型破り元皇女の里帰り16 ~離宮での昼餐~
一階で最後に訪れたモーニングルームは、マリアージェ達が読書や刺繍などを楽しんでいたやや小さめの部屋だ。
壁面に飾られた書棚の中に懐かしい本を見つけたマリアージェは、「まあ!」と顔を輝かせた。
「これ、『子ギツネのアダージョの冒険』だわ。この表紙絵、今でも覚えてる」
本の中は少し黄ばんでいたが、柔らかな水彩画のタッチは忘れようもない。
「そう言えば、貴女はこの本が一番のお気に入りだったわね。
『ほうき星のヨンナ』や『魔女の取り替え子』もあるわ。懐かしいこと」
この部屋で家庭教師がマリアージェに絵本を読みきかせるのを、セルデフィアは静かに傍で聞いていた。
幼い頃から奉公に出されていたセルデフィアは字を勉強させてもらえず、だから家庭教師が我が子に本を読みきかせるのを傍で聞いて、自分も文字を学ぼうとしたのだ。
マリアージェのために揃えられた子ども用の絵本がセルデフィアにとっての教本だった。
繰り返し聞く内に本の内容は全部諳んじられるようになり、セルデフィアはマリアージェが寝る前に、本の読み聞かせをしてやるようになったのだ。
どこか平坦な家庭教師の読み聞かせより、情感たっぷりに読んでくれる母の話の方がマリアージェは好きで、寝る時間になると母のところに本を持っていっては、「読んで読んで」とせがんだものだ。
マリアージェは南向きに置かれたソファーに座り、手に取った本の表紙を開く。
「昔々、こんもりとした大きな森の中に、子キツネのアダージョが、お父さんやお母さん、そして五匹の兄弟に囲まれて元気に暮らしていました」
字を目で追うよりも先にセルデフィアがすらすらと内容を言ってきて、マリアージェは思わず笑い出した。
あれから十九年の時が経っているのに、母は今でもこの物語を諳で言えるのだ。
マリアージェの傍に座った母が、長い指でゆっくりと次のページを捲った。
当時の幸せな時間が二人の上に落ちてきて、マリアージェは母と肩を寄せ合いながら、子ぎつねアダージョの冒険を追っていく。
腕に触れる母の温もりが愛おしい。
二階からは子ども達の楽しそうな笑い声が響いていた。
やがて一階から二階までをくまなく探検し終わった子ども達は庭園で遊び始めたようだ。
二階から見下ろすと、イエルは庭園のベンチに腰掛けて、子ども達が遊ぶ様子を楽しそうに眺めていた。
マリアージェとセルデフィアはベッドルームや遊戯室のある二階を時間をかけて見て回った後、庭園でイエルと合流した。
「プランツォ卿。今日は夢のような時間を作って下さいましてありがとうございました」
セルデフィアが改めてイエルに頭を下げれば、
「こちらで過ごす事をお許し下さったのは皇后陛下です」
イエルは穏やかに笑んでそう返した。
「昔暮らしていた離宮を訪れたいと手紙で願い出た妻に、陛下は快く応じて下さいました。
こちらでのんびり過ごせるよう、昼餐もこちらに用意して下さるそうです」
「こちらの離宮で食事をいただけるのですか?」
驚いたように目を瞠るセルデフィアに、
「ええ。最初は庭園で軽食を楽しめたらと考えられたそうですが、七人で食事をするには少し手狭だと思われたようです。
ダイニングルームの方に料理を用意させるとの事でした」
「あの無駄にだだっ広いテーブルがようやく役に立つわ」
しみじみと呟いたマリアージェに、セルデフィアは「本当ね」と笑いながら頷いた。
「地下の厨房で母様が料理を作って下さっていたのを、今でもよく覚えているわ。
そうだ。北側の隅にあったダム・ウエイターを覚えていらっしゃる?
