元皇女は再び呟く 1
マリアージェの結婚生活を描いた短編です。『元皇女の独り言』の方には次話投稿ができなかったため、夫イエルの方に投稿する事にしました。
眩いばかりの新緑に包まれた初夏のある日、親しい夫人のお茶会から戻ったマリアージェは、いつものように玄関口まで出迎えにきた家令のハンスに「子ども達はどこ?」と尋ねかけた。
夫、イエルより八つ年上のハンスは、今年でもう四十七となる。
イエルの補佐官兼相談役として公私にわたってイエルを支え続け、現在は家令としてこのプランツォ家を取り仕切る。
プランツォ家にとっては、まさになくてはならない存在だ。
イエルは今もこのハンスを兄のように慕っているし、マリアージェにしても、思春期の頃、散々ハンスに反抗期をやらかした経緯もあってハンスにだけは頭が上がらない。
我ながらとんでもない迷惑と世話をかけてきたなあと、このハンスについては秘かに反省しているマリアージェである。
八つの頃から可愛がってもらっていたので嫌われるとか見捨てられるとかいう心配が全くなく、その分、安心して反抗しまくった。
結果、ハンスには嫌というほど叱られたし、父を知らないマリアージェにとっては、第二の父親といってもいい存在だった。
「アルフォンド様達は剣技の稽古をつけておいでです。イリアーナ様はその傍でその様子を見学していらっしゃいますよ」
そう報告され、マリアージェは思わず笑みを深くした。
「イリアーナは相変わらず、兄様たちが大好きね」
二十五となったマリアージェには四人の子どもがいる。八歳のアルフォンドを筆頭に年子で男の子が三人おり、そして一番下がもうすぐ三つになる長女のイリアーナだ。
夫イエルの風貌を一番色濃く受け継いだのが長兄のアルフォンドで、わたくしの血はどこに行ったのかしら? とマリアージェが首を傾げるほどに父親そっくりの容姿をしていた。
夫の子ども時代を見ているようでとても可愛い。
二番目、三番目と下がるに従ってだんだんイエル色が薄れ、一番下のイリアーナに至ってはイエル二割、マリアージェ八割といった顔立ちだ。
性格も何だかマリアージェに似ている気がする。
要領が良くてはきはきとしていて甘え上手。幼い頃のマリアージェに末っ子特有の愛らしさを足した感じで、せっかくなのでこの資質を上手に伸ばしてやりたいとマリアージェは考えている。
このイリアーナはプランツォ家にとって初めての女の子であったので、父親も兄三人もこのちっちゃな末娘を溺愛しまくっていた。
が、生まれ落ちた時は、誕生をしばらく喜んでもらえなかった。母のマリアージェが死にかけていたため、それどころではなかったのである。
当時の事は、今もマリアージェの記憶に新しい。
上の男の子三人は安産であったため、マリアージェもその周囲も四回目の出産をあまり心配していなかった。
けれどイリアーナの時だけは、マリアージェはひどい難産となったのだ。
お産が長引きそうだとわかってから、イエルはずっと戸口にへばりついて動こうとしなかった。
お産の場には男性が立ち入ることができないため、慌ただしく出入りする侍女たちを捕まえては、「マリアージェは大丈夫なのか」と何度も聞いていたが、ようやくイリアーナを産み落として力尽きたマリアージェが意識をなくした時は、止めようとする侍女たちを振り切ってイエルは室内に飛び込んできた。
むっとする血の匂いの中で、喉を仰け反らして倒れ込んでいる妻の傍らに駆け付けて、イエルは必死になってその体をかき抱いた。
汗で額に張り付いた金髪をかきあげ、頬に顔を寄せて何度も何度も名を繰り返し、その必死な声に導かれるようにマリアージェは意識を浮上させた。
マリアージェが意識を取り戻した後は、治療の邪魔になるからと一旦部屋の外に出されたようだ。
