型破り元皇女の里帰り12 ~お茶会の後~
マリアージェが茶会を終えて迎賓宮に戻ると、イエルもつい先ほど帰ってきたばかりのようで、上衣を脱いだ姿でソファに寛いでいた。
「ボードゲームは如何でした?」
そう水を向ければ、
「いやあ、良かったよ。相変わらずトラモント卿は素晴らしい!」
イエルは興奮冷めやらぬ口調で話し始めた。
「いくら平常心で臨もうとしても、相手はそうそうたる顔ぶれだ。
委縮萎縮してもおかしくない状況なのに、あのお三方を相手にトラモント卿は淡々と駒を進めたんだ。
皇后陛下から勝ちを捧げるようにと言われていたから、勝負に迷いもなかったんだろう。
お三方が楽しめるように配慮しながら、最後にはきちんと白星を挙げていた」
「三人相手に全勝されましたのね。でもトラモント卿が配慮していたって、どうしておわかりになりますの?」
「トラモント卿はどの相手とも、ほぼ同じ手数で勝負を終了させていたんだ。
最初ラダス卿が投了して、ほどなくしてセルティス殿下と皇帝陛下が同時に負けを認められた」
マリアージェは首を傾げた。
「それってただの偶然なのでは?」
「偶然にしてはでき過ぎている。
トラモント卿は多分、終始、盤の展開を支配していたのだと思う。
相手の実力を見切り、どこに駒を進めれば相手がどう返してくるか、その数手先が卿にはすべて見えていたんじゃないかな」
「そのような事が可能ですの?」
マリアージェが半信半疑で尋ねるのへ、
「余程の実力差がないと不可能だろうね」とイエルは笑った。
「皇帝陛下もその事に気付かれたらしい。
トラモント卿には余裕があるようだな……と呟かれて、次の勝負では私にも多面打ちに加わるようお命じになった。
それで今度は一対四で勝負したのだけど、やはり結果は同じだったよ」
「四人とも同じくらいの手数で終わったという事ですか?」
「ああ」とイエルは頷いた。
「勿論、勝ったのはトラモント卿だ」
マリアージェは瞠目した。
もしぎりぎりの勝負であったなら、トラモント卿は取り敢えず勝てそうな相手から仕留めていき、残った相手との勝負に集中しようとしただろう。
けれどそうする必要がないくらい、トラモント卿には余裕があったのだ。
「皇帝陛下は悔しがっておられませんでした?」
「陛下よりも、セルティス殿下の方が悔しがっていたかな。
拝見した限り、お三方の中では一番お強かったように思う。
だからゲームが終わった後、殿下は自分の駒運びのどこが悪かったのか、トラモント卿に詳しく聞いておられたよ」
「まあ。あんな美しい顔をされて、存外負けず嫌いなのですね」
マリアージェの言葉に、「そのようだ」とイエルは楽しそうに答えた。
「驚いたのは、問われたトラモント卿が殿下との勝負を一から再現して見せた事だ。
流れで覚えれば、そう難しい事ではないと言っていたが、凡人には到底無理だ。
殿下との勝負だけでなく、他の三人とのゲーム進行もすべて記憶していて、トラモント卿は一体どういう頭をしているんだと皇帝陛下が大いに驚いておられたよ」
イエルはいつになく饒舌に喋り続け、余程楽しかったんだなとマリアージェは口元を綻ばせた。
自分の里帰りに無理やり付きあわせてしまっただろうかと少し心配していたけれど、イエルはイエルで今回の訪問をきちんと楽しんでいるようだ。
水晶宮に遊びに行っている子ども達もまだ帰ってきていないようだし、おそらく年の近い従兄妹達と存分に遊んでいるのだろう。
そんな事をぼんやりと考えていれば、
「……それよりも、今日はいよいよ母君が迎賓宮にやって来られるね」
やや改まった口調でイエルがそう話しかけてきた。
「君と会うのは十九年ぶりだ。母君もさぞ再会を楽しみにしておられるだろう」
マリアージェは「ええ」と頷いた。
「実を言うと、わたくしも先ほどから胸が落ち着きませんの。今でも幸せな夢を見ているみたいで……。
ずっと会いたかったけれど、叶う事のない夢だと諦めていましたから」
「そう言えば、昨晩も魘されていたね。また同じ夢を見ていたの?」