作ったばかりの料理をそこに入れてロープを引っ張るのがとても楽しかったわ。
そう言えば、競争も良くしていたわね」
「ダム・ウエイター?」
聞き慣れない言葉にイエルが首をかしげると、セルデフィアが微笑みながら説明した。
「地下の厨房とダイニングを上下で結ぶ手動リフトの事ですわ。
これを使うと、できた料理を素早くダイニングルームに運ぶ事ができるんです」
「ああ。そういう仕組みになっているのか」
バックヤードに足を踏み入れた事のないイエルにとっては、知りようのない知識である。
「それで、そのダム・ウエイターと競争をしていたって?」
楽しそうに聞いてくるイエルに、マリアージェは「ええ」とすました顔で答えた。
「母様が料理をダム・ウエイターに乗せる瞬間にスタートを切っていたんです」
「どう考えても、負ける気がするけれど」
「全戦全敗でしたわね」
とマリアージェは肩を竦め、
「料理は一直線で一階に運ばれるのですもの。どう頑張っても勝てませんでしたわ」
まだ小さかったマリアージェが必死に階段を駆け上がる姿を想像したのか、イエルは込み上げてくる笑いをごまかすように小さく咳払いした。
「それはそうと、セルデフィア夫人は今でも料理をする事があるのですか?」
唐突にそんな事を聞かれたセルデフィアは、不思議そうにイエルを見た。
「いえ。料理は厨房係に任せておりますわ」
セルデフィアが嫁いだダンフォード商会は、皇都でも十本の指に入る大きな薬問屋だ。
大勢の使用人がおり、セルデフィアが料理に関わる事はなかった。
「ただ、お菓子作りをする事はありますわ。
自分で焼いたお菓子を無性に食べたくなる時があって、その時は多めに作って家族や使用人に振舞っておりますの」
「離宮の料理人が母様にいろんなお菓子の作り方を教えてくれたのよね」
マリアージェが言葉を挟み、セルデフィアは微笑みながら頷いた。
「ええ。お陰でレパートリーがたくさん増えたわ」
「当時は君も時々お菓子作りを手伝っていたと言っていたね」
イエルの言葉に、「少しだけですけれど」とマリアージェは笑う。
「手が荒れるから駄目だって言われていて、見ていたのがほとんどです。
でも時々、生地を捏ねさせてもらいましたわ。
あと、クッキーの型抜きをした事もあったかしら」
竈から出したばかりのクッキーを味見と称してその場で食べるのが、マリアージェは大好きだった。
焼きたてのクッキーからは大層香ばしい匂いがして、こんがりとした味わいとあの食感は今でも忘れられない。
「マリアージェが嫁いでまだ間がない頃、赤いドライフルーツの混ざったクッキーが食べたいとよく私に言っていました。
プラムやクランベリー、イチゴなどのクッキーを作らせましたが、どれも違うと言われてしまって……。
何か覚えはあるでしょうか?」
イエルにそう問われ、セルデフィアは少しの時間、沈思した。
「多分……、ゴジベリーだと思います。
余り美味しいものではないのですが、私が小さい頃お仕えしていた家にクコの木があって、当時の事が懐かしかった私は乾燥させたものを取り寄せてお菓子に使っておりました。
仄かに甘く、うっすらと苦みが残るものもありますから、この子の記憶に強く刻まれたのかもしれませんね」
「ゴジベリー……、初めて聞いたわ」
呟くマリアージェに、「余り一般的なフルーツではないから」とセルデフィアは小さく笑った。
「どちらかと言うと、薬の一種として出回っているの。ダンフォード商会でも扱っていて、私は時々それを料理に使ってもらっているわ」
「スランでも扱っているかしら」
マリアージェがイエルに問うと、
「多分あるだろう」
とイエルは頷いた。
「帰ったら、早速取り寄せてみよう。
幼い君が食べたがっていたクッキーを、これでようやく食べさせられる」
マリアージェが目を輝かせ、それを見たセルデフィアが母の顔で優しく笑う。
「貴女の旦那様は、願いを全部叶えて下さるのね」
マリアージェは気恥ずかしそうに笑み、それでもしっかりと母の顔を見上げて言った。
「ええ、母様。こんな素敵な旦那様はいないわ」
そんな風に秋のひと時をのんびりと庭園で過ごしていた三人だったが、そのうち子ども同士だけで遊ぶ事に飽きたイリアーナがマリアージェを呼びに来たため、三人はなし崩しに子ども達の遊びに加わる事になった。
ジェイのリクエストで始まったのは、振り返り鬼である。
一人が鬼になり、他の者は鬼のすぐ近くにある宝物を取って、無事に自陣まで辿り着けばその者の勝ち、辿り着けなかった者は負けとなる。
ただし、鬼が十を数えて後ろを振り向いた時に動いたらその者は鬼の囚われ人となり、全員が囚われ人となった時点でゲームオーバーだ。
