二話「露店で」
太陽が少し駆け足になって日差しも高くなってきた頃。年季を感じさせる石畳を踏みつける人々によって、街は活気を見せている。
普段なら側溝にたまった糞尿が何とも言えない異臭を放っているだが、昨晩降った雨が残らず押し流してくれたようだ。石畳もまだ少し湿っていて、人ごみがいつもより大人しく感じる。
大通りには赤レンガ調の建物がずらりと立ち並んだその足元では朝市が開かれ、いつも以上に明るいだみ声があちこちから聞こえてきた。
「お! お母さん分かってるね! こいつはサービスだとっときな!」
「お前さんもケチだねえさっさとお行き! もうくんじゃないよ!」
「そこのお姉さん! 今夜はスープなんてどうだい? 今日はいい野菜が入ったよ!」
心まで明るくさせてくれるような営業風景に、街行く人の顔は自然と緩む。ただあまり結果は出ていないようで、ゆったりと歩くイリスも陽気な中年男性を無視して人ごみを歩いていた。
朝市に出ている商店はほとんどが露店で、品物がすべて買い物客の目にさらされている。イリスも鋭い視線で値踏みをしていく。
格好が薄汚れた出稼ぎの子供が並べた商品は見るからに質が悪く値段も安い。やけに小奇麗な格好をした露店商人の商品は質は良くても値段が高い。
両者の中間を見極めるべく真剣な目をするイリスだが、結局いつもの露店商のところへたどり着いた。
「あら! イリスちゃんいらっしゃい!」
「おはようございます、ステラさん」
ステラと呼ばれた恰幅のいい中年女性は快活に笑う。イリスもつられて笑顔を浮かべると、すっと視線を落として足元に並んだ商品を眺めた。
大きな一枚の敷き布の上には野菜を中心に、日用品など身近なものが多く並んでいる。値段設定も優しく、すでにいくつかの商品は売り切れてしまっていた。
悩んだ様子のイリスに、ステラおばさんはただじっくりと待つ。結局、イリスは一際新鮮な葉物野菜と日用品をいくつか手に取った。
「これとこれ、あとこれも。包んでくれません?」
「あいよ! 相変わらずイリスちゃんはお目が高いねえ」
冗談交じりの笑顔を浮かべるステラおばさんに、イリスは意味深な笑みを返す。困ったように頬を掻くステラおばさんは、商品を手早く新聞紙に包んだ。
イリスはすぐにそれを受け取ってバスケットの中に収める。このまま帰ろうかとイリスが後ろを向いたとき、「そうだった!」とステラおばさんがイリスを引き留めた。
「ステラおばさん、急に何ですか?」
「イリスちゃんにも話して置こうと思って忘れてたことがあってね、ちょっと待っとくれ」
首を傾げるイリスを置いて、ステラおばさんは脇にいくつも積まれた籠の中をガサゴソと漁る。どうしようかと手持無沙汰にするイリスへ、ステラおばさんは一枚のチラシを手渡した。
そこには綺麗な手書きの文字で『獅子の第七吉日、我ら大地の子星空を祝う』なんて、怪しげな謳い文句がいくつも並んでいる。イリスは思わず表情を曇らせた。
「私、宗教には興味ないです」
「ははっ、無神論者とはなかなかイカすじゃないかい」
「あの人をあそこに縛る神様なんて信じられませんから」
ステラおばさんは「え?」と首を傾げるが、イリスの表情には特に変化がない。ステラおばさんは話を元に戻した。
「まあなんでも、教会が新しい恒例行事を作ったらしいね。『星降祭』だってさ、イカしてないねえ」
わざとらしく腕を組むステラおばさんはしみじみと言う。うんうん、と頷くステラおばさんに、イリスはチラシを押し付けた。
「イカしていてもいなくてもどうでもいいです。早く帰りたいので失礼しますね」
「ちょっと待っておくれよ! そんなつまらないことでイリスちゃんを呼び止めるわけないじゃないか!」
「心外だ!」と語るステラおばさんに、くるりと踵を返したイリスの良心がちくりと痛む。
