型破り元皇女の里帰り4 ~四人での語らい~
そんな事を忙しなく考えている間にも、ヴィアは楽しそうに語りかけてきた。
「プランツォ卿はアンシェーゼを訪れるのが初めてだと伺っておりますわ。
こちらでもいろいろな催しを予定していますけれど、もし時間があるのでしたら、皇都ミダスの街を散策されては如何でしょう。
ミダスには美しい教会や石像の置かれた噴水広場など、見どころはたくさんありますのよ。……個人的には掌広場の硬貨投げがお勧めですけれど」
最後にさらりと添えられた言葉に、マリアージェは何だか聞き覚えがあるわと遠い記憶を辿った。
「掌広場の硬貨投げ……。確か、噴水の中央に始祖帝の銅像が立っていて、それに向かって硬貨を投げるというものではなかったでしょうか」
「よくご存じね」
ヴィアは嬉しそうに笑みを零した。
「後ろ向きに硬貨を投げて、硬貨が無事に掌におさまったら願いが叶うと言われていますわ。
マリ様は国を離れていらっしゃったのに、どこでその話をお聞きになったの?」
「わたくしの母からですわ。
母は元々ミダスの生まれで、中心街にある貴族の邸宅で下働きをしていたんです」
当時の話はよく母から聞いていた。
丸一日のお休みが月に一回、半休が数回あって、休みの日には僅かな給金を持って街にもよく出かけていたらしい。
硬貨投げをして掌にも乗せたと言うので、「何を願ったの?」と聞いてみたところ、死んだような目をして「玉の輿」と返された。
「あんな皇帝に人生を狂わされると知っていたら、もうちょっと堅実な事を願ってたんだけど……」と続けられ、
「母様、早まっちゃったねぇ」と慰めた事を今も朧に覚えている。
「掌広場は庶民の憩いの場というだけでなく、ちょっとした観光名所であるようですわね。
大通りから一本外れたところにあるにも拘らず、旅人がわざわざ立ち寄って硬貨投げをすると聞いた覚えがあります」
「ええ、硬貨投げをする人のために、両替屋も出ていますわ。炙り肉や飴細工などの屋台も出ていますのよ」
得意そうにそう説明され、飴細工って何だろう? とマリアージェは密かに首を捻った。
炙り肉はそのままの意味だろうけど、飴細工という言葉は聞いた事がない。
そもそも屋台なんて庶民的な言葉を、皇族の口から聞くようになるとは思わなかった。
まさか買い食いまではしていないわよね……と思っていれば、ヴィアがどこか弾んだ声で、「マリ様のお母様も硬貨投げをなさったのかしら」と聞いてくる。
他所事を考えていたマリアージェは咄嗟の事で取り繕えず、「やってましたねぇ」とついつい素で答えてしまった。
「まあ! では、掌に乗せる事はできましたの?」
「あ、はい。願いも成就したようですわ」
一回目はとんでもない悪縁を掴んでしまったセルデフィアだが、二回目に掴んだ縁は文句なしの玉の輿だった。
三人の子にも恵まれ、何不自由なく幸せに暮らしている。
だから、成就したとお答えして間違いないだろう。
「……陛下はミダスの街によく行かれていたという事ですが、もしかして硬貨投げもなされたのでしょうか」
おそるおそるといった口調でイエルが尋ね、問われたヴィアはいたずらっぽく口角を上げた。
「勿論致しましたわ」
勿論なんだ……。
もしかするとそうではないかと疑っていたが、本当にしていたとは思わなかった。
「ははは……左様ですか」
一方のイエルは無難に相槌を打ったが、その後の言葉が続かないようだ。
そんなイエルを横目で窺いながら、夫が戸惑うのも無理はないわとマリアージェは小さな溜め息をついた。
あれは平民達がするお遊びで、間違っても皇族貴族がするような事ではない。
マリアージェがそんな事を考えていれば、横からシアが恥ずかしそうに口を挟んできた。
「あの……、実はわたくしも硬貨投げをした事がございますのよ」
「え。シア様も?」
「はい。どうしても叶えたい願いがありましたので」
マリアージェはまじまじとシアを見た。
溌溂として茶目っ気のある皇后陛下はともかく、臆病で慎重そうな小動物系のシア嬢がそんな事を試していたなんてちょっと信じられない。
というかアンシェーゼでは、人目を忍んで掌広場に行き、始祖帝の銅像に尻を向けて硬貨を投げるというのが、お貴族様あるあるになっているのだろうか。
「……硬貨投げって、こちらの貴族社会ではそんなに浸透している事なのでしょうか」
半信半疑で問いかければ、「勿論違いますわ」とシアは慌てて否定してきた。
「普通の貴族はそんな事は致しません。そもそも硬貨投げという言葉自体も知らないと思います」
「ですよね!」
マリアージェはちょっとほっとした。
「わたくしは偶々セルティス殿下から教えていただいて……」
そう言いかけたシアは、あっという顔で口に手を当てた。
「まさか、殿下もされましたの?」
「え……いえ、あの……」
肯定も否定もできずに口ごもるシアに、ヴィアが笑いながら声を掛けた。
「大丈夫よ、シア。
貴女が今ここで言わなくても、いずれセルティスが自分で暴露するわ。
だってあの子にとっては、硬貨投げは武勇伝ですもの」
武勇伝なんだ……。
マリアージェは笑い出しそうになり、慌てて緩みかけた口元を引き締めた。
美々しく頭が切れるという皇弟殿下は、どうやらお茶目な一面も持ち合わせているようだ。
