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夫は弟の醜聞を知る 

 やがてマリアージェは九つになり、イエルは初めて自分の所領に妻としてマリアージェを連れて行った。

 今や領地収入の九割がたを占める広い養蜂場を見せてやると、マリアージェは目を丸くしてその風景を眺めていた。


 領地のツープでのんびりと一日を過ごした帰り際、マリアージェは面白いことを自分に言ってきた。

 故国の下働きの女たちは、蜜を絞った後の蜂の巣の残りかすで塗り薬を作り、手の荒れる冬場にはそれを塗っていたというのだ。


 あの搾り滓が…?とイエルは驚いた。

 今までそんなことを考えたこともなく、養蜂に関わってきた領民たちでさえおそらくは知らない筈だ。


 検証していく価値は十分にあるとイエルは思った。ハンスに伝えれば、おそらく二つ返事でこの話に乗ってくるだろう。




 翌日、ハンスと二人で大量の文献を調べてみると、マリアージェが巣蝋と呼んでいたそれは蜜蝋という名で書物に記されていて、古くは食料としても使われていたらしい。

 要は搾りかすを水に入れて火にかければ、蜜蝋が溶け出して表面に浮かんでくるので、そこを採取すればいいようだ。

 床材の艶出しや封蝋としても使われていたこともあるらしく、肌の保湿にも良いと一文のみ書かれてあった。

 マリアージェが言っていたのは、このことだろう。


 まずは蜜蝋を作らせてみたが、それだけではまるで蝋そのものだった。

 塗り薬として使うのであればもう少し柔らかさが必要だし、美容品として売り出したいなら女性が好むような香りも欲しいところだ。


 ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返して忙しく日々を送っていると、ある日友人のラングがふらっとイエルの許を訪れた。

 最近、蜜蝋の精製にのめり込んで社交を疎かにしていたので、その苦情かも知れない。


 案の定、少しは夜会にも顔を出せと会うなりラングに文句を言われ、イエルは返す言葉もない。

 最近の社交界では何か目新しい話でもあるのかと挨拶代わりに聞いてみると、やはり知らなかったかとラングは破顔した。


「お前の親たちは何か言っていないのか?」

 聞かれてイエルは、「さあな」と肩を竦める。


「最近は、あの人たちとは会っていないんだ。

 マイソール家の令嬢にセガーシュがこっぴどく振られてからは、夕食にももう顔を出さなくていいと言われたし」


 セガーシュの婚活に暗雲が立ち込めてきたため、父や義母たちはイエルたちと顔を合わせることがだんだん苦痛になってきたようだ。

 

 イエルにとっては願ったり叶ったりで、それを聞いたラングもまた、良かったじゃないかとイエルの肩を叩いてきた。 

「お前もやっと苦行の団欒から解放されたな」


 イエルの友人たちは、イエルの家庭事情をよく知っていた。

 騎士学校で寝食を共にするうちに気の置けない関係となり、イエルは洗いざらいを友人たちに話していたからだ。

 友人たちはイエルの置かれた状況に憤慨し、イエルのためにひどく怒っていた。


 父や義母らがイエルが出来損ないだという噂を社交界でばらまき始めた時も、この友人らは一生懸命それを阻止しようとしていた。

 イエル自身がもっさりとしたタイプだったので、口下手な彼らが噂を覆そうと頑張っても思うようにことは進まなかったようだが。


「それよりも何か面白い話でもあるのか?」

 先ほどの話に戻してそう聞くと、ラングは意味ありげににやっと笑顔を向けてきた。

「お前ってさ。グクル卿のこと、どれだけ知ってる?」


 グクル卿ねえ…とイエルはちょっと考え込んだ。

 

「領地の山に鉱脈が見つかって、ここのところ一気に羽振りが良くなった北方の貴族だろ?

