ザ ハピエスト
作者 梶谷ミイ
世界は案外簡単に壊すことができた。何というかまあ、幸せの形は人それぞれであろうけど、努力した結果がこれというのはなんとも悲しいというか虚しいというか残念なものである。自発性だとか人のあるべき姿がどうのこうのだとか言う世界よりはずっとマシな結果だったんだろうが
ケース1
ふざけるんじゃない、なんなんだこの地獄は。朝から夜まで勉強漬けにされ家に帰っても予習復習再履修、睡眠時間は三時間!勉強するのが学生の仕事だとか聞いたことがあるが、ブラックどころの騒ぎじゃない。どこぞの牛丼チェーンだ、僕はモルモットじゃないんだぞ。これで成績が伴えばいいものの、受験を3ヶ月後にひかえる少年の成績は偏差値55あたりを行き来するものだった。単純に言えば志望大学にはほど遠いのである。周りの生徒はこれ見よがしに模試の成績を大声でまき散らし、僕を笑っているようにしか聞こえなかった。もう十分疑心暗鬼になっていただろう。
その1ヶ月後、少年に変化が起きた。ついに壊れたのである。努力しても成績が伸びないのであれば、もう何もせずに楽をした方がいいのでは。そう、彼は努力をやめてしまったのだ。いっそ、この方が努力して落ちたやつを笑うことができると思ったのである。
さらに1ヶ月後、事態は意外な方向に向かう。試験の過去問をいくつ解いても8割9割を超えるのだ。何もしていないのに。あんなに必死で努力していたクラスメイトをよそに校内順位は一桁であろう成績になったのである。正直者は馬鹿を見るとはよく言ったものだ、まさに今僕はその有様をかみしめているのである。ついに僕は望みもしなかった、いや、心のどこかで望んでいた、受かろうが受からなかろうが努力した人を笑える人間になったのだ。こうなってからクラスメイトも僕に関わるようになってきた。そのいくつかが羨望と嫉妬混じりの目で僕を見ていることもうすうす気づいていたが、それを知らないふりしながら笑顔で接して、影で笑うのは最高に気分がよかった。その後難なく志望大学に合格した僕だったが、先生にお礼でもと再び学び舎に行ってみた。職員室へ向かう途中、自分の教室に寄ってみたが、後期受験者たちが必死に過去問に向かい合っていた。その中、自分のあまり好きではないタイプの奴らがそろいもそろって小論文を書いていた。それを見たとき、僕は言葉にできないような快感に陥ったのである。
ケース2
働けど働けど終わりそうもない書類の山、あの上司の野郎め、私は機械じゃないことを分かっていただきたい。えっと、そろそろ27時か。はあああああ。今日も誰もいない社内で淡々と作業にふけっている社畜こと私は、非効率性のゆえか連日2時間睡眠の日々を送っていた。ここでいったん作業を中断しよう、そういって私はコーヒーブレイクをとることにした。私の疲労計測段階の一つである「眠くはないんだがなんだか目の下が震える」状態を迎えたからである。しかし何でこんなことになってしまったんだろうか。コーヒーをすすりながら考える。別に不真面目を働いたわけでもないし、高校、大学、就職活動も平均以上にはやってきたはずなんだけど。そんなことを考えながら少し物思いにふける。そういえば学生時代の友人はどうしているかな、ふるさとのお母さんは元気でやっているかな、先生は私のことを覚えているかな
・・・今の私を見たら、みんなは何て言うだろう
そう考えると、どうしてか涙が止まらなかった。