身を清められて清潔なベッドに寝かされてから、改めて呼び入れられたが、マリアージェは疲労と出血で意識が朦朧としていて、イエルや子ども達が室内に入ってきた事にも気付かなかった。
マリアージェを溺愛するイエルがそんな妻の姿を見て、平静でいられる訳がない。
イエルはまろぶように室内に駆け込んできて、ベッドに投げ出されたマリアージェの手を両手で握りしめて、泣きながらかき口説いた。
あろう事か、「マリアージェに何かあったら、私はもう生きていけない。後を追って死ぬ」などと口走り、それでなくても母親が死んでしまうかもしれないと不安に怯えていた長男、次男、三男は、父親までが死んでしまうかもしれないという恐怖で大パニックに陥った。
耳元で、うっぎゃああああという大音量で三人そろって号泣され、体を横たえているだけでもしんどかったマリアージェは無理やり現に引き戻された。
余りに苦しかったので、取り敢えず寝かせてくれないかなと恨めしく思った事を今も覚えている。
一方のイエルはハンスからめっぽう叱られた。
「子どもたちの前であんた、何を言っているんですか!」と目を三角にして怒られたらしいが、まあ当然であろう。
後で子ども達へのフォローをしたのもハンスで、「それほどにお父上はお母上の事を愛しておられるのです。お父上は丈夫な方ですから、あと五十年は生きるから心配要りません」と子ども達が落ち着くまで抱きしめたり、膝の上に乗せてやったりして宥めていたそうだ。
そのイエルは、最愛のマリアージェに死なれかけた事でもう子どもは作らないと決意した。
後継ぎとなる男の子はすでに三人いるし、マリアージェは貴族の妻としての役割をすでに果たしている。
という事で、イエルは避妊法についていろいろと勉強し、それを実践するとマリアージェに告げてきた。
マリアージェとしても、子ども四人と何より愛しい夫をおいて儚くなるなど御免こうむりたいし、かと言って二十代前半で夫婦の触れ合いが全くなくなってしまうのは寂しかったので、イエルの試みは非常にありがたかった。
愛情が深く誠実なイエルと巡り合わせてくれた神の采配に、マリアージェは今も深い感謝を覚えている。
因みに、実際にこの婚姻を結んでくれた父皇帝に対しては、けっという思いしかない。
向こうだってマリアージェの事を娘とも思っていなかっただろうし、マリアージェにとって父皇帝は嫌悪と侮蔑の対象である。
皇帝が暮らす本宮殿と離れた場所に建つ離宮でひっそりと母と暮らしていたマリアージェは、ある日父の使者だと名乗る男が突然やって来た事で平穏な日常を崩された。
本宮からの使いが訪れる日が母セルディフィアとの別れをもたらす日となる事を、幼いながらにマリアージェは知っていた。
母親が平民とはいえ、マリアージェは皇帝の第一皇女だ。政略結婚から逃れられる筈がない。
それまでマリアージェの事を思い出しもしなかった父親は、マリアージェの結婚が決まった日に初めてマリアージェに目通りを許した。
美しい男だったと覚えている。
そこらの雑草を眺めるような目でマリアージェを一瞥し、すぐに視線はマリアージェから逸らされた。
マリアージェは父親の愛を知らずに育ち、妻を愛する男というものも見た事がなかった。
僅か八つで母と引き離され、闇のような孤独と心細さに怯えながら連れてこられた国で、マリアージェは必死に自分は幸せになると心に呟いていた。
幸せになるためには、夫となる人間の関心を引く事が重要だ。
マリアージェの武器は母が美しいと言ってくれた笑みしかなく、精一杯の笑顔を作って馬車から降り立ったマリアージェは、そこで初めて夫となるイエルと対面したのだ。
どこかもっさりとして気の弱そうな青年は、馬車から降り立ったマリアージェを見て純粋な喜びと感嘆を瞳に浮かべてくれた。
そしてその後も誠実な優しさに包まれて、今に至っている。