!」
「ですからセガーシュが何をしでかしたとしても、私には関係のない話だと思われているんです。
弟がまた何かやらかしたようだねと、同情の声もいただいておりますし。
却ってプランツォ家から嫁いだ妹たちの方が肩身の狭い思いをしているのではありませんか」
他人事のようにそう答えると、心当たりがあるのか、父親と義母はみるみる顔を青ざめさせた。