しぶしぶ後ろを振り向くと、ステラおばさんはにんまりと笑っている。むっとするイリスにステラおばさんは快活に笑った。
「ここ見てごらんよ、ほらココ」
ステラおばさんはチラシの下の方を指差す。そこには『天に近きところに願いを掲げれば――』なんて胡散臭い一文がある。
「ようは、家で一番高いところに願い事を書いた紙をくくりつければその夢が叶うんだってさ。うちもよそも、みんなお祭り騒ぎだよ」
「困ったもんだ」とステラおばさんは楽しそうに笑った。イリスもいつもとは違った商品を置いている露店が多かったことに思い当たる。ステラおばさんは、すかさずいくつかの商品を手に取った。
「教会も今日はお祭り騒ぎだ。カレンちゃんも大喜びで帰ってくるんじゃないかい? これ買っときな」
イリスは少し迷ったが、差し出された完熟ナスなどの黄色い野菜や塩漬けニシンも一緒に包んでもらう。ただそれらしい料理を作ろうとすれば食材はまるで足りない。
頭を抱えるイリスに、ステラおばさんは優しく笑った。
「まいどありがとうね。こいつはサービスだよ、役立てておくれ」
そう言って差し出されたのは、先ほどのチラシと一冊の冊子。安価な鋲で綴じられたそれをペラペラと捲ってみると、それはレシピ本だった。
イリスは驚いて顔を上げる。ステラおばさんは優しく笑っていた。
「ステラおばさん、こんな貴重なもの受け取れません」
「遠慮しなくていいから受け取りな。それで墓守に上手いメシでも食わせてやっておくれ」
非の打ちどころなどない善意百パーセントの笑顔に、イリスはまるで断れない。
「は、はあ……」とイリスが受け取ると、ステラおばさんはいつもの快活な笑顔に戻った。
「食材が足んないならあっちの方見てきな、一通り揃うはずだよ。あたしはこれくらいしか出来ないけど、イリスちゃんなら頑張れるはずさ」
バンバン背中を叩かれてイリスは少しふらつく。それでもイリスはステラおばさんにつられて元気に笑っていた。
「ありがとうございます、ステラおばさん」
「ハハっ! いいからいいから」
イリスは丁寧に一礼して、ステラおばさんの露店を後にする。ステラおばさんに教えてもらった一角を覗いてみると、確かに特別な日にピッタリな食材がさまざまな値段で並んでいた。
「……踏ん張りどころですね」
イリスは胸の前でぐっと握りこぶしを作る。意を決して、人混みの中へ入り込んだ。
人に揉まれ混沌とした中を掻き分ける。露店商と喧嘩と変わらない勢いで値段交渉もして、必要なものを必死に集めた。
すべてが終わった頃には正午を告げる鐘が鳴る。
すっかりやつれたイリスへ、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「お姉ちゃん! ただいま!」
人混みから離れていたイリスへ、カレンが満面の笑顔で飛び付いてくる。小さな手には可愛らしい小袋が握られていて、カレンの笑顔もどこか得意げだった。
「おかえりなさい、カレンちゃん。何、作ったの?」
「クッキー! お姉ちゃんにもあげるね!」
ニコニコ顔のカレンは小袋を開けて、プレーンクッキーを一枚イリスに手渡す。クッキーは見た目も味も良く、イリスは「ありがとう」とカレンの頭を撫でた。
「一緒に帰りましょう、カレンちゃん。墓守さん、さみしがってるわ」
「うん! 帰ったら墓守とお願い事書くの!」
カレンの小袋には短冊が何枚も詰まっていて、イリスは思わず笑ってしまう。
カレンはイリスの笑いをどう取ったのか、にんまりと笑って返した。
「ふふふ、そうね。ごちそう、しなきゃね」
「墓守もきっと嬉しいもんね!」
イリスとカレンはお互いに笑いあって、はぐれないよう手を繋ぐ。
カレンはわくわくが止まらないのか陽気に鼻歌を口ずさんだ。
「あな~たとわ~たし~いっしょにねましょ~」
「……カレンちゃん、その歌どこで覚えたの?」
――今日も街は活気に満ちていた。