型破り元皇女の里帰り13 ~母との再会~
「ダンフォード商会の奥方がお越しです」
離宮付きの侍女が客人の訪れを告げてきて、ソファーの肘当てに寄りかかるようにして深い物思いに耽っていたマリアージェは、はっとしたように顔を上げた。
「……お通しして」
ゆっくりと立ち上がったマリアージェは、下に垂らした手が小刻みに震えているのに気付き、拳をぎゅっと握り締める。
高ぶる感情を抑えようと大きく一つ息を吐き、戸口の方へと体を向けた。
やがて誰か近付いてくる気配がして、開け放たれた扉の向こうから一人の女性が姿を現わす。
母は四十半ばの筈だが、それよりも随分若やいで見えた。
豊かで美しい金髪を低い位置のシニョンでまとめ、モスグリーンのドレスに身を包んでいる。
瞳はマリアージェと同じく、湖水のように澄んだ青で、上品そうな面立ちをしていた。
女性は食い入るような眼差しでじっとマリアージェを見つめていて、その張りつめた強い眼差しを見た瞬間に、マリアージェはその女性が母だと確信した。
昔の面影を見つけようとマリアージェは目を凝らしたが、そもそも記憶の中の母の顔は遠く薄らいでいて、胸を甘く締め付けるような柔らかな温もりしか思い出す事ができない。
ただ目鼻立ちがどこかマリアージェと似ていて、耐え難いほどの懐かしさが込み上げてきた。
「奥様……?」
互いに見つめ合ったまま身動ぎ一つしない二人に、侍女が戸惑ったような声を掛けてくる。
マリアージェははっと我を取り戻し、控えている侍女の方に視線を向けた。
「案内をご苦労様。貴女達はもう下がって」
侍女は一礼して下がっていき、扉が閉まるのを確認するや、マリアージェは今にも泣き出しそうな声で母を呼んだ。
「お母様……!」
セルデフィアがくしゃりと顔を歪めた。
湖水のように澄んだ瞳にみるみる涙が溜まっていき、すぐにそれは幾筋もの涙となって頬を伝って落ちた。
手を差し伸べてきた母の胸に、マリアージェは矢も楯もたまらずに飛び込んだ。
首に腕を回し、啜り泣きながら母の首筋に顔を埋める。
「マリアージェ、マリアージェ……。ああ、本当に貴女なのね……」
セルデフィアもまた、マリアージェの体にかじりつくようにして咽び泣いていた。
ほっそりとした体のどこにそんな力があるのかと思うくらいの力でマリアージェを締め付け、譫言のようにその名を呼び続ける。
触れ合った体からは仄かな汗と化粧の混ざった甘い匂いがした。
その香りには覚えがあった。
当時の記憶と狂うような慕わしさが胸元に溢れ出し、マリアージェはいよいよきつくセルデフィアの体にしがみついた。
七つまでこの優しい温もりにずっと包まれてきた。
おおらかでぶれる事のない母の強い愛情に守られて、マリアージェは父を知らぬ寂しさに泣く事もなく、無邪気に笑んで未来だけを真っ直ぐに見つめていられたのだ。
「マリアージェ、さあ、もう一度顔を見せて」
やがて手の甲で乱暴に涙を拭いながら、セルデフィアがそっと体を離す。
マリアージェは往生際悪くもう一度ぎゅっと母の体に抱きついてから、渋々と首に回した腕を解いた。
鼻を啜りながら、子どものように目をごしごしと擦り、言いつけ通りに母の方に向き直る。
「随分大きくなったのね」
セルデフィアは泣きながら笑った。
「勝気そうな瞳は以前のままだわ。きれいな二重で睫毛も長くて、相変わらずお人形さんみたい。
こんなに美しいのに、ちゃんと昔の面影が残ってる」
マリアージェの両頬に掌を当てて、楽しそうにセルデフィアが言う。
新たな涙がほろほろと零れ落ち、母の手を濡らした。
「母様はわたくしの顔を覚えているのね」
マリアージェはしゃくりあげながらそう言った。
