夫は幼な妻と出会う
「庶民の血を引く、元皇女の独り言」を先に読まれた方が、よりわかりやすいかもしれないです。
最初、その話を知らされた時、お祖父さま張り切り過ぎだろ…と、当時二十一歳のイエルは思わず頭を抱え込んだ。
大公家の血が入っているということだけが取り柄の、要領が悪く、馬術も剣術もからきし駄目な、そこら辺にいる農夫と言ってもおかしくない容貌の自分に(自分で思ってちょっと傷付いた)大国の皇女を娶せるなんて、お祖父さまはよくそんな突拍子のないことを考えついたものだとイエルは思う。
まあ、このままだと一生結婚できないような気がしていたので、結婚相手を見つけてくれたことには感謝すべきなのかもしれない。
イエルは公国ではまずまず名の知られたプランツォ家の長子であり、一応縁談話はそれなりに舞い込んでいたのだが、何と言っても実の父親がイエルの縁談を片っ端から断り続けていた。
父は次男のセガーシュを跡取りにしたがっていて、そのためイエルに余計な係累がつくことをひどく警戒していたのである。
ここまで父がイエルを疎むのは、持参金目当てで迎え入れた最初の妻の子どもがイエルで、心底気に入って妻にした女性の子どもがセガーシュであるからだ。
父親がイエルを厄介者扱いしているため、父の親族もイエルのことを良く思っておらず、なので今回イエルに結婚相手を見繕ってくれたお祖父さまは、亡き母の父に当たるレイマス卿だ。
御年、六十四歳。セクルト連邦の公国の一つ、スラン公国の重鎮である。
このレイマス卿、名家に生まれて政治力も備え、大公殿下の覚えもめでたく、息子三人と娘にも恵まれて順風満帆の人生を送っていたが、四十を超えた頃に人生最大の不幸に見舞われた。
最愛の妻を病で失って二か月と経たぬうちに、今度は娘レーデまでを産褥で亡くしてしまったのである。
享年十八。
腰回りも細かったため、未熟な体に出産が耐えられなかったのではとも言われている。
娘に先立たれた悲しみもさることながら、レイマス卿が何より打ちのめされたのは、愛娘が死んで三か月と経たぬ間に娘婿が愛人の女性を館に迎え入れたことだった。
赤子のイエルには母親が必要だからと、娘婿からは当時そう説明されたようだが、直にそれが嘘だと分かり、レイマス卿は愕然とした。
その女性は娘が生きている頃からの愛人の女で、要は妻が死んでこれ幸いとばかりに、プランツォ卿は愛人を妻の座に座らせてやったのだ。
そういう事情もあってレイマス卿は婿のプランツォ卿が大っ嫌いになり、その分、残されたイエルを不憫がって大層溺愛した。
ついでに母の兄である伯父三人も、父親に右倣えをした。
嫡男以外の伯父二人はそれぞれ名のある貴族の家に婿養子に行っており、そもそもレイマス家と言えば、大公家の流れも引くスラン公国きっての名家である。
その四人が目を光らせてくれたお陰で、家族から孤立させられていたイエルも何とか立場を保てていたのだが、セガーシュが二十を超えた辺りから、正式にイエルを廃嫡させようという父の動きが露骨になり始めた。
ここ最近は、夫婦二人であちこちの社交場に顔を出し、いかにイエルが駄目な長男であるか、それに比べてセガーシュがどれほど優秀な人間であるかをせっせと周囲に触れ回っている状況である。
こうした動きにイエルも対抗すべきなのはわかっていたが、実のところどう反撃していいかがわからなかった。
だって、どんくさいのは事実だし、実際、騎士時代の剣技や乗馬の成績は最低評価だった。
ついでにお世辞がすらすらと口から出るようなタイプでもないため、社交も不得手だ。
騎士時代の親しい友人はそこそこいるのだが、類は友を呼ぶと言うか、皆イエル並みに大層地味だった。
そして顔。これが一番問題なんだよなとイエルはため息をつく。
レイマス家の特徴が嫌と言うほど前面に出ていて、目は細く、鼻はへちゃっと広がって、まるで起き抜けのヒキガエルだ。(いや、起き抜けのヒキガエルと絶好調のヒキガエルの顔の違いはイエルにはわからないのだが)
しかし、友人からは愛嬌がある顔だと褒められる。(そうとしか言い様がないのかもしれない)
そういうイエルなので、女性とは全くお付き合いをしたことがなかった。
