なぜ、男はカンナを必要とするのか?
目の前の男は確かに言った。
――カンナを妹に使うと、そして不老の薬ではなく、麻薬として――と。
わたしは男の真意を測りかねていた。
理解できない。
だが、それは決して男の発言に対してではなかった。
そう語った男の目が全く悪意を宿していないことに対してだった。
――けれども、麻薬を悪用しない使い方なんてあるのだろうか。
あるにはある。聞いたことがある。
例えば、わたしの元いた世界ではがんの痛みをとるために使われるそうだ。
がんに伴う激しい痛みを麻薬であるモルヒネでやわらげるのだ。
簡単に言えば――痛み止めとしての使用。
「妹さんは病気か何かですか?」
わたしは質問する。
だが、わたしの質問に対し男は何の反応も見せない。
肯定もせず、否定もしない。
10秒程経過し、男は沈黙を破った。
「妹は今、カンナに侵され苦しんでる。その治療に使う」
「――――!」
「まぁ、そう驚いた顔するなよなぁ。いちいちリアクションが素直で面白いがよ」
そう語る男の顔は少しも面白そうではなかった。
床に視線を落とし、俯く。男の表情は全く見えなくなる。
男にはもはやこれ以上、わたしを尋問しようというムードは感じられなかった。
そのまま、男は独り言を呟くように、昔の話を口からこぼした。
ゴミ箱の中に顔を突っ込んで、今日の食べ物を探していた。
お金持ちにはゴミに見えるものでも、俺たちにとっては命をつなぐ貴重なものだ。
もう何度も店からものを盗んだ。
すでに顔を覚えられ、姿を見せただけで警察に突き出されるか、殴られ追い出されるか。
もう盗みは無理だと判断した。
自分は食べなくたって平気だ。死ぬだけだ。大したことじゃない。
だが、後ろでお腹を空かせていじけている妹は違う。
両親がどこにいるかは知らない。顔さえ知らない。
これもどうでもいいことだ。
知ったところで何も変わらないという確かな予感だけが俺にはある。
物心ついた時には1人だった。
それまでどう育ったとかは覚えていない。
俺にあったのは、この小さな妹だけだ。
実際に血がつながっているかどうか確かめようはない。
それに、やはりそんなことはどうでもいいことだった。
「にぃに。おなかすいたー」
「もう少しまってろ。すぐに、にぃにが美味しいごはん見つけてやる」
「うん」
次のゴミ袋を破く。
生ごみの腐った臭いが鼻を衝く。吐き気を抑えながら袋の中をあさる。
――吐くものなんてないのに。
俺はその中に比較的綺麗な袋に入ったパンを見つける。
消費期限が切れているようだが問題ない。
お腹を満たすことができて、まずくなければそれでいい。
――まぁ、腐ってそうでなければ食べられる。
「ほい、見つけたぞ」
俺は妹にパンを渡す。
「また、パン。あきた。もっとおいしいのがいい」
「ごめんなぁ。次はもっといいの見つけるから今日はこれで我慢してくれ」
「……うん」
そういって妹がパンを食べるのを俺は見つめていた。
文句を言いながらもパクパクと口いっぱいに入れて食べる。
見ているだけの俺の方を向いて妹が言った。
「にぃに、食べないの?」
「うん」
「なんでー」
「にぃにはお兄ちゃんだからあまりお腹が空かないんだよ」
もちろん、嘘だった。
もう、3日くらい水以外口にしていない。
けれどもこれくらい何度も経験してきたことに過ぎなかった。
よくあることだった。
こんな日々を俺は毎日繰り返していた。
だがある日、転機が訪れた。
俺はいつも通りゴミ箱をあさっていた。
すると、複数人の男が俺の前に立った。
逆光が眩しく男の表情はわからない。
「なに?」
俺はできるだけ威嚇するように声を低くして言った。
だが、大人から見たそれは子供の強がりにしか見えていなかっただろう。
男の1人が俺の前に何かをわざと落とした。
見るとそれは金だった。
額は俺と妹の2人が1カ月は食べるのに困らないほどのものだった。
「仕事をしないか?」
男はドスの利いた声で一言そういった。
俺は地面に落ちた金を拾い、ポケットにしまった。
