26話
セツは、薔薇のある庭から離れて屋敷の玄関にやってきた。デレアスモスの所持している屋敷のため、一つの部屋に入るのは危険だと考え、玄関にいる。何かあった時には、すぐにそこから離れることができるように警戒を怠らない。
キョトンとした表情をしているユア。彼女はどのような状況に置かれているのかわかっていないようである。
「おい、――。起きろ!」
ユアの消された記憶を取り戻すために、デレアスモスが施した魔法を打ち破ろうとしていた。本名を呼んだのは、内側から彼の魔法を破るための早い手段だからである。しかし、思うような展開にはならなかった。
何度もユアの本名を口に出すも、ぼんやりとした瞳が俺を写しているのみ。他の反応は見られなかった。
「どうすればいいんだ。くそっ! 早く俺を見てくれ」
複雑な気持ちが胸中を支配する。俺は行き場のない感情をなんとか抑えこんだ。物に当たることもできたが、ユアを怖がらせらようなことはしたくない。だが、俺の意に反して魔力が少量漏れ出し、壁に大きな穴を開けた。
大きな音がしたのに、ユアはピクリとも動かない。
その様子を見てもセツは諦めることはなかった。
突然俯いていた顔を上げ、彼は彼女を抱き寄せるとキスをする。触れた唇からセツ自身の魔力を流し込んでいく。俺の意思を持つ魔力がデレアスモスの魔法を打ち破ってくれるだろう。
「――、戻ってきて。お前はあいつの姫君ではない。俺の姫君なんだよ。いつまで俺を忘れているつもりだ、――!」
悪魔に本名を奪われたということは、強い拘束力を持つ契約になったのである。契約した悪魔からは逃れることはできないといわれる絶対的なものだ。
何かが聞こえてくる。誰かが真剣に声をかけてくるの。貴方は誰と問いたい。でも、言葉は私の口から一言も紡げない。
酷い眠気がするの。大きな力が私という存在を飲み込もうとしている。私の存在が消えようとしているの。
「我の姫君になり得ないのなら、いっそのこと壊してしまおうか」
その言葉が時々響いていた。私はそれを誰が述べているのかはわからない。私は他人事のように、この声の持ち主はとても悲痛そうに話していると思っていた。だって、私はこの声の持ち主のものになるわけにはいかないのだから。私の唯一はすでに決まっているもの。
大きな力は牙を剥く。黒い蛇のような形をして私を襲ってきた。このままでは食べられてしまう、壊されてしまうと思ったその時。助けてくれたのは、私の心を奪った悪魔。
貴方のことだよ、セツ。やっと来てくれた。暖かいよ、私を守ろうとするセツの力はとても心地よい。
私がそれに身を委ねると、大きな黒い蛇は消滅していった。




