型破り元皇女の里帰り5 ~顔合わせ~
お二人が退室してほどなく、リリアセレナ一家が迎賓宮に到着したと知らせが入った。
マリアージェはすぐにでもリリアセレナと会いたかったが、皇后とシア嬢がトラモント卿夫妻を訪れると知っていたため、今は遠慮する事にした。
どうせ晩餐会場では会えるのだ。今、焦って顔を見なくてもいいだろう。
会食まで十分な時間があったため、離宮の侍女に湯をもらって簡単に身を清め、この日のために誂えた夜会用の衣装に着替え直す。
イエルにエスコートされて一階に下りれば、すでに迎えの馬車が停まっていて、そのまま馬車に乗り込んで晩餐会場のある皇帝宮へと向かった。
皇帝宮はコの字型をした本宮の左翼部分にあり、迎賓宮の入っている右翼棟を大きく迂回して向かうため、馬車で凡そ十分かかる。
天井や壁、柱までもが金ぴかだった迎賓宮に比べれば黄金色がかなり抑えられているが、白を基調として要所要所に金泥が使われた皇帝宮は、格調の高さを窺わせ、文句なしに美しかった。
皇帝宮に着いてすぐ、マリアージェ達は晩餐会場での食卓配置図を渡された。
今日の晩餐会場は皇帝宮にある小会食の間で、長テーブルの中央に皇帝が座し、右隣の主賓席にはマリアージェが座るようになっている。
どうやら長姉という事が考慮されたようだ。
男女交互で夫婦が隣り合わせとなる席順になっていて、マリアージェの横にイエルが座る。
皇帝の正面には皇后が座し、その右隣は次姉リリアセレナの夫、トラモント卿の席となっていた。
「もう、皆は集まられているの?」
案内の侍従に尋ねれば、「セルティス皇弟殿下とカルセウス家のオルテンシア様、それにラダス卿夫妻がつい今しがた来られました」という返答が返ってくる。
リリアセレナ夫妻は、少し遅れて到着するようだ。
侍従の言葉通り、控え室にはすでに三組の男女が入っていて、酒杯を片手に楽しそうに歓談していた。
と、マリアージェ達の到着を知らされたのだろう。
一番奥にいたすらりと背の高い、金髪の男性が侍従の耳打ちを受け、すっとこちらを見つめてきた。
誰に紹介されずとも、その男性がこの皇帝宮の主、アレク帝だとすぐにわかった。
身に纏う威風が他の者とは全く違う。
十九年前に一度だけ会った父帝の顔は今はもう記憶に定かではないが、同じように長身で鮮やかな金髪をしていた事はぼんやりと覚えていた。
うんざりと、まるで虫けらでも見るように自分の上を通り過ぎた父帝の眼差しが不意にマリアージェの脳裏に蘇る。
あの時、父帝から初めてかけられた言葉は何だっただろうか。
ああ、思い出した。「顔立ちは悪くないな」だ。
そしてふんと鼻を鳴らして、「せいぜい国のために役立て」と続けられたのだ。
その言葉、そのままそっくり返してやりたいと心中で呟いたのはここだけの秘密だが、兄帝の纏う威風がそうしたやり取りを思い出させ、マリアージェは我知らず体を強張らせた。
その時、アレク帝の傍らに立っていた皇后ヴィアがマリアージェ達に気付き、嬉しそうな笑みを弾けさせた。
そしてアレクの耳元に何かを囁きかけ、それを聞いたアレクがふっと唇を綻ばせる。
その瞬間、兄帝を取り巻いていた重い威圧のようなものが見る間に和らいで、中から年相応に若々しく、快活そうな青年の顔が現れた。
一瞬の変化にマリアージェは戸惑い、掴んでいたイエルの肘を思わず強く握り締めた。
手前側にいた二組の男女がマリアージェ達のために道を空けてくれ、イエルにエスコートされたマリアージェはやや緊張気味に皇帝夫妻の御前へと向かう。
