型破り元皇女の里帰り1 ~追憶~
マリアージェがイエルや子ども達と一緒にアンシェーゼを訪れる物語です。初めて会う父方の家族との交流、生き別れとなっていた母との再会など、里帰りの様子を描いてみました。
懐かしい夢を見ていた。
マリアージェがアンシェーゼの離宮で、母のセルデフィアと共に暮らしていた頃の夢だ。
その離宮には小さな庭園があって、マリアージェと母は、照り付けるような炎天の日も、秋の長雨が続くどんよりとした日も、凍えるような風が吹きすさぶ冬の日にも、一日一度は必ず外に出ていた。
だって、庭園には変化がある。
例えば、塀近くに植えられていた大手毬の木。
春になれば冬枯れていた枝に一斉に新芽が出始める。
茶褐色の芽から羽毛に包まれたような白い芽が膨らんだかと思うと、瞬く間にそれが解けて若々しい新葉となり、気付けばそこに緑がかった蕾をつけていた。
咲いたばかりの頃は葉と同じような色合いをしているのに、小さな花弁は日一日と白さを増していく。
夏に向けて衣替えをしていくように花の色を際立たせていき、最後には緑の庭を彩る真っ白な毬となって、マリアージェ達の目を楽しませてくれた。
秋が近付けば、丸みを帯びた緑の葉は外側から次第に黄みを帯び始め、やがて濃いオレンジ色へと変わっていく。
鮮やかな紅葉を楽しむうちに秋はだんだんと深くなり、そのうちに葉は音もなく梢を離れていき、枝だけが残った木立の間を冷たい冬の風が吹き抜けていった。
他にも色とりどりの花が、季節を鮮やかに彩った。
甘やかな香りで初夏の訪れを告げる、涼やかな花弁のクチナシ。
春から夏にかけては、黄色い花芯を持った深紅のクレマチスが庭園の主役となった。
身を切るような寒さの冬には、毛氈花壇に植えられたノースポールや三色のパンジーが、庭を訪れたマリアージェ達を優しく出迎えてくれた。
庭園には白いベンチが置いてあって、マリアージェは母と毎日のようにそこに行き、二人でよくお喋りをした。
家庭教師から教わったお勉強の事、木や花々のちょっとした変化。
人目がない事を確認して父帝の事をぼろくそに言ってみたり、たわいもない言葉遊びを二人で楽しんだり、母と過ごす時間はいつも楽しかった。
そう言えば、母は空を見上げるのが好きで、暇さえあれば空を仰いでいたような気がする。
「どうしてそんなにお空が好きなの?」
ある日マリアージェがそう聞くと、
「空はいろいろなところに繋がっているから」
と母は柔らかな笑みを浮かべて答えた。
今思えば、母はいずれ自分達が引き離されてしまう日の事を考えていたのだろう。
だから一緒に暮らせる間に、マリアージェが一人で生きていけるだけの強さを教え込もうとした。
「マリアージェ。貴女はこの国の皇女なの。
いずれ、国の政に巻き込まれてどこかに嫁がされるわ」
時折、思い出したように母の口から紡がれるその言葉を、幼いマリアージェは軽く聞き流した。
だって小さなマリアージェの傍にはいつも母様がいたし、母と暮らす幸せなこの日々がある日突然なくなるなんて考えたくもなかったからだ。
「いい事、マリアージェ。貴女がどこに嫁ぐにせよ、しぶとく強かに生きていくのよ。
朝が来ない夜はないわ。
同じように、どんなに辛い時があっても、希望は必ず貴女に用意されるの。
もし遠い未来、貴女と私が離れ離れになる事があっても、同じ空のどこかで母様はマリアージェの幸せをいつも祈っているわ。
どうかその事を忘れないで」
遠い未来と母は言っていたが、その未来は母が想定していたよりもずっと早くマリアージェの許にもたらされた。