二十歳になった時、それではマズイだろうと伯父の一人が娼館に連れて行ってくれ、一応デビューは果たしたのだが、それ以来イエルは行っていなかった。
娼館に通い詰めるような男では、将来妻となる女性に失礼だろうとイエルなりに思ったからだ。
つまるところ、母が生きている頃から愛人を作っていた父親を持つイエルは、不誠実な男が大嫌いだった。
そんなイエルにいきなり降って湧いた結婚話。
お相手は大国の皇女さまで、しかも年齢は僅か八つ。
……もう何をどう考えていいのかわからない。
さて、イエルの結婚相手であるマリアージェ皇女は母親の身分が低いため、皇女とはいえ扱いは他国の貴族令嬢に準じる。
ただ後見は父皇帝だから、決して蔑ろにはできないという立ち位置だ。
贅をこらした嫁入り道具と共に嫁いでくるが、大掛かりなお披露目もなく、大公殿下への挨拶なども勿論なくて、直接プランツォ家に嫁いでくる。
アンシェーゼ側から言われたのは、長旅で疲れておられる上、見知った人間が誰一人いない地に幼くして嫁がれるので、当日は一族を呼び集めるようなことはせず、家族だけで温かく迎えて差し上げて欲しいという趣旨のことだった。
幼い妻が嫁いでくる当日、当然ながらイエルは緊張していた。
そんなイエルの傍には、イエルのことを疎んじる父と義母、そして常日頃よりイエルを散々馬鹿にしている異母弟のセガーシュが立っている。
セガーシュと同じようにイエルに嫌がらせを繰り返してきた異母妹三人はすでに嫁いでいるので、その三人がいないだけでもありがたかったが、家族とも思えない残り三人がイエルの家族然として自分の傍にいることはイエルにはどうにも納得できなかった。
どうせなら、母方の祖父や伯父三人に傍にいて欲しい気分である。
あの四人ならイエルの緊張も解してくれ、初めて会う皇女とも打ち解けられるよう、気を配ってくれた筈だからだ。
今回の婚姻話、イエルの父親らに嗅ぎつけられないように、お祖父さまは畏れ多くも大公殿下を味方に引きずり込んだ。
婚姻条件の交渉から最終的な調印に至るまでのすべてをお祖父さまが根回しして、父や義母には公国の総意としてこの婚姻が伝えられた。
寝耳に水であった父や義母は口から魂が飛んでいくほどに驚いていたが、使者が訪れて初めて自分の婚姻話を知ったイエルだって同じようなものだ。
敵を欺くにはまず味方からだと尤もらしいことをお祖父さまは言っていたが、何てことはない、お祖父さまはイエルにサプライズを仕掛けたかっただけである。(と、伯父上たちが言っていた)
こうして、いきなり八つの子どもと結婚することになったイエルだが、父や義母はまだ、セガーシュをプランツォ家の跡取りとすることを諦めていないようだ。
大国の皇女殿下がイエルみたいな出来損ないを気に入る筈がないのだから、全てに優れた貴方が皇女殿下のご機嫌を取ってやりなさいと義母がセガーシュをけしかけており、それを耳にしたイエルはひどく心を傷付けられた。
あの時義母は、わざとイエルに聞かせるように言ったのだろう。
こうした嫌がらせは日常茶飯事だったし、今更相手にもしたくなかったイエルはそのまま何も言わずにその場を離れた。
義母はイエルのことが邪魔で仕方がない。
元々義母は父の恋人でもあったのだが、イエルの母との縁組が持ち上がったことで、父は恋人を妻に迎え入れずに愛人としたからだ。
金で妻の座を奪われた義母はそのことをずっと恨んでおり、改めて妻に迎え入れられてからもその恨みは消えることはなかった。
だけど言わせてもらえば、母や母の実家は別に権力づくでプランツォ家と縁を繋いだのではない。
義母の家が余りに貧乏で家を潤すことができなかったから、父は金目当てでイエルの母を妻に迎え入れたのである。
その持参金を使って愛人に贅沢をさせてやっていたのだから、それだけでもイエルには許し難い行為だったが、その愛人は妻が死ぬやすぐに正妻の座におさまって、前妻の子であるイエルを苛め始めた。
父は大層わかりやすい性格の人間で、持参金欲しさに迎え入れた前妻の息子より、独身時代からの恋人であった後妻の子どもたちをあからさまに可愛がった。
そのせいで義母はやりたい放題に振舞うようになり、義母の生んだ四人の子どもたちもまた、母をまねて兄イエルを散々笑いものにした。