「わたくしはだんだんと記憶が薄らいできたの。
母様の顔を思い出したいのに、面影がすこしずつぼやけていって、とうとう思い出せなくなっちゃった」
涙声で訴えるマリアージェに、
「貴女はまだ七つだったから仕方ないわ」
セルデフィアはそう言って、マリアージェの涙をそっと拭ってくれた。
「まだ親が必要な時期なのに見知らぬ国に一人で嫁がされて、貴女がかわいそうで堪らなかった。
あの時ばかりはあのすっとこどっこいを本気で恨んだわね。
生まれた時は顔を見にも来なかったくせに、国の役に立つと思い出した途端に、売り飛ばすんだもの。本当にとんでもない男だったわ」
この場合のすっとこどっこいとは、言わずと知れたパレシス帝だろう。
一緒に暮らしていた頃、母セルデフィアはこのすっとこどっこいをパレシスの代名詞のように使っていた。
他にもパッパラパーだの鳥頭だの、あの男を形容する言葉に不自由はしていなかった覚えがある。
非常に不敬ではあるが、母がされてきた仕打ちを思えばそう形容されて当然だ。
「大丈夫よ、母様」
だからマリアージェは泣き笑いながら当時の報告をした。
「母様と引き離された日は泣き明かしたけれど、次の日からはちゃんと母様の言いつけを思い出してご飯もきちんと食べたわ。
それに結婚相手がとても素敵な人だったのよ。
十四も年の離れたわたくしを大事にして下さったの。
夫のお祖父様や伯父様達も、わたくしを実の孫や姪のように可愛がって下さったわ」
「そう。いい家族に恵まれたのね」
セルデフィアは嬉しそうに何度も頷いた。
「夫のエリオからも、貴女が幸せそうだと聞いていたの。プランツォ卿は心から奥方を大事にしておられる風だったと。
それを聞いて本当に嬉しかった。ずっと喉の奥に留まっていたつかえが、ようやく取れた気がしたわ」
母は今、エリオ・ダンフォードという商人と結婚している。
そのエリオとは、マリアージェがステファノを身籠っていた時に一度だけ会っていた。
ダンフォード商会が、イエルの開発した手油クリーム『マリアージェ』を商会で扱いたいと望み、その商談のためにエリオがスラン公国のプランツォ家を訪れてくれたからだ。
エリオは、マリアージェが妻の娘である事に薄々気付いている。
気付いていて、そ知らぬ風を装ってくれていた。
皇帝の子を産んだ女性が市井に下り、あまつさえ他の男に嫁したなど、決して余人に知られてはならない事だ。
だからこそマリアージェやセルデフィアは、その後にやり取りした文の中でも、後々の証拠となるような文面は決して残さなかった。
「輿入れの道中の様子とか、夫と初めて出会った日の事とか、本当はいろいろな事を母様に知らせたかったの。
でも万が一、文が他の者の目に触れたらと思うと、当たり障りのない事しか書けなくて……。
すごくもどかしかったわ」
「そうね」とセルデフィアは微笑み、
「でも、私は貴女から文がもらえるだけで嬉しかったわ」
マリアージェはこくんと頷き、セルデフィアの手を引くようにして三人掛けのソファーに座らせた。
自分もすぐにその傍らに座り、手を繋ぎ、身を寄せ合って互いの温もりを確かめ合う。
十九年の空白がまるで夢のようだった。
晴れやかに澄んだ母の声音やその語り口までが徐々に脳裏に蘇ってくる。
セルデフィアはマリアージェが嫁いだ後の話を詳しく聞きたがり、マリアージェが顔合わせの日に夫に恋をしたという件には手を叩いて喜んだ。
「政略で嫁いだ年の離れた夫に、まさか貴女が一目ぼれするなんて……!」
性悪な父方の家族の話をすれば、「信じられないわ」とセルデフィアは憤慨し、親族の集まりでマリアージェがざまあしてやったと話せば、「さすが私の娘ね」と鼻高々に言い放った。