 そこそこ裕福な貴族だったみたいだけど、鉱脈を引き当ててからは王都に大きい館も建てて、急速に人脈も作っていると聞いたことがある。


 そのグクル卿がどうかしたのか?」


「グクル卿ってさ、三年前に若い妻を迎えたんだよ。確か十四年の離れた…」

「ふうん」

 自分たちと同じ年の差だな…とイエルはぼんやりと考えた。


「相手は貧乏貴族の娘で、グクル卿が一目ぼれするくらいきれいな令嬢だったんだってさ。


 その下には一つ下の妹もいて、二人分の持参金を捻出するような財力がない両親はどうしたらいいか悩んでいて、それを知ったグクル卿は持参金なしでその娘を妻に迎え入れてやったんだ。

 結婚後も欲しがるものはすべて買ってやって、とにかく溺愛してたらしいよ」


「うん。そりゃあ、よっぽど可愛かったんだろう」

 気持ちが良く理解できたイエルは、マリアージェの愛らしさを思い浮かべながら、うんうんと頷いた。

 

「その女をセガーシュが寝取った」

 イエルは一瞬、頭が真っ白になった。


「まさか……!」


 一瞬自分に置き換えて思わず気が遠くなりかけたイエルだが、別の家庭の話だ、落ち着け! と必死に自分に言い聞かせて踏みとどまる。

 心を落ち着けるように二度、三度大きく深呼吸をし、ようやく平常心を取り戻したイエルは、ある事実を思い出して反論してみた。


「ちょっと待て。あいつは今、セトール通りに住んでいる未亡人とよろしくやってる筈だぞ」

「うん、今じゃない。二年以上前の話だ」

「…………」


「グクル卿は商談でよく公都を訪れていたらしいんだけど、そのうち妻の様子がおかしいと気付き始めたんだって。

 で、ある日先触れをせずに公都の別邸に踏み込んだら、妻が若い男と…その、何と言うか最中だった。


 グクル卿は怒り狂って、即座に妻に離縁を突き付けた。

 けど、そのタイミングが悪かったんだ。


 妻の実家のグリムトーレ家はその前の月にようやく下の妹の縁組が決まったところで、そんな時に姉が若い男と浮気をした挙句に出戻ってきたなんてわかったら、貴族の縁談なんてすぐに潰れるだろ?