イエルに対する父親の無関心に最初に気付いたのは、母が嫁ぐ前から侍女として仕えていたアンネだった。
アンネは、嫡男であるイエルに見向きもせずに新しい妻にばかりを構うプランツォ卿の姿に不安を覚え、すぐに以前の主家であったレイマス家に連絡を取った。
レイマス卿はイエルの周囲に信頼のできる侍女や従者を配そうとしたが、余計な出費を嫌がる婿のプランツォ卿に断られ、イエルが母から受け継いだツープの領地収入から使用人たちの給金を出すことで、何とかそれを了承させた。
これに味を占めたプランツォ卿は、使用人の給金ばかりでなくイエルの生活に関わるほとんどの出費をツープの収入から出すようにとレイマス卿に迫ってきて、イエルさえ快適に過ごせるのならその程度の出費は些細なものだとレイマス卿はそちらも受け入れた。
さて、イエルが生活しているのは邸宅の東棟の二階である。
ここは元々、母が嫁いできた時に用意された棟で、主の寝室と妻の寝室が扉一つで行き来できるような造りになっており、妻の化粧室、子ども用の寝室や勉強部屋などが配されて、一階部分にはこぢんまりとした応接間や書斎、食事の間などが作られていた。
母が亡くなるや嫁いできた義母は、前妻と同じ部屋を使うことを拒否したため、今はこの東棟がすべてイエルの居住空間となっている。
物心つく頃から、イエルは自分が家族の中の異分子であることに気付いていた。
父と義母と異母弟妹の六人は邸宅の南棟に暮らしていて、夕食の時だけはイエルは南棟まで足を運ばないといけないのだが、父や義母たちはイエルが姿を見せるやあからさまに声のトーンを落とし、嫌そうに顔を顰めてくる。
無視されるのはまだいい方で、幼いイエルは一方的に集団で馬鹿されたり、嫌味を言われたりして、食事中はいつも委縮していた。
幸いお祖父さまや伯父上たちが何かと理由をつけてはイエルを家に呼んでくれたので、月の半分以上は父たちの顔を見ずに過ごせたが、そうでなかったらこの生活に耐えられたかどうかイエルにはわからない。
そういう幼少を過ごしていたため、十二歳で騎士学校の寮に入れた時は正直言ってほっとした。
学校を卒業した後は家族団欒の席を断るようにして、今は用事がある時だけ晩餐の間で一緒に食事をとっている。
向こうもイエルのいない生活は余程快適だったようで、ここ数年はほとんど接点を持たずに暮らしていた。
……暮らしていた筈であったのだが、イエルの結婚が決まった辺りから、父から夕食だけは家族皆で食事をとるようにと命令された。
どうやら、皇女との接点を持ちたいらしい。
イエルとしては非常に気が重かった。
父と義母とセガーシュは幼い皇女の前でわかりやすくイエルを馬鹿にして、皇女の心をセガーシュの方へ向けたいのだ。
国が決めた結婚であれば、個人の好き嫌いといった感情で相手が変えられるようなものではないのだが、そのことは頭にないらしい。
ただ万が一、皇女がセガーシュの方を気に入ってしまえば、イエルの人生はこれ以上ないほどに惨めなものとなるだろう。
憂鬱なため息を噛み殺すうち、不意に地面を揺らす地響きが近付いてきた。
マリアージェ皇女の到着だ。
やがて先導の騎馬の姿を遠くに認めたかと思うと、その後ろに続く六頭立ての豪奢な馬車も見え始めた。
その後方まではよく見えないが、どうやら延々と続く嫁入り道具の荷馬車の列があるようだ。
「すごいな…」
思わずといった口調でセガーシュが呟き、何か獲物を見つけたようにその目が輝く。
その眼差しに不穏なものを感じ、イエルがふっと目を細めた時、六頭立ての馬車がゆっくりと停車した。
足置きが用意され、扉が開かれると、護衛の騎士の手を取るようにして一人の少女が馬車から降りてくる。
その姿を見た瞬間、イエルの中ですべての思考が停止した。
弟への警戒感や義母への不信、この先の生活への心配も何もかもが吹き飛んで、ただ呆けたようにその場に立ち尽くす。
降りてきた少女があまりに可愛すぎたからだ。
透き通るような白い肌に健康そうなバラ色の頬。目はぱっちりと大きく、長い睫毛に縁どられて、小さな紅色の唇も大層愛らしい。
何だろう、この可愛らしい生き物は……とイエルは心の中で呟いた。