「そう言えば、セルティス殿下はご幼少の砌は大層ご病弱であったと伺っております。
今はお体の方は大丈夫なのでしょうか」
イエルが改めて尋ねかけると、ヴィアは困ったように微笑んだ。
「セルティスは、昔も今も健康です。病弱であったというのは単なる方便ですわ」
「方便……ですか?」
「ええ。あの子は皇位継承権を持つ皇子でした。
心身ともに健やかである事が周囲にばれたら、皇位継承争いに巻き込まれて殺されてしまうと、わたくしと母は思ったのです。
ですからあの子を十二年間も紫玉宮に閉じ込めました。
……今思えば、あの子には本当に惨い事を致しました」
やや打ち沈んだ声でそう続けたヴィアに、
「そのような事はおっしゃらないで下さいませ」
と柔らかく言葉をかけたのはシアだった。
「殿下を守るためにされた事です。
殿下もその事はよく承知しておられますわ」
「確かに当時、セルティス殿下は難しいお立場にあられました」
イエルは静かに言葉を足した。
「お守りするのに、それ以外の策はなかったでしょう」
「そうですとも! それにわたくしに言わせましたら、今、生きておられるという事が一番重要ですわ」
マリアージェが力強く断言すれば、ヴィアはようやく愁眉を解いて微笑んだ。
「おっしゃる通りね。
セルティスは自由を取り戻し、念願の硬貨投げにも挑戦して、好きな女性も手に入れたわ。
確かに、生きていればこそできた事ね」
マリアージェは離宮に捨て置かれていたかつての自分を思い起こし、それよりもはるかに長い年数を宮殿に閉じ込められて育った弟皇子の苦しみに思いを馳せた。
父パレシスは目に留まった女性に手をつけて次々と子を孕ませたが、子には一切の興味を示さず、ほとんどの子が皇族の恩恵に与る事なく放置されていた。
唯一の例外が皇后を生母に持つ第一皇子アレクだ。
帝位に最も近い皇子と言われ、周囲から傅かれて育った兄皇子には望んで得られぬものはないとマリアージェは勝手に思い込んでいたが、実のところはどうだったのだろうか。
皇后というこれ以上ない後ろ盾を持ち、才にも恵まれていた第一皇子を、パレシス帝は最後まで世継ぎに据えようとしなかった。
中途半端な立ち位置に留められていた兄が、その事に葛藤を覚えなかった筈がない。
「皇帝陛下も硬貨投げを楽しまれた事があるのでしょうか」
ふいとそんな疑問が口をつき、マリアージェは自身でも驚いた。
動揺を隠せずに瞳をさまよわせたマリアージェに、ヴィアは優しい眼差しを向ける。
「……陛下はされていないわ」
ややあって、ヴィアは淡い吐息と共にそう答えた。
「民の暮らしを知るために、お忍びでミダスの街には出かけられていたようだけど、そういったお遊びは一切されなかったみたいね。
わたくしが掌広場の話をしたら、驚いておられましたもの」
「……皇帝陛下はどのようなご幼少を過ごされていたのでしょうか。
わたくしは陛下の事をずっと、これ以上ないほどに恵まれた人間だと思っておりましたの。
離宮に閉じ込められて育ったわたくしと違い、陛下は常に華やかな場所におられましたから」
「傍目から見ると確かにそうね」
ヴィアはゆっくりと頷いた。
「けれど、陛下は孤独であられたわ。
パレシス帝はあのようなお方だし、トーラ皇后も血を分けた我が子としてアレク陛下を愛されている訳ではなかった。
次期皇帝となる事だけを望まれて、そこから逃げ出す事は陛下には許されていなかったの。
血筋に優れ、為政者としての才にも恵まれておられたけれど、歩んで来られた道は決して容易くはなかったと拝察するわ」
「……わたくしはずっと陛下の事を、どこかで羨んでおりました」
マリアージェは正直にそう告白した。
「けれどよくよく考えれば、わたくし以上に不自由な生活を、陛下は送っておられたのかもしれませんわね」
あの当時の自分には何も見えていなかった。
兄だけが人生の勝ち組に見えて、だから余計に感情を拗らせてしまったのかもしれない。
「皇帝陛下がご結婚された時、わたくしは正直驚きましたのよ。
こういう言い方はおかしいのかもしれませんが、もっと打算的な結婚をされるものだと信じ込んでいましたので」
遠慮のないマリアージェの物言いに、ヴィアは小さく噴き出した。
「そうね。ご自身もそのおつもりでおられた筈よ。
わたくしもこんな未来が訪れるなんて夢にも思っていなかったわ」
そして呟くように言葉を続けた。
「寂しいご幼少期を送られていた陛下にとって、わたくしは初めての家族だったの。
だからアンシェーゼにとって何の利もないわたくしを、妻にと強く望まれた気がするわ」
マリアージェは黙って頷いた。
皇后との出会いによって兄はおそらく変わったのだろう。
ひとりぼっちでスランに嫁いできた幼いマリアージェにイエルが寄り添ってくれたように、皇后は孤独に慣れていた兄の心に朗らかさと温もりを与え、家族を気遣う優しさを教えていったのだ。
「マリ様は今、幸せ?」
不意にそう問いかけられ、マリアージェは隣に座していたイエルの顔をゆっくりと仰いだ。
視線に気付いたイエルが優しい眼差しで頷いてきて、マリアージェは笑みを深くする。
「はい。幸せですわ」
ひさがれるようにして皇宮を出された過去は遠く、ぶれる事のない夫の愛に包まれて、マリアージェはこの上もなく幸せだった。