そう問われて、マリアージェは目を伏せた。
「ええ。母と別れた日の夢ですわ。
あの日、わたくしの乗った馬車を追おうとした母の姿は鮮明に覚えているのに、いざ顔を思い出そうとすると全く思い出せないんです。
このままでは母と会ってもわからないと、夢の中でひどく焦っていました。
……ですから今も、会うのが少し怖いんです。
あれからもう十九年も経っているのですもの」
「君は幼かったから記憶が薄らいでしまったけれど、母君はよく覚えておられる筈だ」
イエルはマリアージェの肩をそっと抱いた。
「子を持って初めてわかったけれど、子というものは親にとって特別なものだ。
例えばアルフォンドはもう九つになったけれど、初めて歩き始めた頃のあのあどけない姿は、今でもはっきりと脳裏に思い浮かぶからね」
「それもそうですわね」
マリアージェはイエルの胸に顔を預け、肩の力を抜いた。
「……母は今のわたくしを見て、どう思うかしら。
失望させるような事がなければ良いのですが」
「失望などあり得ない。君は素晴らしい女性で、私の自慢の妻だ。
十九年の歳月は簡単に埋められるようなものではないだろうが、母君はずっと君を想って下さっていた。
何も不安に思う事はない。
今日は母君と二人で、ゆっくりと話をしてごらん」
マリアージェと母が気兼ねなく再会を喜び合えるように、イエルは部屋を空けてくれる事になっていた。
四人の子ども達と夕べを過ごし、夕食もそちらで済ませる予定だ。
そうした心遣いが心からありがたく、けれど半分、申し訳ない気持ちも覚えていた。
「ご不自由をお掛けしてごめんなさい」
頭を下げるマリアージェに、イエルは「気にしないで」と微笑んだ。
「ようやく母君と会えるんだ。存分に話をするといい。
夕食を済ませて気分も少し落ち着いたら、二人で子ども達の部屋に遊びにおいで。
母君にとっては孫になる。きっと喜んで下さるだろう」
「ええ。子ども達に本当の事は告げられないけれど、会わせてあげられるだけで嬉しいわ」
その言葉にイエルは僅かに押し黙った。
「その事だけど……。アルフォンドは薄々、事情に気付いているような気がするんだ」
「え」
マリアージェは驚いて顔を上げた。
「皇都に住まう商家の奥方をわざわざ迎賓宮に招き、君が二人きりで会うと知って、何やら考え込んでいた。
自分にも紹介してもらえるのかと私に聞いて来たからね」
そのアルフォンド達もようやく水晶宮から帰ってきたようだった。
侍女からそれを知らされたイエルは、「では私は子ども達と一緒にいるから」と居室を出て行った。
マリアージェは入り口までイエルを見送り、その後、気持ちを落ち着けるために、庭園が見下ろせる窓辺へと向かう。
迎賓宮の窓は張り出し窓となっていて、鮮やかに色づいたブナの木が眼下に見えた。
十九年前の今頃は、スランに向かう旅途中にあった。
母と引き離されたその日、マリアージェは一日中泣きじゃくり、食事もボイコットしたが、翌日からは気持ちを切り替えて元気に振舞った。
だってマリアージェが泣こうが喚こうが、どのみちスランに連れて行かれるのだ。
ならば、失ったものを嘆いてめそめそ過ごすより、前を向いて笑っていた方が余程いい。
そうした生き様を背中で教えてくれたのは、他ならぬ母セルデフィアだった。
母は十七歳で皇帝に花を散らされ、望まぬまま子を孕んだ。
やがて腹が大きくなると皇帝の興味は母から遠ざかり、離宮で一人子を産む事となった。
傍目から見れば、これほど不幸な人生はない。
与えられた離宮では縦割りされた一区画が与えられ、自由に出歩く事ができたのはその区画の一、二階部分と、建物の南側を切り取る形で造られた小庭園だけだ。
付き従う侍女は三人いたが、全部皇后の息がかかっていて、離宮に押し込められたセルデフィアは、些細な嫌がらせを毎日のように受ける事となった。
それでもセルデフィアはそんな生活を嘆く事なく、時に怒りながらも、いつも明るく過ごしていた。
