元皇女は再び呟く 4
マリアージェは、えっとハンスを見た。
「イエル様がおっしゃったの?」
マリアージェは勿論、リリアに喋っているが、真面目で堅物のイエルがそんな事を他人に話していたなんて信じられない。
「別に話してはいません」
ハンスはあっさりと否定した。
「挙動不審になるからわかるんです。
いつまで我慢できるだろうとか、あんなに柔らかいなんて知らなければ良かった……とか横でぶつぶつ言われたら、何となくわかるじゃないですか」
因みにハンスは、弟のように思っていたイエルと娘のように可愛がっていた(当時は反抗期だったが)マリアージェがそうなったと知って、非常に生あたたかい気分になった。
夫婦だから別に何をしても構わないが、できれば家族の生々しい事情は知りたくないなと辟易していた事をよく覚えている。
一方のマリアージェは、初めての口づけの話をされた事で、当時の事を思い出していた。
嫁いで以来、ずっと小さなマリアージェを抱いて眠ってくれていたイエルは、マリアージェに初潮が訪れた事で、マリアージェを寝所から遠ざける事に決めた。
それまではマリアージェがせがむ度に膝の上に乗せてくれ、マリアージェが頬を寄せても首に抱きついてもあやすように抱き返してくれていたのに、そうした過剰なスキンシップが一切許されなくなって、マリアージェは拗ねまくった。
今ならば夫の行動は無理からぬ事だと理解できる。
だが当時は一緒に眠れなくなった事が寂しくて悲しくて、マリアージェは散々夫を困らせていたように思う。
マリアージェは別々に眠るのは嫌と散々駄々をこね、その時にイエルはマリアージェの顔を寄せ、初めての口づけをくれたのだ。
二度目の口づけは、十四歳の春だった。
邸宅の庭を二人で散歩していたら、だんだんとイエルが寡黙になって、何か機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろうかと不安になってその顔を仰げば、木立の影に誘われてそっと抱き寄せられた。
「マリアージェはだんだんと美しくなるね。君が眩しくて、時々胸が痛くなる」
イエルの瞳に時折浮かぶ熱のようなものに、それまでは気付かないようにしていたけれど、熱い眼差しで見つめられて、体がかっと熱くなった。
近付いてくる唇にゆっくりと瞳を閉じれば、柔らかな口づけが唇に落とされて、マリアージェは初めての口づけを知った。
そんな追憶にマリアージェがしみじみと浸っていたら、何を考えていたのかがわかったのだろう。
ハンスがあからさまに嫌な顔をした。
「体が痒くなるので思い出に浸るのは止めてもらえますか」
遠慮なくそう切って捨てた上で、「取り敢えず、イエル様が恥ずかしがるので細部にわたって恋バナをなさるのはお止め下さい」と釘を刺してきた。
「わかったわ」
親代わりのハンスに言われて、マリアージェは渋々と頷いた。
でも言わせてもらえば、マリアージェだって誰かれ構わずこんな話をする訳ではない。
伯母様達に話したらイエルが恥ずかしがるとわかっていたので、「伯母様達のお陰で申し分ない夫婦生活が送れています」としか伝えていない。
「ああ見えて、すごいんですの」と言ったら伯母様達は大喜びしていたけれど。
そう言えば、この前リリアには、イエル様から教えてもらった避妊法について事細やかにレクチャーした。
リリアは排卵の周期を避けるという事くらいしか知らなかったので、真っ赤な顔をしながらも興味津々に耳を傾けていた。
反応が余りに初々しかったので、マリアージェはついでに、伯母様方直伝の『貴婦人の夜の嗜み』についてもあれこれと教えてあげた。
蚊の鳴くような声で「今度頑張ってみます」と言ってきたリリアは、今思い出しても非常に可愛らしかった。
隣国に暮らす妹にほのぼのと思いを馳せるマリアージェである。
「言い忘れておりましたが、先ほど奥様にお茶会の招待状が届いておりました」
ややあってハンスが思い出したように一枚の招待状を手渡してきて、その送り主の名前を見てマリアージェは「あら」と唇を綻ばせた。
「グクル卿夫人からだわ」
イエルの異母弟セガーシュが妻を寝取った事でグクル家とプランツォ家は一時期は敵対関係にあったが、セガーシュが両親と共に頭を下げて莫大な慰謝料を支払った事で、何とかあの一件はおさまった。
金に汚くないグクル卿はその慰謝料をすべて慈善団体に寄付し、その後も親を失った子を育てている窮児院に度々顔を出していたようだが、そこで一人の敬虔な貴族女性と知り合って再婚した。
それが今のフィリア夫人である。
フィリア夫人はマリアージェより七つ年上で、周囲をふわりと優しい気分にさせるような、穏やかで慎ましやかな女性だ。