マリアージェは夫妻の数歩手前で足を止め、非の打ちどころのないカーテシーを披露した。
一瞬の間があり、落されたのは柔らかな言葉だった。
「君がマリアージェか」
値踏みするような傲慢さは一切感じられなかった。
声音には、ようやく会う事のできた妹に対する穏やかな情が透けて見え、マリアージェは困惑しつつゆっくりと面を上げる。
うわっ、とんでもないハンサムだわ……。
間近に兄帝を仰ぎ、一番最初に頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
とにかく顔がいい。
とろっとした蜜を溶かしたような琥珀色の瞳をしていて、鼻梁はすっと高く、頬から顎にかけてのラインもすっきりしていた。
すらりとした長身で腰は引き締まり、鍛え抜かれた騎士を思わせる精悍さを漂わせながら、物腰はあくまで優美に洗練されている。
普通のご婦人や令嬢ならば、この色気にぎゅんと心臓を撃ち抜かれ、下手をすればのぼせて気を失いかけるところだが、生憎マリアージェの好みは普通とは百八十度違う。
ここまでの完璧すぎると却って興ざめしてしまい、しかも半分血の繋がった兄であれば、ときめく要素は何一つ存在しなかった。
「初めてお目にかかります。マリアージェ・ヴェルと申します」
落ち着いて挨拶を述べるマリアージェに、
「子どもを連れての長旅は大変ではなかったか?」
アレクは優しく声をかけてきた。
「そのような事は……」とマリアージェは小さく首を振った。
「陛下には十分ご配慮いただきました。
それに今回の旅は夫と一緒でしたので、楽しみながらこちらに来る事ができましたわ」
そう言って傍らのイエルを見上げれば、アレクは初めてイエルの方に目を向けた。
「プランツォ卿。アンシェーゼにようこそ来られた。
ツープ特産の蜂蜜の噂は、ここアンシェーゼにも伝わってきている。
その質の良さは折り紙付きであるらしいな」
イエルは右手を胸に当て、最上級の礼を皇帝に捧げた。
「お褒めいただき、光栄に存じます。
また、この度はこちらにお招きいただけました事、この場を借りて心より感謝申し上げます」
アレクの傍に控えていたヴィアが、柔らかな笑みで言葉を足した。
「陛下。先ほどのツープの蜂蜜ですけれど、プランツォ卿は花源の違う蜂蜜ばかりでなく、蜜蝋を使った手油クリームの開発も手掛けられましたのよ」
「手油クリーム?」
「ええ。わたくしも取り寄せましたが、すっと肌に馴染んで仄かに高雅な香りも致します。
プランツォ卿はこのクリームに、何とマリ様の名前をつけられましたの」
アレクは驚いた顔でヴィアを見た。
クリームに妻の名前を付けたらそりゃあ驚くわよねとマリアージェが納得していたら、アレクは思いもしない方向へ話を持っていった。
「何でマリなんだ? マリアージェを略すなら普通はマリアだろう?」
気になるのはそっちなんかい!
マリアージェは思わず心の中で突っ込んだ。
普通はクリームに妻の名を冠したところに驚いて、プランツォ卿はよほど奥方様を愛しているのですねと大感激して続けるところだ。
「普通はそうかもしれませんけれど……でも、マリの方が可愛らしいわ」
ヴィアがかわいらしく小首を傾げてそう言えば、アレクは得心できなかったのか、今度はイエルの方に視線を向けた。
「プランツォ卿も奥方をマリと呼んでおられるのか」
余程そこが気になるらしい。
問われたイエルはくそ真面目に返答した。
「いえ。私はマリアージェと普通に呼んでおります」
「そうなのか?