こんなに華奢な子なら、力のないイエルだって簡単に抱き上げられるだろう。
背丈はまだイエルの胸下辺りで、ギャザーがたっぷりとられたふわふわのドレスはウエスト部分できゅっと絞られて、皇女の可憐さを際立たせている。
緩くウェーブのかかった金髪はサイドで編み込まれ、花を模った宝玉が散りばめられていて、まるで天使のように愛らしかった。
その愛らしさにのぼせたようにぼうっと自分を見つめてくるイエルを見て、強張った笑みを口元に浮かべていた皇女は驚いたように目をしばたいた。
イエルは金の縁取りのついた華やかなジャケットを纏って正面に立っていたから、すぐにイエルが結婚相手だと分かったのだろう。
後で聞けば、この時マリアージェは純粋な感嘆と愛おしさを眼差しに浮かべてきた未来の夫の姿を見て、心から安堵したのだった。
政略で迎え入れられる妻が大切にされるかどうかなんて、ある意味賭けみたいなものだ。
おまけにマリアージェは幼すぎて、女性としての魅力を全く持たない。
食指が働かない女に対してはとことん無関心だった父親を知るマリアージェは、見知らぬ地で夫から同じような扱いを受けることを恐れていた。
見せ掛けの調子良さや、上滑りする賛辞も嫌いだった。
父親からの愛情を一切知らずに育ったマリアージェは不器用でも誠実で一途な愛情を渇望していて、そんなマリアージェの瞳に初めて映る夫は大層好ましいと思えたのだ。
顔は何かに似てるけど……とマリアージェは心に呟き、男は顔じゃないわと思ってにっこりとイエルに微笑みかけた。
その途端、おっさん夫は顔を真っ赤にし、その初心な反応にマリアージェはハートを射抜かれた。
マリアージェ八歳。一目ぼれの瞬間だった。
二人がそうやって自分たちだけの世界に入り込んでいたというのに、そこに無粋な言葉を割り込ませてきた輩がいた。
イエルの父親である。
「おい、いつまで呆けているつもりだ。さっさと挨拶をせぬか」
その言葉に夫への侮蔑の響きを感じ取って、マリアージェは速攻でこの父親が嫌いになった。
ついでに、小馬鹿にしたように鼻で嗤った隣のおっさん二号も右に同じである。
さて、イエルの方は父親の声でやっと我に返った。
そして猛烈な恥ずかしさを覚えて、思わず視線を地面に彷徨わせた。愛らしい幼な妻の前で父親から馬鹿にされたことがとてもいたたまれなかったからである。
「えっと、あ……。は、初めまして、イエル・プランツォです」
どもってしまった。
いつもそうだとイエルは思わず唇を噛んだ。こんな風につっかえるから、義母や弟妹達からも散々馬鹿にされるのだ。
定番のように彼ら三人は失笑したが、マリアージェの反応は違った。
「イエルさま、アンシェーゼの第一皇女マリアージェですわ。幾久しく宜しくお願い申し上げます」
見事なカーテシーを披露して、けれどイエルを嘲るような色は微塵も見せず、嬉しそうに微笑みかけてくる。
それを見た時、イエルの心に温かい何かが広がった。自分を無条件で受け入れてくれる祖父や伯父たちに似た確かな温もりをこの少女に感じたからだ。
そうしてイエルがマリアージェに話しかけようとした時、横からセガーシュが口を差し入れてきた。
「さすが大国の皇家の血筋を引く皇女さまは違いますね。これほど可憐で可愛らしく、気品に満ちた方はなかなかおられない」
淀みなく誉めそやした後、すっと優美に胸元に手を当て、マリアージェの前に膝を折る。
「プランツォ家の次男、セガーシュと申します。
どうぞお見知りおきを」
マリアージェがにこっとお手本のように微笑みかけるのが見えた。
自分と違って見目が良く、話術も得意とし、何でもそつなくこなす弟である。
マリアージェの反応に気を良くしたのか、脇に立つイエルを無視するように二、三歩前に進み出て、マリアージェだけに話しかけていく。
傍目から見れば、まるでセガーシュが本当の結婚相手のように見えるだろう。
イエルは不快を隠せずに思わず眉間に皺を寄せたが、それを目ざとく見つけたセガーシュが早速からかいの種にしてきた。
「いやだな、兄上。
せっかく可愛らしい花嫁が来たというのに、そんな仏頂面じゃマリアージェさまがかわいそうじゃないか。
見知らぬ国に嫁いで来られて不安なんだからきちんとエスコートして……ッ!