鬼の役はイエルとマリアージェとセルデフィアが順番にやり、ひとしきり庭を走り回ってほど良い疲れを覚え始めた頃、侍女が皆を呼びに来た。
どうやら昼餐の準備ができたらしい。
そうして七人で広い食卓を囲んだが、その席で話題となったのがセルデフィアの家庭だった。
長男のアルフォンドはセルデフィアが祖母だと薄々気付いており、どんな風に暮らしているのか詳しく聞きたがったのだ。
「子どもは三人おりますわ」とセルデフィアは説明した。
「一番上がロビンという男の子で今年で十五歳になります。その次に二つ違いの女の子がいて、その一つ下にもう一人男の子がおりますわ」
「じゃあ、一番下が十二歳なんだ。三人はどんな性格なの?」
「そうですわね……」
アルフォンドの問いにセルデフィアはちょっと考え込んだ。
「ロビンは典型的な長男気質ですわね。
おっとりとマイペースで、人との和を大事にする子です。父親に一番よく似ておりますわ。
長女のヴィーナと次男のダニーは私と性格が似ている気がします。
肝が据わっているといいますか、何と言うか、雑草のような逞しさを感じさせる子達ですわ。
それでもヴィーナはうまく猫を被っていますけど、ダニーの方はもうそのままです。
やんちゃで要領がよくて、我が家で豆台風と呼ばれていますの」
「面白そうな奴だなあ」
俄然興味を示したのは、言わずと知れたステファノである。
「ステ兄様と気が合いそうだね」とイリアーナが茶々を入れ、
「ステ兄様が二人……」
微妙な顔でジェイが呟いた。
二人が揃った時の騒がしさを想像したのだろう。
「一回会ってみたいな。そいつって何か口癖とかあるの? こだわりとか流儀とか何でもいいんだけれど」
ステファノにそう聞かれ、「こだわり……ですか」とセルデフィアは目をしばたたいた。
「余り何も考えてないような気がしますけど……。
そうですわね。
人間は笑った者が勝ちだとか、へこんでいても腹の足しにならないとかは、時々言っていますわね」
「なかなか逞しい子だ」とイエルが笑い、
「そう言えば、母上も同じような事を言っていますよね」とアルフォンドが楽しそうに後を続けた。
「物事はなるようにしかならないのだから、余り考えすぎては駄目だって。
しなやかに強かに自分の人生を切り開きなさいとよく言われていました」
アルフォンドの言葉に、「それってちょっと上品過ぎないか?」とステファノが異議を唱えた。
「母上の教えはもっと過激だぞ」
「そうだっけ?」
首を傾げるアルフォンドに、ステファノは「母様は何かをされて黙ってるタイプじゃないし」と腕を組んだ。
何を言う気だろうと警戒したマリアージェは次男の口を塞ごうとしたが、それよりもステファノが口を開くのが先だった。
「目には目を。歯には歯を!
やられたら上手にやり返せ! だよね」
「……確かにマリアージェの座右の銘だ」
イエルが肩を震わせるように笑い始め、マリアージェは、もう……っ という目でステファノを軽く睨んだ。
一方のセルデフィアは、幼いマリアージェに自分がそう教え込んだ事を思い出したのだろう。
あらあらと言う顔でマリアージェをちらりと見て、その様子をアルフォンドがどこか眩しそうな眼で眺めていた。
マリアージェはこのダイニングで最後に食事をした日の事を思い出す。
母とはもう二度と会えないのだと思いながら、母を悲しませないために精一杯明るく振舞って最後の朝餐を口にした。
味なんかわからなかったし、何を食べていたかも覚えていない。
本当は泣き喚いて母に甘えたかったけれど、それをすれば母様が余計辛いとわかっていたから一生懸命我慢した。
幼いマリアージェの心の支えになっていたのは、不遇の時にも決して強さと優しさを失わなかった母の姿だ。
人生には耐えがたいほど辛い事もあるが、希望も必ず用意されている。
言葉ではなく背中で母はそう教えてくれ、だからこそマリアージェは心を黒く塗り潰されるような絶望の中にあっても、真っ直ぐに顔を上げていられたのだ。
強かに人生を切り開いたセルデフィアの生き様は子や孫に正しく受け継がれ、この先も自分達は己の強さを心に信じ、それぞれの人生を自分なりに生き抜いていくのだろう。
子ども達の顔を晴れ晴れと眺め渡しながら、マリアージェはこの母の娘に生まれて良かったと心の中で静かに呟いた。
あと二話でおしまいとなります。お付き合い下さり、ありがとうございました。活動報告への返信や、感想、誤字報告など、ありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。