七つのある日、突然父帝の使いが離宮を訪れ、マリアージェは自分がスラン公国の貴族に嫁ぐ事を知らされたのだ。
スランへ向かう馬車に乗せられたのは、それから僅か半年後の事だった。
生まれ育った離宮を離れる日は、朝からしめやかな雨が降っていた。
灰色の雲が空を覆い、天から降り注ぐ雨が、まるでマリアージェの代わりに泣いてくれているかのようだった。
悲鳴のようにマリアージェの名を呼ぶ母の声を、マリアージェは今も朧に覚えている。
母はマリアージェの乗る馬車に泣きながら追いすがろうとして、両側にいた使用人に力づくで押し止められていた。
マリアージェは窓から顔を出して必死に母を呼んだが、車輪の音にかき消されておそらく母の許には届かなかっただろう。
離宮は見る間に遠ざかっていき、やがて馬車が緩くカーブを描くと、豆粒のように小さくなった母の姿さえ見えなくなってしまった。
声を限りに母を呼び続けたマリアージェは、無力感に打ちひしがれて馬車の背もたれに体を埋めた。
この日のために用意された一張羅のドレスに、涙がぽとぽとと染み込んでいく。
マリアージェは小さな拳をぎゅっと握り締め、瞼の奥に浮かぶ母の面影だけを一心に追った。
ガタゴトと馬車が揺れている。
これは夢だとマリアージェにはわかっていた。
母との別離はもうずっと昔の話で、今の自分は優しい日常に囲まれている筈だ。
けれどどうしても、この苦しい夢から抜け出せない。
七つに戻ったマリアージェは独りぼっちで母の姿を探していた。
傍を幾人かの女の人が通り抜けるのに、どれが母なのかわからなかった。
母の面影はぼんやりとした闇に沈んでいて、断片的に記憶が頭をかすめても、捉まえる前にすぐに解けてしまう。
マリアージェは焦っていた。
これでは再会できたとしても、自分は母に気付かないかもしれない。
会いたくて会いたくて堪らないのに、女性達は次々とマリアージェの傍らを通り過ぎて行き、ひっそりと静まり返った薄暗い世界にマリアージェ一人が取り残される。
母様、行かないで……!
どこにいるの?
遠ざかっていく女性達を必死に呼び止めようしたが、喉が張り付いたように言葉は出て来なかった。
このままでは二度と会えなくなってしまう……!
早く、早く呼び止めないと……!
薄闇の中でもがいていると、不意に優しい声がマリアージェの名を呼んだ。
「マリアージェ……、マリアージェ……!」
軽く肩を揺すられ、マリアージェはゆっくりと意識を浮上させる。
「あ……」
目を開けると、自分を覗き込む、夫イエルの優しい顔が見えた。
「イエル……様?」
「随分魘されていたよ。大丈夫?」
気遣わしげにそう問いかけられ、マリアージェは荒い息をつきながらゆっくりと辺りを見回した。
まず目に入ったのは、荷物の置かれたソファー席だった。
ロイヤルブルーのビロードが張られていて、その横に広めにとられた窓が見える。
窓の外の景色がゆっくりと後ろに流れていくのを見て、マリアージェはようやく、ここがアンシェーゼ皇宮に向かう馬車の中だと気が付いた。
賑やかな街の喧騒が、今更ながらにマリアージェの耳を打つ。
車窓からは優しい陽光が差し零れており、心地良い馬車の揺れに、自分はいつの間にかうとうとと微睡んでいたようだった。
マリアージェはイエルの肩に預けていた頭を起こし、乱れていた髪を手でそっと撫でつけた。
指先に触れる肌は僅かに汗ばんでいて、どうやら本気で魘されていたらしい。
心臓がまだどくどくと嫌な音を立てている。
「ごめんなさい。昔の夢を見ていたようですわ。
……それよりここはどの辺りですの?