グクル卿とフィリア嬢は互いへの信頼と愛情をゆっくりと育てていき、知り合ってから二年後に結婚した。
夫人との間に二男一女をもうけたグクル卿は以前の気難しそうな険も消え、今は見違えるように穏やかで自信に満ちた貴族男性となっている。
今はプランツォ家とも互いの家を行き来する関係になっているのだから不思議なものだ。
「以前の両家の確執が嘘のようね」
マリアージェが思わずそう呟けば、「イエル様の人格の賜物でしょう」と得意そうにハンスが返してきた。
「あれほどイエル様にやらかしてきた妹君らの事も見捨てず、当主として多方面に気を配っておられましたからね。
あれほど度量の大きいお方はおられません」
「そうね。イエル様の対応のお陰で妹たちの嫁ぎ先は社交界から爪弾きにされずに済んでいるし、今もあの三家はイエル様に頭が上がらないみたい」
「あのセガーシュも、イエル様の薫陶が堪えたのか、今も何とかまともに暮らしているようですしね」
ハンスの言葉にマリアージェは思わず苦笑した。
イエルの異母弟のセガーシュはすでに貴族籍を抜けているため、敬称をつける必要はない。
裕福な商家の婿となって、何とか真面目に暮らしているようだ。
「あそこは奥方がすごいのよ。
セガーシュは顔だけはいいから女性達に色目を使われる事もあるみたいだけど、鼻の下を伸ばすセガーシュに向かって、この家を出たいのならいつでもご遠慮なくとにこやかに言い切ったらしいの。
居心地の良い家庭を与えてやった上で、決してちやほやせずにうまく手綱を握っていると言うか、経営の基礎も叩き込んで商家の戦力にしているそうよ。
稼がない者、食うべからずとか言っていたようだし」
セガーシュは仕入れの部門を任されて朝から晩まで働き通しらしいが、それが満更でもないようだ。
奥方の尻に敷かれて、生き生きと働いていると人伝に聞いた。
「あのセガーシュを乗りこなせるとはすばらしいですね」
あのセガーシュがまともな普通人をする日が来るなどとは、ハンスは思った事もなかった。
いくらイエル様が救ってやっても結局は身を持ち崩すだろうと思っていたが、どうやらいい伴侶に恵まれたようである。
そんな風に穏やかに日々は過ぎて、プランツォ家に本格的な夏が来ようとする頃、思いがけない謝罪の手紙が邸宅に届けられる事となった。
「んまあ、リリアったら!」
「どうしたんだい?」
手紙を握り締めてぷるぷると震えている妻を見て、イエルは不思議そうに声を掛けた。
「あの子ったら、また子を身籠ったのですって」
「え」
「これじゃあ、家族会が延期になるじゃないの。子を身籠っている時期に、長旅なんてできないし……。
本当にもう、あの子ったら……」
皆で集まれる日を楽しみにしていただけに、がっかり感が半端ない。
リリアを除け者にして自分だけがアンシェーゼに行くという選択肢は、端からマリアージェにはないからだ。
「なんできちんと避妊しなかったのよ……」
やり方を教えたのに……という恨み言は、夫の手前なので吞み込んだ。
一方のイエルは複雑そうな顔をして「ユリフォス殿は確か私より四つ年下だったな……」などと呟いていた。
「私だってまだまだ現役なんだが……」という訳の分からない呟きはこの際聞き流しておこう。
そんな事は知っているし、そもそも張り合うところではない。
変な方向に闘志を燃やされても迷惑なだけだった。
今、二か月ちょっとだと聞いているから、生まれるのは来年の五月辺りだろう。
リリアセレナの体調次第だが、秋くらいには長旅ができるようになっているのではないだろうか。
「仕方がないわ。わたくしからも皇后陛下に一言謝罪申し上げる事にするわ」
どうせ集まるからには、家族全員で顔を揃えたい。
ぐちぐち文句を言い続けるのは性に合わなかったため、マリアージェはさっさと気持ちを切り替える事にした。
「後はそうね……。リリアの出産祝いを何にするか、ゆっくり考える事にしましょうか」
残念そうにそう呟く妻のこめかみにイエルは柔らかな口づけを落とし、宥めるように抱き寄せた。
肩を寄せ合い、出産祝いについて仲睦まじく話し合う二人だが、その後、年が明けた辺りからアンシェーゼ皇家では祝い事が目白押しとなった。
まず、ラダス卿に降嫁していたセディアが春先に待望の嫡男を産み落とし、トラモント卿夫人リリアセレナも五月に五人目を出産。
その翌月には皇弟セルティス殿下が、名門カルセウス家の令嬢オルテンシアとの婚約を発表した。
家族会では、皇帝夫妻に皇弟とその婚約者、降嫁した三人の皇妹夫妻、それに末妹と末弟が一堂に会して大層賑やかな集まりとなってゆく訳だが、それはもう少し先の話である。
お読み下さってありがとうございます。アンシェーゼの皇族一家には次々とめでたい報せが舞い込んできます。またどこかでお会いできますように。