なぜ、わたしは異世界に来たのか?
綿あめがぷかぷかと浮いていた。
「違う。確かに綿あめに見えるかもしれない。だがあれは犬だ。空飛ぶ犬なんだ」
「へー。空を飛ぶというより跳ねてる感じですけど」
頬杖をついてわたしは外を眺めていた。
博士からよく読んで勉強するように、と言われて渡された本は、わたしの机の上で同じページを開き続けていた。
だってそりゃそうだよ。ぜんぜんわかないんだもん。混成種、生物機械、遺道。ちっとも聞いたことがない単語ばっかり。
「モルモットくん。手が止まっているみたいだけど気分でも悪いのかい?」
「博士!わたしには有希リンという名前があるんです。モルモットと呼ばないでください」
「失礼。学習能力の悪さからついモルモットと呼んでしまった。君の学習能力はモルモット未満だったね」
いつも通り嫌味たっぷりで話してくるのはここ、異世界研究所の博士であるフリード・ガイル・ベン博士である。
ベン博士は47歳と言い張るが、どう見ても20代の見た目をしていた。髪は銀色で白い服を好んでよく着る。
「レイ助手。彼女がお手上げだそうだ。少し手を貸してやってくれ」
「はい、博士。モルモットの教育は初めてですが努力します。フフッ」
「ゆ・う・き・り・んです!」
博士の助手であるレイさんは、緑色の髪をなびかせながらわたしのそばに近づいて来る。
「どこが分からないのですか?」
「レイさん、1ついいですか?」
「はい」
「わたしの肩に大きくて柔らかいものがのっかているのですが、わざとですか?」
「あら、ごめんなさい。リンさんにはないものでしたね。ですが、わざとでーす!」
「死ねや!」
わたしはペンを投げつけるがレイさんは難なくかわす。そして、流れ弾はみごと博士の頭に命中したのだった。
「ご、ごめんなさい!わざとじゃ…」
「モルモットくん」
「…はい」
「後で採血をしようか。とりあえず2リットルくらい」
「し、死んでしまいます!!」
どうしてこうなってしまったのだろう。わたしは日本の高校に通う普通の女子高生だったはずなのに。気がつけば訳の分からない研究所のモルモット扱い!
なんで!なんで!なんでーーーーーーーーーーー!
彼女は1週間前のことを思い出していた。
駅に向かって歩く彼女を、雨は容赦なく打ち付けていた。傘によるガードなど、風の力が合わされば無意味である。
わたしは雨がどちらかと言えば好きである。
雨はわたしを隠してくれる。世界から隠してくれる。
雨はわたしから隠してくれる。現実を隠してくれる。
なんのとりえもないヘタレなわたしを。
高校に入ったら部活して、友達と遊んで、恋愛して、夢に向かって毎日頑張るんだって決めた。なのに気がつけば、朝起きて、授業を受けて、ご飯食べて、眠って、また起きる。これをひたすら繰り返す。同じ毎日の連続だ。
なんてつまらないのだろう。生きている意味なんてあるのかな。もういっそ死ねば楽になれるのだろうか。死ぬのは少しも怖くない。何もしないまま生きていくのがわたしは怖い。
じゃあ、何かすればいいじゃんって思うけど。失敗したらどうするの?頑張った挙げ句、才能がなくてダメでしたってなったら?あなたの限界はここまでですって言われて生きていける?
無理ですよ…そんなの。
わたしの頬をつたう雫が優しくなでる。濡れて肌に張り付いた制服がとても不快だった。
「あーあ。靴下の中までグショグショです。雨ってやっぱり嫌い。好きと言ったのは嘘です」
駅のホームにはまばらに人が立っていた。
わたしはいつもの場所で電車が来るのを待っていた。改札から一番遠いこの場所は人が少なくて快適だ。わたしの後ろに誰かが立つ気配を感じた。きっと同士だ。
どうして混むとわかっている改札付近に留まるのか理解できませんよね。
そんな独り言を妄想していると、アナウンスが流れる。
〈まもなく2番線を列車が通過します。危ないですから黄色い線までお下がりください〉
なんだ、通過ですか。電車が来るのかと思ったのに。はぁー、とため息をつく。
電車が雨を弾き飛ばしながらホームへと近づいて来た。車輪が線路とこすれる音が次第に大きくなってくる。バチバチと音をたてる架線の火花も見えてくる。
その瞬間。
ポンッ、と背中を押す力を感じた。
なすすべなくわたしの体は線路へ投げ出される。迫ってくる電車が少しゆっくりになる。
そして。
あ、ヤバイ。
わたしの記憶はここで一旦途切れるのだった。
深い暗闇の中にいた。わたしはこの心地よい暗闇を知っている。いつもであれば、うるさい騒音によって、無理やり取っ払われるところだが、今日はそれはない。安心して浸ることができる。
しかし、このままというわけにもいきません。状況を把握する義務がわたしはあるはずです。ということでゆっくりと目を開く。
そこは見覚えのない場所だった。かすれる目をこすり周囲を見渡す。辺りには木が何本も生えていて、地面には青々とした草が茂っていた。
どこだろう、ここは。すくなくとも病院のベッドではない。
ふと後ろ振り向くと緑の壁があった。いやこれは…上を見上げる。するとたくさんの葉が空を覆っていた。わたしの後ろには空に届きそうなほど大きな木が立っていた。葉の隙間から差す太陽の光が眩しい。
「わぁ、おおきい。こんなおっきな木あるんだぁ」
わたしはゆっくりと立ち上がる。自分の体の無事を確認する。電車にひかれたような気がしたが、特に怪我はないようだった。夢…だったのだろうか。ほんの少し、頭痛がするくらいのものである。
どうしよう。どうやって家まで帰ろう。ここにいても仕方がないので、とりあえず歩くことにした。しかし、自分がどこに向かっているのかは全くもって不明だった。歩けど歩けど、木、木、木、そして木である。
歩き疲れた彼女は道にへたり込んだ。
「うーん。完全に迷いました。さっきの大きな木も他の木が邪魔で見えないし…」
その時。近くの茂みで、音が聞こえる。すぐに立ち上がり音がした方向を見た。何だろう、怖い。
再び茂みが揺れる。何かいる、それは確かだ。
わたしはとっさに落ちていた木の枝をつかんで剣のように両手で構えた。
熊とかだったらどうしよう。木の棒で勝てるものなのかな。絶対、無理ですよね。
再び揺れる。
ヒッ!
そして茂みの中から何かが姿を現す。彼女の恐怖は極限に達した!もう限界です!
「先手!必勝ーーーー!!」
彼女は謎の何かに向かって棒を振り下ろした!それは見事、謎の何かをとらえたのだった。
イテッ。
イテッ?今、イテッて言いました?
「突然、棒で殴るなんて一体なんですか?あなた」
「あれ、ヒト!?」
「芽には芽を、葉には葉を。えい」
ブヘェッ!
振り下ろされた拳がわたしの頭を思い切り殴りつけた。
わたしは再び意識を失った。