型破り元皇女の里帰り2 ~皇宮にて~
そうこうするうちに馬車は街の中心部を抜け、皇宮と市街地を分けるサヴェッロ橋にさしかかったようだ。
馬車の進みがゆっくりとなり、いよいよ皇宮に入るのだとマリアージェは気持ちを引き締めた。
アンシェーゼの皇宮は北東を流れるボルベーゼ川を天然の要害としていて、この川には全部で四本の橋が架かっている。
マリアージェ達が入城するのは正門のサヴェッロ橋で、橋の手前では厳重な検問が行われていたが、今回は皇家から渡されていた通行証を見せるまでもなく、スムーズに橋を渡る事ができた。
マリアージェ達の訪問に合わせて国境に三大騎士団の騎士が遣わされていて、彼らが道中の案内と警護を担い、検問所でも身元を保証してくれたからだ。
正門を潜れば美しく手入れされた広大な庭園が見渡す限り広がっていて、二人は思わず息を呑む。
まるで別世界へ来たようだ。
「すごいな」
思わずといった口調でイエルが呟き、
「向こうを見てごらん。一段地面を掘り下げて、中央に池を作っている。
池の周囲に植えられた草花がまるでカーペットのようだ」
「きれいな幾何学模様になっていますわね」
マリアージェも口元を綻ばせた。
「そう言えば、ここら一帯は湿地帯だったのですって。
湿地から水を抜くために大下水道が作られて、いくつかの小川は庭園を彩る噴水を作るために残されたと聞いていますわ。
水の豊富な土地ならではの工夫なのでしょうね」
「きれいな水を潤沢に使えるのは豊かさの象徴だ。
ああ、今度は湖のように大きな池が見えてきた。いかにも涼しげで心地良い」
「池の周囲に配された石像は何かしら。
伝説の聖人? いえ、違いますわね。剣を佩いていますもの」
「君のご先祖なんじゃないか?」
「そうかも。
まあ、騎馬の像もありますわ。今にも駆けだしそうな馬の躍動感がとても素敵」
「馬より人間を褒めてやったら?」
イエルは思わず笑い出し、寛いだ様子で背もたれに体を預けた。
「それにしても途方もない敷地面積だな。川沿いに大聖堂もあると聞いているが、あの樹林の向こう側だろうか」
「そうかもしれませんわね。
そこでは年に数度、民へのお披露目がされるとか。
何でも聖堂上部のテラスから皇帝陛下が民に手を振られるらしく、その日は途方もない数の民が押し寄せると聞いた事がありますわ」
「統治者が民の前に姿を見せるのはいい事だ」とイエルは頷いた。
「たとえ豆粒のようにしか見えなくても、そうした親しみが皇家への忠誠を強くしていくからね。
そう言えばこの十二月には、その大聖堂でセルティス皇弟殿下が結婚式をあげられるんだったね。
さぞや盛大な式になるだろう」
「殿下の婚約者は一体どんな方なのでしょうか。
今回の家族会にも出席されるそうですし、お会いするのが楽しみだわ」
そんな事を二人で話している間に、馬車は一旦北に進路を切った。
コの字型をした本宮正面ではなく、右翼棟にある迎賓宮に直接向かうためだ。
マリアージェ達は旅支度で皇宮に到着しており、馬車内には旅中の荷物も多く積まれている。
二台目の馬車には旅に疲れた子ども達と使用人が乗っており、本宮正面に馬車をつけられてはいろいろと困るのだ。
一旦迎賓宮に案内され、持ち運んだ荷物等を片付けた後、改めてもてなしを受ける事になっていた。
やがて馬車は迎賓宮の入り口に到着し、マリアージェらは待ち構えていた大勢の使用人らに迎えられた。
続く馬車からは四人の子らが降りてきたが、エントランスに降り立ったアルフォンドらは、眼前に広がる宮殿の光景に思わずぽかんと口を開けた。
床だけは大理石でできていたが、壁も天井も金泥が惜しみなく使われていて、そのインパクトが半端ない。
美しい天井画は金色の円形の額で縁取られ、煌びやかなシャンデリアが吊り下がっている。
見渡す限り金色の世界で、上品なレリーフが施された円柱までが金色だった。
アンシェーゼを訪れた貴賓らは宿泊場所としてこの迎賓宮にまず案内され、皆、目を丸くしたに違いない。
「トラモント卿夫妻はもう来られているの?」
出迎えた宮殿長に妹夫妻の事を尋ねれば、宮殿長は恭しく腰を屈め、