気がつくと天井を見ていた。いつの間にか眠ってしまっていた!どうしようどうしようどうしよう クビになるクビ斬られる燃やされる あたふたして前も見えない状態だったが、違和感に気づいた。あれ?誰もいない。それどころかここは、彼女の部屋だった。
窓の外を見てみると閑静な住宅街、ベッドの上のデジタル時計は日曜日の午前四時を示していて、左手のそばには、先ほどの私のような苦労人を主題とした小説があった。ああそうか、宿題が面倒になって小説でも読み始めたんだっけか。夢は現実の情報に即して見るものだが、こんなにシビアなものを夢で再現されてもさ、だいたい何で子どもの私が大人なのに気づかないのか、夢って麻酔みたいなところがあるよなあ。なんやかんや怖かったのでぶつぶつ文句を言っていた。それはそうと、あんな夢の後だからか、放り投げた宿題がずいぶん簡単なものに見えるし、この部屋にいることがなんとなく安心できる。大人になればそう感じるのが常なのだろうか。
その後彼女は、妙なものを目にすることになる。リビングに行けばご飯が用意されていること、友達と仲良く話せること、分からないことがあれば先生が教えてくれること。当たり前のようなことが幸せであったと思い出すような感覚に襲われたのだ。
ケース3
時間も感覚も何もかもそこにはなく、僕に残されたのは視覚だけであった。どのくらいの時間が経ったのだろうか、名状しがたいが私には何かが起こったのであろう。とても不思議な感覚、白い天井とたまに動いている人たちが見えるだけ、生きているのかどうかも曖昧だし、何より知覚できないのだ。おそらく僕が考えていることを文にすることは容易なんだろうが、事実今は文章を形成することができない。強いて言えば!と?が辛うじて分かるだけで、後は感情をひどく単純な絵画のようにして思い浮かべることしかできないのだ。暗くなったり明るくなったり・・・記憶もだいぶぼやけているからいつからここにいるかもよく分からないし、考えるのも面倒だ。あーあ 暇 っていうか 暇 って何だっけ?
元々ずっと眠ってるような感じなので、眠りが浅いことなど珍しいとは思うのだが、不思議だ、夢を見てる。両極端に大きな入り口みたいなのがある広い空間に、よく近くにいる人と同じ雰囲気の人がいて、何か話しかけてきている。その子はとても優しい様子で安心できる、手を引かれるままに僕はその子について行った。が、もう一つの手を誰かが握っていた。何かとてもおぞましかった。その人は、力は弱いのに責め立てるように僕の手を引いている。怖くなった僕は優しい子と供に全力で光の扉の方に走っていった。
そこは相変わらず病院だった。けれどさっきの子がそこにいて、すーすー眠っていた。
何か毛布でも掛けてやろう あれ、僕動いて・・・ え?
自分が何を言いたいか分かる この子のことを思い出せる わずかながら体を動かせる それだけでも驚いてしまうことだが、窓の外も、部屋の内部もだいぶ変わってしまっていた。何より近くにあったカレンダー、鏡を探してしまうほどの年数が書かれていた。医療技術の進歩か何かなのか、世界はどうなっているのか、横で寝ている子についてもいろいろ聞きたいことがある。だが、何もできなかった僕にとって、何かできるようになると言うことは疑問以上の幸福をもたらすものだったのだ。
ケースX
世界が平和に、みんなが幸せに、争いや問題がなくなるにはどうすればいいだろう?
