元皇女は再び呟く 3
ハンスはごほんと一つ咳払いし、話題を変える事にした。
「そう言えばあの旅行で、アルフォンド様達は初めて海をご覧になったようですね。大層興奮なさっておられました」
「ええ。公都にあるアンテルノ家の邸宅で三泊した後、領地のエトワースにあるお城に泊めていただいたの。
堤防の向こうに大きく海が広がっていてそれは素敵だったわ」
「マリアージェ様も海は初めてだったのですよね」
ハンスの問い掛けに、マリアージェは「ええ」と破顔した。
「海があんなに青くて大きいものだとは知らなかったわ」
それから照れたように小さくハンスに笑いかけた。
「イエル様は商用であちこちに行かれていたからスランの東部で海を見た事があると言ってらしたわ。
ハンスも勿論、見た事があるのよね」
「ええ。イエル様と一緒に方々へ足を運びましたから」
懐かしそうにハンスが言う。
イエルに後継ぎのアルフォンドが生まれた辺りから、ハンスは補佐官の任を辞して、家令の職に専念するようになっていた。
イエルの領地視察に付き添う事もなくなり、少し寂しさもあるようだ。
「今度はリリアの家族をうちに招くようになるのだけれど、伯母様達にも協力してもらって、盛大な会を催したいわ。
この前は歓待していただいたし、同じように人脈をたくさん繋いでいただきたいの」
「そうですね。明日中にでもリストを作っておきましょう。
向こうでは海を見せていただいたようですが、こちらではどのようにおもてなししましょうか」
「……ツープでミツバチを見せるとか」
「今は休閑期です」
ハンスはばっさりと切って捨てた。
ミツバチがぶんぶん飛び回っているだけの時期なので絵面が地味だし、何より危険である。
「……でも他に何も思いつかないわ。もう一つの領地レーデルトは田園地帯だから畑くらいしか見るものがないし」
「では、領地にお連れするのは止めて、公都で過ごすようにしましょうか。
ご夫妻は最近公都で流行り始めたサロンにお連れして、お子様方は内庭で遊んでいただければいいと思います。
うちはイエル様がたくさんの遊具を買い集められていますからね。
ブランコとか木馬もありますし、夏場ならば噴水の辺りで水遊びというのも楽しいと思いますよ」
という事で、七月にはリリアセレナが夫、ユリフォスと四人の子ども達を連れてスラン公国にやって来た。
リリアセレナには七つと五つになる男の子がいて、下二人は女の子である。
二か月ぶりに従兄妹と再会した子ども達は大喜びで、男の子たちは意気投合して庭を駆け回り、女の子三人は女の子同士で仲良く庭遊びやままごとなどをして遊んでいた。
イエルは義妹夫妻のために盛大な夜会を催し、その他の夜はマリアージェはリリアセレナと女子会を堪能し、イエルはユリフォスと酒を酌み交わしたり、ボードゲームに興じたりして親交を深めたようだ。
滞在が終わって帰る時は両家共に別れ難く、今度は九月末にアンシェーゼで会う事を約束して、リリアセレナ達は帰って行った。
「この年になって、妹達と仲良くできるようになるなんて思いもしなかったわ」
リリアセレナ家族を見送った後、感慨深くそう呟くマリアージェである。
「九月末の家族会で兄や他の弟妹に会うのがいよいよ楽しみね。
お土産の方はそろそろ出来上がったかしら」
スラン公国は七宝焼きの有名な窯があるため、マリアージェはそこに装身具を依頼した。
七宝焼きは一見ガラスのような素材で、独特な透明感がある上に、色数も多く、美しいグラデーションも楽しめる。
男性にはタイ留めを、女性には髪飾りを注文し、それぞれの年齢や瞳の色に合わせてデザインを変えてもらっていた。
「今月の終わりには納品できると聞いています」
ハンスの言葉に、マリアージェは満足そうに頷いた。
「家族会は九月だから、もしかするとセディア様がお目出度になっているかもしれないわ」
「セディア様……。ああ、ラダス卿に嫁がれた第三皇女殿下ですね。
確か、結婚祝いにツープの最高級の蜂蜜とティーセットをお贈りしましたが」
「ええ。花ごとに違う蜂蜜は初めてだったみたいで、とても喜んでもらえたわ」
一歳にならない赤子には決して食べさせないようにという注意書きを添えて贈り、会った事のない妹からは丁寧なお礼の返事が届いていた。
後日に、アンシェーゼの最高峰と言われるナチュラルホワイトのリバーレースのショールが返礼として届いて、その美しさにマリアージェは溜め息をついたものだ。
「アンシェーゼの皇后陛下とも文をやり取りさせていただいているけど、実際にお会いするのが本当に楽しみだわ。
どんな方なのかしら。恋バナができたら素敵だけど」
そう呟いたマリアージェに、ハンスは複雑そうな視線を向けた。
「姉妹仲がいいのはよろしいですが、余り踏み入った事は話されない方が……」
妹のリリアと意気投合したマリアージェは、夫とのなれそめに関するあれこれを妹に暴露したらしい。
なんかいろんな事を義妹に知られたような気がする……とイエルが妙にわたわたしていた。
「あら。貴婦人方って、殿方には話せない結構きわどい話をするものよ。
大体わたくしに貴婦人の嗜みを教えて下さったのは伯母様達だし」
嗜みと言えば聞こえはいいが、要は夫婦生活のやり方である。
どうやって子どもを作るかとか、夫をその気にさせる仕草だとか、夫を夢中にさせる手管だとかを、マリアージェは伯母様達からばっちり習った。
それを知るハンスは何とも言えない顔で視線を逸らした。
イエルの伯母達はイエルの幼な妻のマリアージェを可愛がっていたから、マリアージェに幸せな結婚生活を送って欲しかったのだろう。
イエルとマリアージェは余りに年が離れすぎていたから、マリアージェが女性としてきちんと夫に愛されるよう、様々な薫陶を授けたのだ。
だがイエルは、マリアージェの体が大人になった辺りから女性として意識しまくっていた。
イエル曰く、マリアージェは見とれるほどに可憐で、肌はすべすべで陶磁のように白く、どこもかしこも愛らしくて非の打ち所がない。
当時はぶっちゃけ下心の塊であったが、幼い体に負担をかける事を思えば、手を出したくても出す訳にはいかず、ひたすら忍の一字で耐え忍んでおられた。
「あの頃はイエル様がお気の毒でしたね。
マリアージェ様が大事だから一生懸命手を出すまいと我慢されていたのに、皆で寄ってたかってマリアージェ様を傍に近づけようとするんですから」
「でも、イエル様は余裕でわたくしをあしらっておられたように覚えているけど」
「そう見えたなら幸いです」
泣き言を聞くのはいつもハンスだった。
幼いマリアージェの体を傷つけてはいけないと、イエルは鉄壁の理性を総動員してマリアージェが十六になるまで待ち続けたのだ。
「一人で抱え込むのが辛かったのか、よくぼやいておられましたよ。
お陰で私はイエル様の口づけ事情まで知ってしまう羽目になりましたけど」
次回でこの短編は終了となります。お付き合い下さいまして、ありがとうございました。