何で愛称で呼ばないんだ? 私は妻の事をヴィアと呼んでいるぞ」
これは自慢なのだろうかとイエルが眉をへの字にしていると、横からのんびりと口を挟んできた者がいた。
「私も婚約者を愛称で呼んでいますよ。その方が距離が近く感じるし」
マリアージェとイエルが声の主の方に目を向ければ、そこにはそこらの令嬢よりもよほど美しい顔をした一人の青年がにこにことこちらを見つめていた。
「あら、セルティス。
紹介が遅れてしまったわね。ラダス卿夫妻もどうぞこちらにお越しになって。
イエル・ロイド・プランツォ卿と奥様のマリアージェ・ヴェル様よ。
プランツォ卿、マリ様。こちらは皇弟のセルティス、ご存じでいらっしゃると思うけど、わたくしの弟でもあるわ」
皇后からの紹介を受けて、兄帝と同じ琥珀色の瞳をした美青年が爽やかに笑んで挨拶をした。
「セルティス・レイだ。ようこそアンシェーゼへ」
「イエル・ロイド・プランツォと申します。この度はまたとないご縁をいただき、妻共々深く感謝しております」
イエルの返答にセルティスはにっこりと頷き、その横に控えていたシアが微笑みながら軽く会釈した。
「そしてこちらがルイタス・ジリオ・ラダス卿よ。
執務補佐官をされていて、陛下が信頼する側近の一人でいらっしゃるわ。
隣にいらっしゃるのが、セディア・シェレ夫人。マリ様の二番目の妹君よ」
「ようこそアンシェーゼへお越し下さいました。どうぞお見知りおきを」
ルイタスが右手を胸にすっと上体を折り、優雅に礼をした。
「ラダス卿、セディア夫人、お初にお目にかかります。お会いできて光栄です」
畏まるイエルに、「今日は家族の交流会だから楽にして」とセルティスが笑いながら声を掛ける。
「会えるのをとても楽しみにしていたんだ。長旅だったけど、宿泊先で不自由はなかった?」
マリアージェはイエルと顔を見合わせ、「はい」と微笑んだ。
「お陰様で、泊った先々でも皆様には大変よくしていただきました」
セクルト連邦内では教会を旅舎とさせてもらったが、国境をまたいで以降は、皇家が手配したアンシェーゼの地方貴族の館に旅先の宿を借りていた。
どの家でも申し分ない歓待を受け、皇家の威光を大いに感じた旅でもあった。
「ならば良かった。
それより姉上やシアには、愛称で呼ぶのを許していたよね。
ならば私もマリ姉上と呼んで構わないかな」
マリアージェは仰天した。
「姉上ですか? あ、いえ、わたくしは構いませんけれど、殿下とわたくしとでは身分が余りにも違いませんか」
「父があのパレシス帝で、母親が平民だよね。同じだろ?」
不思議そうにそう言われ、絶対、それ違うし! とマリアージェは心の中で叫んだ。
と、その時、セディアが控えめに口を開いた。
「畏れ多い事ですが、わたくしも私的な場ではセディア姉上と呼んでいただいていますのよ」
「そうなのですか?」
「ええ。
セルティス殿下だけでなく、マイラ殿下やロマリス殿下にもそう呼ばれておりますわ。
母が死んで故国にはもう家族はいないと思っておりましたけれど、決してそのような事はありませんでした」
セディアは幸せそうに笑み、皇帝夫妻やセルティスに感謝の眼差しをそっと向けた。
「この度はまた新しく二人の姉君とお会いできると聞いて、本当に楽しみにしておりましたの。
わたくしもマリ姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「勿論ですわ」
清楚で控えめ、まさに淑女の鑑のような女性だわとマリアージェは心に呟いた。
背はマリアージェより拳一つ分ほど低く、琥珀色の大きな瞳と小さく形の良い唇の横に浮かぶ淡いえくぼが印象的だ。
面立ちは美しいが、人目を引くような華やかさはなく、穏やかに笑んで立つ姿からは慎ましやかな優しさが感じられた。
セディアの隣にいたルイタスがゆったりと口を開く。
「先日はご夫妻よりお心尽くしの品をいただき、誠にありがとうございました。
改めてお礼申し上げます」
三月にラダス家に男児が生まれ、マリアージェとイエルは子どもの名前を刻んだ美しいオルゴールをお祝いに贈っていた。
「心ばかりのもので恐縮です」
イエルがにこやかにそう答えるのを横で聞きながら、マリアージェは静かにルイタスを観察した。
微笑みを絶やさず、物腰も優雅で人当たりがよく、まさに夫が言っていた通りの人物だった。
大貴族の家に生まれて皇帝陛下の覚えもめでたく、洋々たる前途を約束されて、その事に何の疑問も覚えずに生きてきた貴公子。
本人も自分の魅力を熟知しているようだが、こういう人間にありがちの嘘くささや薄っぺらさはなく、洗練された姿からは国を背負う貴族としての気概が感じられた。
「とても美しい音色で、オルゴールを聞かせる度に、息子は手をばたばたさせて喜びますの」
嬉しそうにセディアが言葉を足し、夫のルイタスと目を見交わして幸せそうに微笑み合う。
二人が醸し出す空気の柔らかさに、マリアージェはおや? と瞳を細めた。
皇帝の前だから仲睦まじさを取り繕っているとかいうのではなく、ラダス卿はどうやら、心底この妻を大事に思っているようだ。
ラダス卿は、シーズで不遇をかこっていた皇女の帰国に尽力し、その功績で殿下を賜ったと聞いているが、実際はどのような状況であったのだろうか。
にこやかに微笑む夫妻の顔を見ながら、これは是非ともなれそめを聞かなくてはと、マリアージェは密かに決意を固くした。