ある人が言っていたが、問題は対人関係上でしか起こりえないんだとか。それならさ・・・
すごく時間がかかってしまった。何せ専門分野は理工学なのに、発明条件に医学薬学まで必要になってくるとは。だがまあその甲斐あってかな、天才の私が8年半かけて漸く完成した、名付けてIR!これがあれば世界は平和になるはずだ。どんな願いだって叶えちゃうんだもんね。なんと彼女はこの理想の発明を生涯のうちに作り上げてしまったのである。 とりあえず被験者をいくつか選ぼうか といってもこんなうさんくさい発明の実験台になるってのもねえ・・・ 悩んだ彼女は、少々倫理的に問題があるかもしれないが、病院から重篤な症状を持った人たちをいくつか調達することにした。勉強へのストレスで自殺未遂まで陥った少年、過労により全身が衰弱しきった会社員、電車に飛び込んでなんとか意識はとりとめた青年、運ばれてきたのは、彼女が言うに私になんとなく似ているというこの3人だった。彼らを持ち出したことに対して誰も異議を唱えなかったのは、つまりまあ異議を唱える人すらいない孤独性に共感した彼女の人選が原因であろう。ただ、最後には報われたというのか、結果は全員成功。彼女はこの発明の実用化に踏み切った。
はじめは、精神の安定を図るためという名目上医療界に進出した。これは技術の大きなプログレスになるともと言われた。しかしこれでは止まらない。ドラッグのような危険性もないため、薬局でも似たような作用をする簡易的な薬が発明された。彼女はこれを狙っていたのである。彼女が発明に莫大な時間をかけたのはこのことが原因だったりする。できる人にとってはかなり簡単に作れる構造にしていたのだ。故に正規のルートではないものも少なからず広がっていたという。しかし、方法がどうあれそれが世界的に広がっていくことはある意味で病的にメサイアコンプレックスの彼女には最高の結果であり、夢ばかり見てはいけないという従来の正論を彼女は鼻で笑うことができたのである。彼女の望んだとおりそれは瞬く間に世界中に広がり、世界は幸せに盲目した。そんな中彼女は暗闇の中ただ独りで笑っていたのである。
オーバー ザ ケース
誰かが言ってた。たばことドラッグの違いは何か、それは国に金が入るか否かだそうだ。馬鹿だよね。目先のことしか考えないからそうなるんだ。
僕たちは今、世間から離れどこか遠くで生きている。先生があの発明をしてから争いは減ったものの、先生は大悪党にされてしまった。致命的な副作用が見つかったのである。先生が発明したのは、字のごとく理想を満たすもの。逆を言えば理想を満たしてしまうもの。結論を言ってしまえば、作用に必要とする睡眠以外の欲求が失せてしまうというものだ。そうなってしまえば人々は栄養不足になり、食品の需要も減る。子どもも生まれない。それでいて誰もが満たされているから非を唱えようとしない。夢の道具の正体は鮮やかな悪夢だったのだ。医療界や薬界が潤うために、はじめこそ国は何も言わなかったものの、統制しようとする頃には手遅れだった。あれから数年経った今世界の人口は加速度的に減ってきている。あれは一種避妊薬のような物であるからだ。過程がどうあれ、首謀者である先生は歴史史上最悪の殺人犯として非難されることになってしまった。その先生は今ベッドで寝ている。今に限らず、むしろ寝ている時間の方が圧倒的に多くなってしまった。先生の夢とこの現実は酷似している、起きているときの先生はそう言っていた。すべて計算のうちだというのも理解の域を超えているが、なによりみんなを幸せにするためには世界を壊したってかまわないとは、僕が人であったとしてもあなたの考えはきっと分からないだろうと思っている。だが、この感情はいったい何だろうか。先生の幸せそうに話す様子を見るたび、僕は先生の気持ちを理解したくなるのである。
あれから239年後、すでに僕の認知できる範囲からは人間は消滅していた。もしかしたら地球の裏側に何人か生き残っているかもしれないが、割と精度を高くしてもらったアンドロイドの僕が探知してもいないのだ、もう人類は滅亡してしまっただろう。僕はゆっくりと座って考えた。人間は先生の望み通りきっと皆幸せに死んでいったはずだ、はずだけど。
先生が亡くなるとき、僕とどんな夢を話したときよりも先生の表情は暖かく幸せそうだった。当時は疑問に思ったけれど、今なら先生の気持ちが分かる気がする。悲しかった 寂しかった 誰かにこの気持ちを理解してもらいたい。でもとてつもなく孤独になってしまった。誰か話を聞いてくれる人がそばにいる。ただそれだけがシンプルな答えだったと、充電切れを目の前にした僕は漸く気づくことができた。そしてあのとき僕も幸せだったと分かったのだ。今際の際に彼は答えをつかむことができたのである。もし、まだ夢にとらわれなかった人がいたのならば、できれば僕の話を理解してほしい。それだけで僕は・・・音声メモリはここで途絶え、直に機能も止まっていった。
幸せ者が亡くなったのはその数日後だった。