んぎゃッ」
余裕をかましてイエルに説教をしていた弟が変な叫び声を上げ、靴のつま先を掴んでぴょんぴょん飛び跳ねた。
イエルはあっけにとられてその間抜けな様子を見つめるだけだ。
「あ、ごめんなさい」
マリアージェが口に両手を当て、すまなそうに謝った。
よろけたマリアージェがどうやらヒールで思いっきりセガーシュのつま先を踏んでしまったらしい。
「わたくし、重たかったですよね。大丈夫ですか?」
貴族たる者、レディを相手に重いなど言えるわけがない。
しかも相手は僅か八つの女の子だ。
さすがの父も、「大げさに痛がるのは止めなさい」とセガーシュを嗜めたが、つま先を握り締めるセガーシュは涙目だった。
その時イエルは、おやっと思ったのだ。
八つの子がちょっと踏んだだけにしては、セガーシュの痛がりようが本気だなと。
「い、いや、大したことはないよ。気にしないで」
ひきつった笑みでセガーシュは答えたが、これ以上足を踏まれたくないのだろう。セガーシュはマリアージェから慎重に距離を取った。
今考えれば、マリアージェはわざと全体重をかけて、思いっきりの靴のつま先辺りを踏みつけたのだとイエルは思う。
何故か?
セガーシュに近付かれるのが不愉快だったからだ。
その後もセガーシュが不用意に近付く度、マリアージェは都合よくよろけていたようだ。
四回踏んだら近付かなくなりましたとマリアージェが言っていたから、故意犯である。
あの後マリアージェは、「疲れたのでお部屋に連れて行っていただけますか」とイエルに小さな手を差し出してきて、父や義母が気合を入れて用意していた歓迎の晩餐も体調不良ですっぽかした。
初恋の夫を目の前で小馬鹿にした三人が許せなかったからである。
そしてイエルと二人、東棟の食事の間でささやかな夕食を楽しんだ。
夕食の後も、小さなマリアージェは一人になるのを嫌がったので、イエルは手を繋いで応接間に連れて行ってやった。
座り心地のいいソファーにマリアージェを座らせてやり、自分もその斜め前のソファーに腰を下ろして、二人でたくさん話をした。
肘置きの上に置かれたイエルの腕にマリアージェは小さな手を伸ばしてきて、置いていかれることを恐れるように袖の部分を一生懸命掴んでいる。
その姿を眺めるうち、イエルはこの幼い子どもが、自分が思う以上にひどい孤独に苛まれていることにようやく気が付いた。
長い距離を移動してプランツォ家にやってきて小さな体は限界まで疲れているのに、マリアージェは取りとめもなく喋り続けて絶対に寝室に行こうとしない。
あくびが一つ、小さな口からふわっと零れ、半開きになった目をこすりながら、お母さま……とマリアージェが小さく唇を動かした。
いつもなら、この子の傍には母親がいるのだろうとイエルは思った。
母からも生まれ故郷からも遠ざけられて、この子はたった一人で見も知らぬ国で夜を迎えようとしている。
イエルはマリアージェの隣に座り直し、小さな肩をそっと抱き寄せた。
温もりが嬉しかったのか、マリアージェはぎゅっとイエルの腕辺りに顔を埋めてきて、半分寝ぼけた声で今度は大好きな母のことをしゃべり始めた。
今まで、朝も昼も夕も、マリアージェの世界は母一色であったこと。
いつか母の下を離れて嫁ぐようになるのだからと、教えられるだけの世界を母が教えくれたこと。
「幸せになりなさい」と喉を詰まらせ、必死に笑みを浮かべて送り出された最後の日。
思い出を辿りながらぽつぽつとしゃべるうち、だんだんと声が途切れるようになっていて、気付けばマリアージェはすっかりと寝入っていた。
そのままずるずると倒れてくる体を抱き直し、イエルは優しいため息をついてマリアージェの寝顔を見下ろした。
「私たちは似ているね。
父上からは嫌われていて、会いたくてたまらない母上とは引き離されて…」
幼い頃、母を恋しがって泣いていた自分と、今のマリアージェの姿が重なる。
会わせてやりたいなとイエルは思った。
自分の母はもう遠い国へ旅立ってしまったが、マリアージェの母親は今もどこかで生きているからだ。
マリアージェが嫁いだ後、母親は病死という形で後宮を下がり、市井に降りる手筈になっていたらしい。
ただ係累はいないと聞いていたから、一旦、市井に紛れてしまえば探し出すことはほとんど不可能だろう。
イエルはマリアージェの目尻に残る涙を、指でそっと拭い取った。
お母様には、わたくしを忘れて幸せになっていただきたいのとマリアージェは気丈に言っていたが、忘れられることを誰よりも恐れているのはこの子だった。
母が恋しくて堪らないのに、それを言葉に出すことをこの子は健気に自分に禁じていた。
柔らかな寝息を立て始めたマリアージェを、イエルは大切そうに抱きあげた。
寝台に横たわらせた後、今日だけは寝所の続き間で寝てやって欲しいと侍女の一人に頼み、イエルはそっと部屋を出ていった。