 だから両親はグクル卿に土下座して、一年だけ離縁を待ってくれと頼み込んだ。

 その代わり、当時払えなかった相場の持参金を、賠償代わりにグクル卿に支払うって約束したらしい。誓約書もきちんと交わしたんだと」


「ええと、グクル卿、律義に離婚を待ってやったの?」


「うん。よく許してやったよね。私もそれはすごいと思う。

 でも一年後、グリムトーレ家はその金を払わなかった。

 というか、支払えなかったんだ。


 騙されたと思ったグクル卿は腹を立てた。

 一番手っ取り早いのは、元妻を娼館にでも売って金を稼がせることだったけど、グクル卿はそこまでしたくなかったみたいだ。

 だから借金を払い終わるまで、自分の家の下働きとして雇ってやることにした」


「何かすごくいい人だね……」


「まあ、娼館に売られるよりかはよっぽどましだけど、元妻にとっては屈辱的であったとは思うよ。

 女主人として何不自由なく過ごしていたのが、気付けば最下層の下働きだ。

 まあ、浮気したのは自分だから因果応報なんだけど。


 グリムトーレの方は可愛い娘を下働きのまま終わらせたくないから、今必死にお金を集めている。

 でも、下の娘に持参金をつけてようやく嫁に出したところだから金なんて残っていないよね。

 払い終わるまであと五十年くらいはかかるんじゃないかなぁ」


 その前にグクル卿が死ぬんじゃないの? とイエルは素朴な疑問をいだいた。


「……そもそもお金がないのに、グリムトーレは何でそんな誓約書作ったんだ?」


「それだよ。二人には金の当てがあったんだよ。

 つまりさ、浮気は一人じゃできないだろ」


「セガーシュか……!」


「そ。お前んちに、何とかしてもらえないかって頭を下げに行ったらしいよ」


 イエルは仰天した。

「そんな話、聞いた事ない!うちに来てたのか?」


 ラングは頷いた。

「お前の弟は、誘ってきたのは女の方だから、今更付き纏われても迷惑だってさ。

 で、お前の親は、最初から金をせびる目的で息子に近づいたんじゃないかって怒り出して、ろくに話を聞かずに追い返したらしい」


「うわあ」

 イエルは思わず片手で顔を覆った。あの親と弟ならやりそうなことだ。


「で、ここからが本題。

 グクル卿が浮気の現場に踏み込んだ時、間男は服を引っ掴んで股間を隠して遁走したらしい。

 でも、妻を問い質したら、相手の男の名なんてすぐにわかるだろ。


 グクル卿ははらわたが煮えくり返ったらしいけど、プランツォ家の方がグクル家より家格が高いからそのまま泣き寝入り。

 そこに持ってきて一年後、元妻の実家からセガーシュの対応を聞いたグクル卿は、更に嫌悪を募らせた」


「……そりゃあ、そうだろう」

 イエルはため息混じりに呟いた。

 ここまで弟が腐ったことをしていたとは、さすがのイエルも思いつかなかった。


「妻を寝取られたっていうのは男の沽券にもかかわるから、グクル卿は離縁の原因についてはずっと口を閉ざしていた。

 でも年の半分を公都で暮らしていたら、セガーシュの噂も自然と耳に入ってくるだろ。

 自分の人生を台無しにしておいて謝罪一つもせず、自分だけはのうのうと家格の高い家の婿におさまろうとしているんだ。

 それを知って、グクル卿が黙っていられる筈がない。


 だからセガーシュの話が決まりかけたら、恥を承知でことの顛末を相手方に伝えることにしたんだってさ。


 経緯を聞いた当主は、当然セガーシュとの縁を取りやめる。

 女癖が悪い上に誠意の欠片もないような男を娘の婿にしたくはないし、いずれこういった醜聞は他の貴族の耳にも入るからね。


 セガーシュの悪名に引き摺られる形で家名が汚されることは避けたいし、何よりこの婚姻を受け入れればグクル卿とも敵対することになってしまう。

 その財力で力をつけつつある貴族をわざわざ敵に回すなんて馬鹿のすることだ」


「それでセガーシュの縁談話が難航しているのか…」

 話を聞いたイエルはようやく納得した。


 少し変だと思っていたのだ。

 いくら縁談を探し始める時期が遅すぎたとはいえ、プランツォ家の次男だ。

 格上や同程度の貴族は無理にしても、格下の貴族との縁組ならいくらでもある筈なのに、話があった下位貴族は一件だけ。


 マリアージェは、セガーシュさまご本人には魅力がありませんものとばっさり切っていたが、公都に店を構える大店(おおだな)の商家からもさっぱり話が舞い込まないのは、余りに不自然だった。


 そちら関係にもグクル卿が情報を流しているんだろうなとイエルは思った。

 裕福な貴族であれば、公都に店を構える商人たちとも当然交流がある。

 もしセガーシュと縁を繋ぐなら、今後一切お宅の店からものは買わないくらいのことは言っているのではないだろうか。


 脱力して天を仰いだイエルに、ラングは「それだけじゃないんだ」と首を振った。


「え……、まだあるの…?」


「グクル卿夫人と不倫してた時、他の未亡人とも同時進行で付き合ってたんだと。とにかくモテたから、二股三股はあいつにとって当たり前だったらしい。


 おまけに一旦体の関係になったら、それまでの金離れの良さが嘘のように、時折、金をせびっていたとも聞いたことがある。

 まあ、お前の家だって、湯水のように金が使える訳じゃないだろうし」


「ああ、まあね」


 元々、プランツォ家の領地収入はそれほど良い訳ではないのだ。

 父がかつてイエルの母との縁談を望んだのも、イエルの母親が持つ莫大な持参金に食指が動いたせいだとイエルはふんでいる。


「お前の弟はずっとプランツォ家を継ぐのは自分だと言ってたらしいんだけど、蓋を開ければ家を継ぐのは長男のお前で、セガーシュは爵位なしの領地なし。


 婿に出る時は、お前の妹たちと同程度の持参金はつけてもらえるだろうが、うまみがあるのはそこだけだろ?