わざわざ口で答えを言う必要はなかった。
簡単な仕事だった。簡単であり、稼げた。
警察にさえ見つからなければ何も問題ない。
密封された瓶に入った白い謎の液体を売りつけるだけだ。
1度売りつけてしまえば、買ったやつは必ず再び買いに来る。
もし来なければ、どこかで死んだと思って間違いなかった。
だが、そんなことはどうでもいいことだった。
俺は順調に売りさばき、大量の金を得た。
俺たちの暮らしはいっきに裕福なものへと変わった。
食べ物、服、住む場所。
何1つとして足りないものなどなかった。
妹も昔に比べてよく笑うようになった。
幸せだった。
そんな日々が数年続いた。
――けれども、そんな暮らしは突然、終わりを告げた。
俺はいつ通り仕事を終え、家に帰った。
「ただいま」
俺は違和感を覚えた。
いつも妹は俺が帰ると必ず出迎えてくれたのだ。
だが、今日は何の反応もなかった。
――どこかへ出かけているのだろうか。
しかし、玄関のカギは開いたままだった。
妹が戸締りもせず、どこかへ行くはずはない。
俺は脳裏に一瞬、嫌な想像が走った。
すぐに家の奥に向かう。
妹の部屋の前に立ち、扉を力まかせにノックする。
「クルミ! クルミ! いんなら返事しろ!!」
クルミは妹の名前だ。
何度、扉を叩こうが声を掛けようが返答はない。
――チッ。
ドアノブに手を掛けひねる。
カギは閉まってなかった。
「入るからな」
そういって扉を開いた――。
そこには妹が床に仰向けで倒れていた。
そして、その近くにはあの白い液体が封が開けられ、床に飛び散っていた。
「クルミ!」
俺は息を止め、すぐにクルミを抱きかかえ、別の部屋に連れて行った。
その謎の液体は揮発する。
揮発したそれを数秒吸い込むだけで麻薬作用は十分引き起こされる。
クルミは意識が朦朧としていた。
時折、ビクビクと体を痙攣させていた。
「クルミ! しっかりしろって!」
クルミは涎を垂らしながら、薄っすらと目を開ける。
「にぃにぃだぁ。くるみねぇ。なんだかぁ、とっれもきもちーのぉ。へへへー」
呂律がろくに回らないほどの多幸感の中にいた。
手遅れであることはすぐにわかった。
――もう、戻れない。
俺はどうすることもできなかった。
おまけにそんなクルミの姿を見ていることができず、自分の部屋に引きこもった。
1時間程経った頃、物音が聞こえてきたのでクルミの様子を見に行った。
クルミは部屋も中で暴れていた。
麻薬の効果が切れたのだろう。
また服用するために、家具を破壊しながら探し回っていた。
「やめてくれ……頼む。もう――」
俺は無理やりにでも取り押さえようとした。
――が、クルミはそんな俺の腕に噛みついた。
その力は相当に強力で歯は腕の骨まで達した。
あまりの痛みにクルミをぶん殴ってしまう。
その衝撃でクルミは一時的に気を失った。
男はそこで話すのをぷっつりとやめた。
「そのあと、妹さんはどうなったんですか?」
「まぁ。ほおっとくと自殺しかねねぇしなぁ」
どうしているかまでは言わなかったが、きっと自殺できないように、もしくは暴れないように拘束しているということだろう。
苦しみ続けるままに。
だが、まだこの男の目的ははっきりしていない。
――なぜ、カンナを必要とするのか。
「そこでだ。俺はもちろん、治す方法はないか探し回った。そして、ある科学者に出会った。
そいつが言うにはカンナがあれば、助けられる可能性があるってなぁ」
「じゃあ、そのカンナって言うのを使って直せばいいじゃないですか」
「無理だ」
男は顔をあげる。
そして、転がる死体を見る。
「もうカンナは手に入らねぇ。だからそこに転がるバカもあんなに必死だったのさぁ」
「どうして手に入らないんですか?」
「あるとき、突然、カンナの供給が止まった。前々からなくなると噂されていたがよ」
男はゆっくりと立ち上がり、わたしの目の前にまで歩いて来る。
刃物を取り出し、わたしの目の前にちらつかせる。
「その科学者が言うには、ベンとかいう研究者が関与しているらしいんだわ。
何が何でもはいてもらう。妹のためだ」