人生は思い通りにいかないけれど、取り敢えず三食きちんとご飯は食べられるし、嫌がらせで死ぬ訳でなし、考えようによっては刺激的な毎日よね。
そんな風に笑い、それなりに生活を楽しんでいたように思う。
母が本気で怒ったのを見たのは一度きりだ。
ある侍女が愚かにもマリアージェの食事に虫の足を入れ、知らずにそれを食べたマリアージェが気持ち悪さに吐いてしまった時だ。
あの時の母の怒りは凄まじかった。
「皇女殿下の食べ物に毒が入れられた!」と離宮の外にまで聞こえる声で騒ぎ立て、侍女達がいくら止めようとしてもそれを止めようとしなかった。
当時マリアージェは父帝から完全に忘れ去られた皇女だったが、それでも高貴な血を引く存在である事に変わりはない。
その皇女に毒を盛ったとなれば、首謀者のみならず離宮長までが極刑に処せられてもおかしくない事案で、それまで威張りくさっていた離宮長は慌てふためいてセルデフィアの許にやってきて、床に跪いて許しを請うた。
虫の足を器に入れた侍女は、問答無用で首である。
「いい事、マリアージェ」
あの後セルデフィアは、やり返す極意というものをきちんとマリアージェに教え込んだ。
目には目を、歯には歯を、が人生の基本ではあるが(と、母は常々言っていた)、感情のままにそれをしていい訳ではない。
少々の悪意は笑い飛ばし、相手にしないのが一番だ。
他人様に心を煩わせるよりも、自分の人生を豊かにしていく事の方が人生においては遥かに重要であるからだ。
そしてもし、やり返そうと思った時はうまく立ち回る事。
誰彼構わず敵を作っては、結局は自分が追い詰められる事になる。
そこら辺のさじ加減はよく弁えなさいと、母は小さなマリアージェに言い聞かせた。
しなやかに強かに、自分の人生を楽しんで――。
母が口癖のように言い聞かせてくれた言葉は、今もマリアージェの脳裏に刻みつけられている。
だからマリアージェは母と無理やり引き離された後もうじうじと泣き暮らす事なく、きちんと前を向いて生きてきた。
マリアージェが歩んできた人生を母は褒めてくれるだろうか。
そして自分は、当時と同じように母の最愛でいる事が許されるのだろうか。
再会に当たり、母が欲しいと望んできた手土産を思い出し、マリアージェは応接間のテーブルに置かれた細長い筒にふと目を留めた。
母に手渡すためにマリアージェが準備したもので、中には丸められた絵画が入っている。
描かれているのは、幸せそうな家族の肖像画だ。
末娘を膝の上に抱いたマリアージェの両脇に次男と三男が座り、ボタニカル模様の布張りソファーの後ろにはイエルと長男が立っていた。
思いがけずに再会を許された自分達だが、今回の帰国は特別なものであり、今度はいつ母娘で会えるのかわからない。
おそらく一生会えないという可能性の方が高いだろう。
だから母は、マリアージェと家族の肖像画を望み、それを知ったイエルは邸宅に画家を呼んでくれた。
その画家には違う構図の肖像画も書いてもらい、そちらの絵は現在、プランツォ家の図書室に飾られている。
画家が二枚の絵を描いていた事を知っているアルフォンドは、「もう一つの絵はどこに飾るのですか?」とマリアージェに聞いてきたので、「あれはわたくしの知り合いにお渡しするの」とさらりと流しておいた。
皇女の生母が市井で生きているなど、人には決して知られてはならない。だから、アルフォンドにも真実は伝えなかった。
けれどアルフォンドは聡い子だ。
皇都に住まう商人の奥方をわざわざ迎賓宮に招き、泊まらせると聞いて、何か思うところがあったのだろう。
次男のステファノは物事を余り深く考える質ではないし、引っ込み思案の三男は興味なさそうに「ふうん」と言っただけだ。
まだ幼いイリアーナは言わずもがなである。
幼い子ども達の記憶には残らずとも、母はきっとマリアージェの子ども達を見て喜んでくれるだろう。
マリアージェにはそれだけで十分だった。
再会の時は刻一刻と近付いている。
マリアージェは乱れる感情を抑え込むようにゆっくりと息を吐き出し、近付いてくる再会に胸を躍らせた。