「まだご到着ではございません。先ほどミダスに入られたと報告がありました」と答えてきた。
「そう。到着したら知らせてもらえるかしら」
「畏まりました」
異母妹のリリアセレナとは、一年余り前にスラン公国のプランツォ邸で会って以来となる。
四月に男の子を出産したリリアセレナは産後の経過も良好で、子もすくすくと育っていると便りが来ていた。
リリアセレナの回復が順調であった事から、夫のユリフォス・トラモント卿が今秋にアンシェーゼを訪れたいと皇后に申し出て、そのため一年遅れで家族会が開催される運びとなったのである。
マリアージェとイエルはそのまま三階の居室に案内され、子ども達はそのすぐ隣の居室を与えられた。
馬車の中ではずっと興奮状態で外を見て騒いでいたというから、おやつの後はおそらく午睡になるだろう。
連れてきた侍女が荷ほどきをする間、イエルとマリアージェは窓に面した応接の間で一息つく事にした。
迎賓宮の侍女に頼んで手と口を軽く濯がせてもらい、鏡の前で髪と衣服の乱れを確かめる。
少ししたら皇后陛下がこちらに渡られると聞いていたので、失礼のないようにしておきたかった。
身嗜みを整え、窓に面した居間で寛いでいると、迎賓宮の侍女がショコラと紅茶を運んで来てくれた。
バラの花を模ったショコラがガラスの器に上品に盛られている。
疲れていたマリアージェは早速それをいただいたが、濃厚なショコラの風味が口中に広がり、旅の疲れが一気にほどけていくようだ。
「皇后陛下がわざわざこちらに足を運ばれると言っていましたわね」
「ああ。本来なら私達の方から伺うべきところだけれど、着いたばかりで呼び出すのは忍びないと思われたのだろう」
「お会いするのが楽しみだわ」
マリアージェはほうっと小さな溜め息をついた。
「家族会なんて突拍子もない事を考えつかれる方ですもの。きっと朗らかでお優しい方に違いないわ」
ふと窓の外に目をやれば、真っ青な空に薄い雲が筋のように広がり、端の方で境界を曖昧にしていた。
澄み渡った青い空とうっすらとした白の対比が美しい。
ようやく待ち望んだ秋が来たのだと、マリアージェは口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「今宵の晩餐会はどんな感じになるのかしら。
皇后陛下にはもうすぐお会いできるとして、他の方々はどんな方達なのでしょう。
リリア夫婦以外の六人とは面識がありませんし、少し緊張しますわね」
晩餐会に出席するのは皇帝夫妻と、皇妹であるマリアージェ、リリアセレナ、セディアの三組の夫婦、それに皇弟セルティスとその婚約者であるカルセウス家の令嬢である。
まだ社交デビューを済ませていないマイラ皇女とロマリス皇子には、明日会わせてもらえる段取りになっていた。
「そう言えば、リリアがついこの前、面白い事を便りに書いてきましたわ。
セディア様が嫁がれたルイタス・ラダス卿ですけれど、どうやらマティス公国やスラン公国を訪れた事があるのですって」
「え。そうなの?」
イエルは驚いたようにマリアージェを見た。
「ええ。トラモント卿がおっしゃっていたそうですわ。
四年前だったかしら。マティスの公女殿下の結婚式典が行われた時、アンシェーゼの皇帝からの祝意を伝えるために公国を訪問されたのがラダス卿であったとか。
マティス公国からパリス公国へ向かい、その後スラン公国にも寄られたそうです」
「そうか。当時セルティス殿下は騎士学校在学中でいらっしゃったね。
だからラダス卿が名代となられたのか」
「ええ。名門出身で、陛下の側近として名が知られておりましたから、ちょうど良かったのでしょう。
トラモント卿は直接話はしていないそうですが、お父君のアンテルノ卿はラダス卿とお話をされたと聞いていますわ」
「そうだったんだ。ではその後に、パリス公国とスラン公国に立ち寄られたという訳か」
そう呟いたイエルは、急に何かを思い出したようにあっと小さく声を上げた。
「ラダス卿……! そうか、あの方か」
「イエル様もご存じでしたの?」
「知っていると言うか、こちらが一方的に姿を見かけただけだ。