 グクル卿夫人の一件だけでも致命的なのに、爵位の件でも出まかせを言って、二股をかけて女と遊んでいたと知れ渡って、いい話なんかある訳がない」


「……そりゃあ、そうだ」

 身から出た錆と言う訳だ。


「それで、あいつに縁組は来てるわけ?」

 ラングに聞かれてイエルはため息をついた。というか、もうため息しか出ない。


「ようやく二つだけかな。

 サリュー州で茶葉を手広く扱っている裕福な商家と、借金を抱えた南方の貴族」


 事情を聞いた今では、あんな醜聞を抱えたセガーシュによく商家から縁談があったものだとイエルは思ったが、よく考えればお相手は公都から遠く離れたサリュー州の商家だ。

 紹介者がそうした事情を伝えていないならば、知りようがないのだろう。


 一方のアンノルド家は公都からは遠い領地の貴族だ。

 セガーシュの醜聞についてはおそらく知らないだろうし、知っていても気にしない気がする。


 何しろ、仲立ちを立てずに縁組を持ち掛けてきたくらいだ。

 仲介役に支払う金さえもないというのが容易に想像がつくし、噂では借金があるとも聞いているから、今は喉から手が出るほどにセガーシュの持参金が欲しいのだろう。





 ラングが帰った後、イエルは今日聞いたグクル卿やグリムトーレ家のこと、そして縁談話が浮上しているサリュー州の商家について詳しく調べ始めることにした。


 今まで父も義母も弟たちも嫌いであったから極力この話に関わりを持たないようにしてきたが、放置しておける状態ではないと気付いたからだ。

 この流れでは、セガーシュはおそらく商家の方を選ぶだろうし、そうなればいずれ取り返しのつかないことになっていく。

 


 イエルは蜜蝋のことは一旦ハンスに任せ、社交場の付き合いに重点を置くようにした。

 いずれプランツォの名を継ぐ身であれば、あの噂がどこまで貴族社会に知れ渡っているのか確かめておく必要がある。


 そうしてわかったのは、あの一件は今や凄まじい勢いで社交の場を巡っており、公都に住まう貴族の中で知らぬ者はいないだろうということだった。

 プランツォ家の家格がなまじ良いだけに、格好の標的にされてしまったのだろう。


 幸い、あの醜聞とイエル自身とを関連付けて捉える者はおらず、イエルはそこにお祖父さまや伯父上たちの作為を感じた。


 イエルが幼い頃より実父と義母に疎まれ、家族の中で孤立させられたり、貶められたりしていたことは、レイマス卿と親しい上位貴族たちは皆知っていた。

 お祖父さまは今回それをわざと表に出し、嫡男であるイエルもまた、あの恥知らずな家族たちの被害者の一人なのだということを明確に知れ渡らせたのである。


 この工作により、プランツォ家が激しい醜聞に巻き込まれてもイエル自身の名誉は保たれて、その分セガーシュたちに対する風当たりは強くなっているようだ。


 この落としどころをどこに持っていくべきなのかとイエルは考え、結局は静観の道を選んだ。

 そもそもがセガーシュの不始末であり、その名誉を回復してやりたいと父が望むのであれば、それは当主たる父が考えるべきであるからだ。


 はっきり言って、彼らに手を貸してやるような義理はイエルにはなかった。







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