母との話は尽きなかった。
会話のテンポも噛み合って、次から次に話したい事柄が浮かんでくる。
やがて夕食の時間が来て、マリアージェは当時と同じように母と二人で食卓を囲んだ。
「ご夫君を一人にして大丈夫なの?」とセルデフィアが心配するので、
「夫は今日は子ども達と夕食を取っているの」とマリアージェは笑った。
「確か、四人子どもがいるのよね。一番小さい子はまだ四つではなかったかしら」
「ええ。
アンシェーゼの高位貴族は七つを過ぎてから親と食事をするようになるけど、スラン公国は違っているの。
子どもが三つを過ぎた辺りから一緒に食べるようになるわ」
「じゃあ、食事時は随分賑やかね」
「賑やかという言葉では言い表せないような時もあるわ。
夕食が済んだら、わたくしの夫や子ども達を母様に紹介するわね。楽しみにしていて」
「嬉しいわ。……確かご夫君のプランツォ卿は、貴女より十四歳年上の方だったわね」
「ええ。今、四十一歳よ。母様よりも少しだけ年下になるの」
セルデフィアは十八でマリアージェを産んでいるから、まだ四十半ばだ。
傍から見れば、セルデフィアの方がイエルの妻に見えるかもしれない。
「あらかじめ言っておくけど、イエル様は決してハンサムな方ではないの」
会ってから驚かれるといけないため、マリアージェは先に母に申告しておいた。
マリアージェ自身、イエルを初めて見た時の印象は、あれ? 思ったのと違う……というものであったからだ。
遡れば大公家の血筋を引く高貴な身の上だと聞いていたため、上品で整った顔立ちを想像していたが、その容姿はマリアージェの予想を遥かに超えていた。
というか、ぶっちゃけ真逆だった。
思わずぽかんと口を開けそうになるのを、慌てて律した記憶がある。
「あのね、イエル様の容姿って、母方のお祖父様のレイマス卿にそっくりなの。
ついでに言えば、イエル様の伯父様方もレイマス卿によく似ていらっしゃるし、うちの長男のアルフォンドもイエル様そっくりなのよ。
旧家の血筋って、ほんと半端ないと思うわ」
「あら、そんなによく似てるの?」
「ええ。母様もきっとびっくりすると思うわ」とマリアージェは笑い、
「次男のステファノはアルフォンドよりレイマス色が減って、三男はそれが更に薄らいでいる感じかしら。
末娘のイリアーナはわたくしによく似ているの。
わたくしにそっくりって事は、母様にも似ているかもしれないわ」
「性格はどうなの?」
「アルフォンドはイエル様そっくりよ。
ステファノとイリアーナは完全にわたくしの血を引いたわね。
反対に三男のジェイは人見知りが強いの。引っ込み思案で我慢しちゃう質だから、気を付けて見るようにしているわ」
「同じ兄妹でも、子どもによって随分性格が違うのね」
「ええ。大人しすぎるのも心配だけれど、やんちゃなのも考えものよ。
特にステファノは思った事をずばずば言っちゃうから、見ていてはらはらするわ」
「そうなの?」
「こっちに来てからも好き放題よ。
あのね、何とあの子ったら、アンシェーゼの重鎮に向かって、おじちゃん誰? って言ったのですって。
後でそれを聞いて冷や汗をかいたわ」
セルデフィアは噴き出した。
「おじちゃんだなんて……!
それより貴女、子ども達にそんな庶民言葉を教えていたのね。教えた貴女に問題があるような気もするけど」
呆れたように言うセルデフィアに、マリアージェは「勿論教えるに決まっているわ」と胸を張って答えた。
「あの子達には雑草のようにしぶとく逞しく育っていって欲しいもの。
それに、こんな楽しい言葉を子どもに教えないなんて手はないわ。
そうでしょう?」