もう皇都ミダスには入ったのでしょうか?」
そう問いかけると、
「ああ。そろそろ大通りに入ったところだ。
見てごらん。よく整備されて、気持ちのいい街並みだ」
イエルがそう教えてくれ、マリアージェはゆっくりと窓の外の景色に目を向けた。
ミダスの街道は馬車がすれ違えるだけの十分な広さを持ち、両側には歴史を感じさせる石造りの建物が並んでいる。
建物の手前には馬車道と歩道を分けるように銀杏の木が植えられて、豊かに葉を茂らせていた。
季節はまだ初秋で葉は色づいていない。
空に向かって枝を大きく伸ばし、汗ばむような秋初めの陽射しから道行く人々を守っていた。
マリアージェは眩しそうに目を細めた。
路上には、旅の格好をした者もいれば、使用人を従えて買い物を楽しんでいる商家の令嬢らしき女性もいる。
街は華やかな活気と明るさに満ちていて、眺めるだけで心が弾んでくるようだった。
「まあ。イエル様、あれをご覧になって」
マリアージェは道の右側から上に向かって伸びる幅広の石階段を見つけ、思わず声を上げた。
階段を上り切った先には尖塔を持つ堂々たる教会が立っていて、要所要所に配された白が薄青磁色の建物に映えて目に美しい。
「すっきりとした佇まいだね。何だか心が洗われるようだ」
イエルの言葉に、マリアージェも「ええ」と頷いた。
「昨日見た聖教の教会は、瓦が柔らかな朱色でどこか温もりを感じさせましたが、こちらの教会は瀟洒という言い方がぴったりきますわね。
……あら、あちらに見えてきた建物は何かしら。
あちこちに金泥が使われていて、随分豪華ですこと」
「多分、あれが歌劇場なんじゃないかな。
ほら、馬車が多く横付けされて、着飾ったご婦人らの姿も見える」
「では、あれが有名なミダスのサロンなのですね」
マリアージェはぱっと顔を明るくした。
「サロンによって様々な趣向がなされていると聞いておりますわ。こちらにいる間に一度行ってみたいものですけど」
「皇后陛下にお勧めのサロンを聞いてみてはどうだろう。
きっといろいろと教えて下さる筈だよ」
そんな風に二人でしばらく街の景色を楽しんでいたが、ややあってイエルが神妙な面持ちで口を開いた。
「君にとっては十九年ぶりの里帰りとなる訳だけど、何か見覚えのある景色はある?」
その問いに、マリアージェはちょっと沈黙した。
「……あの時も同じ道を通った筈ですけど、何も覚えていませんわ。
多分、外の景色を見ていなかったのだと思います。
唯一記憶に残っているのは、皇宮と街を隔てる橋を渡り終えた瞬間に体を包み込んだ賑わいだけ。
街に暮らす人々の営みがぐんと間近に迫ってきて、とても寂しかったのを覚えていますわ」
「寂しかった?」
不思議そうに問い掛けてくるイエルに、
「ええ。外の世界はこんなに明るくていろんな音に溢れているのに、わたくしは独りぼっちだと感じたから」
当時を思い出し、瞳を翳らせたマリアージェの手を、イエルはしっかりと両手に包み込んだ。
「今は私が傍にいるよ」
「ええ。そうですわ。今は貴方がいらっしゃるから、少しも寂しくありません」
マリアージェは幸せそうに微笑み、傍らに座るイエルの肩にそっと頭を乗せた。
馬車の中は二人きりなので、人目を気にする必要がない。
家族六人に侍女と乳母を加えた八人の旅だったが、マリアージェ達の乗る馬車に主に荷を載せ、子ども達の乗る馬車にはなるべく荷を積まないようにしていた。
何と言っても後ろの馬車には、九つのアルフォンドを筆頭に、八歳、七歳、四歳の子どもが乗っているのだ。
何かの拍子に子ども達がぐずり始めたら収拾がつかないので、乳母の他にマリアージェ付きの侍女も一緒に乗ってもらい、子が退屈しないよう玩具も多めに持ち込ませた。
幸い、一番年長のアルフォンドがうまく弟妹らを宥めてくれているようで、今のところ馬車内では大きな騒ぎを起こしていない。
容姿だけでなく、穏やかな気質や出来の良さまでも父親からそっくり受け継いだようで、その事に喜びと頼もしさを覚えるマリアージェだった。