マリアージェ大人になる
少し話は遡りますが、マリアージェの体が大人になった頃のイエルのお話です。
「何か、いい匂いがするんだよな」
書斎に一人籠り、小難しい書類にひたすらサインをしていたイエルは、紙に走らせていたペンをふと止めて、はあぁっと大きなため息をついた。
「昔は腕の中にすっぽりと収まるほど小さくて、ただ可愛いだけだったのに、何だってこんな事に……」
八つのマリアージェが嫁いで来て以来、イエルは毎晩一緒のベッドで寝起きしてきた。
母親と無理やり引き離されたマリアージェは精神的に不安定であったし、唯一の家族となったイエルが彼女に寄り添って眠ってやる事は、二人にとってごく自然な流れであったのだ。
十歳を過ぎた頃に、この年で添い寝というのはおかしいのではないかとようやく気付き、「そろそろ一人で寝てみる?」と尋ねてみたのだが、マリアージェがそれを強く嫌がった。
「イエル様はマリアージェの事がお嫌いになったの?」
涙目で問われたら、イエルだってそれ以上強くは言えない。
なし崩しに添い寝の延長が決まった。
が、小さなマリアージェは日々成長していき、手足もすらりと伸びてきて、初々しい色香のようなものを纏うようになってしまった。
イエルとしては、可愛くて堪らないマリアージェを邪な目では見たくはない。
けれど、日ごとにマリアージェの体は丸みを帯びてきて、イエルはだんだんと自分の気持ちをごまかす事が難しくなってきた。
どうする自分!
ここ最近、何度も自分に投げかけてきた問いをイエルは心に呟いた。
本音を言えば、切実に寝所を分けたい。
けれどそれをそのまま伝えれば、マリアージェは泣くだろう。
やはりここは、自分が忍の一文字で耐え抜くべきなのだろうか。
などという考え事に浸っていたら、いきなりものすごい勢いで扉をバーンと開けられ、イエルは思わず「うおおおお?」と体を跳ね上げさせた。
「な、何事?」
慌てて扉の方を振り返れば、鼻息を荒くした家政婦長のアンネが戸口のところで仁王立ちをしており、何やら手を揉み絞っている。
そうしてずんずんと無言で近付いてきたため、イエルは椅子の背もたれに限界まで張り付いてしまった。
扉を開ける前はまずノックをしてくれと一言注意をしたかったが、とてもそんな事が言える雰囲気ではない。
「えっと、一体何が……」
「マリアージェ様がついに大人になられました!」
感極まったアンネから高らかに宣言され、イエルは思わず持っていたペンをぽろりと手から落とした。
「へ? ……あっ、ああああああ……!」
大事な書類にインクの染みが広がっていき、そこらにあった紙で慌ててインクを拭い取るイエルである。
「お、大人になった、とな」
動揺し過ぎて思わず変な言葉遣いになってしまった。
「はい。このアンネが確かめました。マリアージェ様は確かに大人になっておいでです」
目元を拭うアンネの姿にイエルもちょっと、うるっときた。
あの小さかったマリアージェがついに……。
イエルは感動に浸りかけたが、それをぶち壊すようにアンネから爆弾発言を落とされた。
「これでようやく、このアンネもイエル様のお子を胸に抱けます」
「早いっ! それって早すぎるから」
イエルは思わず突っ込んだ。
「ま、まだ先の話だ。いや、それよりマリアージェの様子はどうなんだ?」
「非常に喜んでおられますとも!
これでイエル様のお子が産めると大層盛り上がっておられまして……」
「そっちもか!」
イエルは女性達の過熱を何とか鎮めなければと焦りまくった。
「それ、絶対無理だからね。
アンネ、聞いてる? マリアージェの体には無理だって、誰か訂正してあげて?」
ようやく体が大人になったばかりの十二歳。
現実を見てくれとイエルは声を大にして言いたかった。
「それでも、マリアージェ様が一つ大人の階段を上られた事は事実です」
「それはそうなんだけど。でもね……」
「ああ、本当に何てめでたい事でしょう!」
興奮しているアンネは、イエルの言葉など聞いちゃいなかった。
ここがイエルの書斎であるという事も完全に忘れ、すっかり自分自身の世界に浸りきっている。
「今日はお祝いの料理を作らせなければ!
皆もさぞ喜びますでしょう。
あの小さなマリアージェ様が大人になられたなど……、ああ、本当に夢のようです。
アンネはもう嬉しくて嬉しくて嬉しくて堪りません……!」
「いや、私もすごく嬉しいけど。だけどね、アンネ……」
「こうしてはいられません!」
アンネはいきなり現実に立ち戻り、きっとイエルの顔を見た。
「厨房の者にこの事を伝えて参ります。
ではイエル様。私はこれで失礼致します」
アンネはばたばたと去って行き、執務室には間抜け面をしたイエルだけがぽつんと一人残された。
「マリアージェが大人……」
そう口の中で呟くうちに、イエルの顔がだんだんと赤くなっていった。
邪な妄想が脳内を駆け巡り、抑えようとしても止まらない。
「いや、待て。落ち着け、落ち着くんだ、私。マリアージェはまだ十二歳だ!」
手を大きく払った拍子に書机の上の書類がばらばらと落ちていき、拾おうと頭を屈めたイエルは、体を戻す時に机の角で思いっきり頭をぶつけて痛みに悶絶した。