当時、アンシェーゼの高位貴族がスランを訪れていると噂にもなっていたんだが、君は憶えていないかな?」
「そうでしたかしら……」
「君はイリアーナを産んでひと月経つか経たないかといった頃で、まだ体調を戻していなかった。
寝付く日も多かったし、わざわざ君には伝えなかったのかもしれない」
「そう言えばあの頃は、ちょっとした事で熱を出しておりましたわね」
四度目の出産は危うく死に掛けるところで、体調はすぐに戻らなかった。
寝台の上で一日を過ごす事も多く、イリアーナの顔も余り見に行けなかった。
そんな状態であるから、社交は言わずもがなである。
「私はたまたま公都のクラブで、ラダス卿をお見かけしたんだ。
アンシェーゼの高位貴族が来ていると知り合いが教えてくれて、見たら二十代半ばの青年が旧家の当主らと酒を嗜んでいた」
「クラブで見かけただけのお方をよく憶えていらっしゃいましたこと」
マリアージェが感心すると、
「あー……、少し記憶に残るような事があってね」
イエルはちょっと言いづらそうに瞳を伏せた。
「あまりいい印象を持たれなかったという事ですか?」
「いや。申し分ない貴公子だったよ。
名門の出で容姿にも優れ、その佇まいからも穏やかな人柄が偲ばれた。
物腰も優美でいかにも洗練された宮廷人という感じだったけど、それだけではなく胆力も窺えた」
「あら。いい事づくめではありませんか」
「うん。ただその時にね、急な報せがラダス卿にもたらされたんだ。
国許から文が届いていますとマネージャーが紙片のようなものをラダス卿に渡してきて、それを見たラダス卿が一瞬虚を突かれたように立ち竦んだ。
勿論それは一瞬の事で、すぐに何事もなかったように笑みを浮かべて場を辞したのだけど」
「何の報せだったんでしょうね」
「それから二、三か月くらいして、偶然その理由を知った。最初の奥方が事故で亡くなられたそうだ」
「え」
「夜会に出席されていて、帰りの馬車がたまたま崖崩れに巻き込まれたと聞いた。
結婚されて、半年経つか経たないかといった頃だったと思う」
「まあ。お気の毒に」
「それを知って複雑な気分になった。
勿論お気の毒だとは思ったが、もし私が同じ立場に立たされたら、あれほど平然と受け止める事はできなかっただろうと……。
こういう言い方が正しいのかどうかわからないが、非常に淡泊な方だと思った。
公と私をきちんと分ける事ができる方で、それは貴族として賞賛に値するんだが」
口を濁すイエルに、マリアージェも返す言葉を失った。
夫の言う通り、ラダス卿の振舞いは貴族としては申し分ない。
大国の皇帝の側近が他国の貴族らの前で取り乱すなどあってはならない事で、ラダス卿は名にふさわしい態度をとったのだ。
けれどそこに、人としての温もりが感じられなかった。
マリアージェはそのラダス卿と結婚した妹セディアを思った。
嫁いだシーズ国で義父母からひどい仕打ちを受け、それを知ったアンシェーゼ側が結婚無効をもぎ取って国に帰させたと聞いている。
帰国に尽力したラダス卿と結婚し、幸せな家庭生活を築いていると信じ込んでいたが、実際はどうであるのだろうか。
それぞれの物思いに浸り、無言でテーブルの辺りを見つめていれば、軽いノックの音が響いて皇后陛下の到着が知らされた。
「皇后陛下とカルセウス卿のご息女、オルテンシア様が迎賓宮に到着された由にございます。まもなくこちらにお渡りになるそうです」
マリアージェとイエルは顔を見合わせた。
オルテンシア・ベル・カルセウスはセルティス皇弟殿下の婚約者だ。
家族会の中では、皇后に続いて身分の高い女性となる。
迎賓宮のエントランスホールで陛下をお出迎えする予定だったが、お二人はすでにこちらに向かわれているようだ。
ならば居室の入り口でお二人をお迎えすべきだろう。
イエルが微笑みながら手を差し出してきて、マリアージェはその手にゆっくりと手を重ねた。
一年半前に文をいただいた日から、ずっとこの日を待ち侘びていた。
心を落ち着けるように一つ大きく息を吐き、マリアージェは夫の手を借りて軽やかに立ち上がった。