トマシュの不安
「ふーっ!」
宿屋2階の窓から外を眺めていたイシスは鼻から大きくため息を吐いた。
既に空は白みだし、眼下ではパン屋が忙しそうにパンを焼いているのが見えた。
(遅いなあ………)
ゴーレムを送り出してから4日経ったが、未だに帰ってこないのでイシスは廊下の窓から外を見つつ、ヤキモキしていた。
「………あれ?もう起きてたんだ」
トマシュが部屋から出てきた。
「うん、目が覚めちゃって」
トマシュも窓から外を見ようとイシスの隣に歩み寄った。
「大丈夫?」
「うん」
短く答えたトマシュだったが耳は垂れ、間近で見ると目に隈が出ており、何処か虚ろげに森の方を眺めていた。
「寝てないでしょ」
「寝たよ」
遠くを見たまま短く答えたトマシュの左耳がピクリと動いたのをイシスは見逃さなかった。
「ウソ、隈が出てるよ」
「本当だよ」
再びトマシュの耳が動いた。
転位事件の聴き込みから帰って来てからトマシュとフランツの様子が可笑しい。
ショーン達と聴き込みの証言を確認している時も、ショーン達が“行方不明者は元の世界に戻った”と言ってから転位の事を聴いたと話すなど、あからさまに何かあった様子だった。
確認が終わってからも2人とも口数が少なく、特に普段ならニナの面倒をみているトマシュは、ニナと一言二言は会話をしていたが直ぐに外出し、宿に戻ってきた後も夕食を陸に食べずに部屋に引きこもってしまった。心配したイシスが部屋を訪ねてもベッドに横になり狸寝入りをしている程だった。
トマシュの不安な気持ちがイシスにも伝わり。話をしようと夜中に何度も起き、イシスの部屋の前に何度か来たことも感じていた。今もイシスに胸の内を打ち明けたいと思いつつ、答えを聞くことを恐れているのは伝わっている。
「………母さんなんだけど」
暫く沈黙が続いていたが、トマシュから口を開いた。
「本当に母さんなのかな?」
「何が有ったの?」
下を向いたままトマシュが話始めた。
「昨日、聞いたんだ。行方不明になったジュリアさんの弟さんから。“僕の両親がフランツさんが居た世界に居る”って。じゃあ、今の母さんは?」
トマシュの不安は、”この5年間、母親だと思い接してきたニナが何者なのか?”“5年間の間に精神的に成長し、優しさを見せてくれたニナは偽物なのか?”“父親は本当に生きているのか?”“父親が生きているなら、あの葬儀は何だったのか?”“祖父は何をしたのか?”。
ただでさえ、遺体が無いのに父親の葬儀を行い。父親の死を告げた祖父の様子がおかしくなっていた事もあり、家族を半ば本気で疑いだし、トマシュの心は不安に苛まれていた。
「違う世界で生きてるってことだよね?」
「うん………」
「姿は変わってる?」
「………聞いた話だと、人間として生きてるって」
「人間として………か」
「でも、転位門が古くて失敗して。身体が保存されていないから戻れないとか」
イシスは思い出した。自分達が仕えている神様もそうだが、ロキも魂を入れる憑代の見た目………。極端に言えば性別どころか、人間や軟体動物、時には山程の大きさもある生き物の肉体を創り、それに自身の魂を入れて世界に干渉していた。
「あの人は貴方のお母さんだよ」
トマシュの耳が大きく立った。
「じゃあ、フランツさんが居た世界に居る母さんは?」
トマシュがイシスの目を見つつ、尻尾が壁にパタパタと当て答えを待った。
「どっちも貴方のお母さんだよ」
“異世界の話なんか嘘であって欲しい”そんなトマシュが望んだ答えとは違い、トマシュの耳と尻尾が再び下を向いた。
「どういう事?」
「異世界に行っているなら腑に落ちるんだ。前に貴方のお母さん呪われているか調べた時に、“高位な呪術”って言ったでしょ。実は嘘だったんだ。実際は殆ど無いに等しい程度の呪いで、どっちかと言うと記憶を封じるより相手に印象を残さないときに使う単純な魔法。でも、迂闊に触ると危険だから遺跡で原因が判るまで触れないつもりだったんだ。その、罠だと嫌だったし」
「それと異世界がどう結び付くの?」
「今から見せるね」
目の前に居たイシスが一瞬で消え、暫くするとトマシュの背中に抱き着き腕を回した。
「!?」
「………ニュクスが色々調べたんだけど、効果としてはこの程度。視界から私が消えたでしょ?でも、身体を触れたり」
トマシュの背中からイシスが離れ、トマシュが振り返ると誰も居なかった。しかし、徐々に輪郭が露になり、イシスが目の前に表れた。
「ずっと視界内に居るか、身体に触れると存在を認知する程度の呪いだけど、仕組みが特殊なんだ。貴方の記憶から私の記憶に靄を掛けて認知するのを妨げる。認知出来なければ、そこに居ない事と同義。呪術自体は割りと直ぐに解けるから、呪った痕跡も残らない。でも、副作用があった」
ニュクスから聞いた再現実験の結果を踏まえつつ説明した。
「この呪術は殆ど記憶がない人に掛けると長い間残るんだ。記憶を呼び起こされると消える呪術だから、最初から記憶がないと呪術がいつまでも残る。じゃあ、貴方のお母さんの記憶は?………3日前にニュクスが出した結論では、記憶は別の高位な呪術で既に取り払われてしまっているか、この呪術が実は罠か。ニュクスは後者の可能性が有るから、遺跡で呪術の仕組みに関係する物を探した方を薦めてた」
イシスは“何て説明しようか”と、2、3度暗唱してから続けた。
「でも、記憶を全て持って異世界に行っているなら、今の貴方のお母さんに記憶がなくて当たり前になるんだ。異世界同士を結ぶ転位門は記憶と魂を異世界に用意した憑代に移して使う。神様や私達みたいな肉体を持たない死者は魂ごと憑代に移れば良いけど、貴方のお母さんの場合は魂の一部と記憶の殆どが異世界の憑代に移動している。そう考えられるんだ」
「“魂の一部と記憶の殆ど”って、大丈夫なの?」
「一時的な分離だし。貴方のお母さんが異世界から戻ってきても大丈夫。問題なく混ざるよ」
………また嘘を吐いた。
実際の所は、魂の分割や複製は珍しくはないが、長いこと離れた魂をくっ付けると人格が分裂する事が多い。
トマシュを悲しませたく無いから、吐いた嘘だった。
「万が一貴方のお父さんの身体に問題があっても、ケシェフの襲撃者夫婦みたいに代わりの憑代を用意するし」
「本当?」
憑代の件はヨルムンガンドを脅して用意させるつもりでいた。
「大丈夫か………」
トマシュが耳を立たせ、ゆっくりと尻尾を揺らすのをイシスは喜びつつも、嘘を吐いた事への後悔を感じていた。
「あれ?起きてたの?」
昨日のトマシュの様子から、怒っているのかと思い込んでいたニナが部屋の扉から顔を覗かせた。
「おはよう、母さん」
昨日とはうってかわって、笑顔を見せたトマシュにニナは微笑み返し、胸に抱き付いてから顔を埋めた。
「もう怒ってない?」
尻尾を大きく揺らし、上目使いでニナが質問したので、トマシュはピクリと耳を動かした。
「違うよ、母さん。昨日は疲れていただけだよ」
結果的に母親を不安にさせてしまった。
トマシュは贖罪の気持ちからニナを優しく抱きしめた。




