3・ユノー姉弟ⅱ
ナツメたちの座る席では。
この姉弟から注がれる視線に気づかないわけがなかった。
「……エルとニーナがこっちを見てる」
ナツメは横目でイバに訴えた。
エルベスタ・ユノーのことを、ナツメは「エル」と愛称で呼んでいた。周囲は彼をユノーと呼ぶが、姉がニーナと呼ばれているのに、彼だけファミリーネームで呼ばれるのは可哀想だと思う。だからみんながユノーと呼んでも、ナツメだけはエルと呼んでいる。
まさかナツメも彼から天使と呼ばれているとは思いもよらないのだが。
イバは悠然と紅茶を啜ってから答えた。
「だからどうしたというのだ。俺はナツメ以外の人間には興味がない」
そうきっぱりと言い切られては、何も言い返せない。
いや、ここで黙り込むわけにはいかないのだ。ナツメは頭の中身をリセットしようと、大好きな紅茶を一口ふくむ。
ちなみに、濃いめに抽出した紅茶に、たっぷりとミルクを注いだミルクティをナツメは好む。蒸留酒に溶かした氷砂糖を一匙加えれば、それはもう至高の一杯となる。
まったりとした甘みが舌の上を通って身体に染み渡ってゆく。イバに立ち向かうための勇気が湧いてくるような気がした。
「 ……そういうわけにはいかない。私はここで仕事を請け負う理由があるのだし、急に仲間が増えたらさすがに説明せざるを得ない」
できるだけ真摯に訴えてみたのだが、彼はこれといった反応を示さなかった。ただ、無感情な視線がナツメを一瞥する。
ナツメはひっそりとため息を吐く。どうしてこんなことになったのだろう。
仕事――この町だけではなく、これは世界共通の事業だった。
エルベスタとニーナの居るカウンターの背後には、隠された通路がある。それは地下に向かってのびていて、同じように別の店からのびた通路と繋がっていた。
事業といっても、ここでいう事業というのは所謂まっとうな経済的活動ではない。まっとうな事業を合法であるすれば、この店の隠し通路先にあるものは非合法であると言える。
もっとも、合法、非合法と語れるような法などあってないようなものだったが、西大陸に存在する中規模な都市トレント――のはずれにある、ここムヴの町には自治という名の秩序がかろうじて残っていた。
事業というのは仕事の斡旋のことを指している。依頼人と請負人を仲介することによって成り立つこの事業は、様々なかたちで世界に存在していた。
世間一般ではこれらの事業を斡旋屋と呼んでいるが、この町にあるのは合法ではなく、あくまで非合法に分類される事業である。
非合法として扱われるのには様々な理由があるのだが、その主な理由として危険度の高さが挙げられる。しかし、その危険に支払われる報酬は合法ギルドの比でない。
莫大な報酬を求めて、地下にある斡旋屋で請け負った仕事を生業とする者も少なくない。ここにいるナツメもそのうちの一人である。
命を落としてしまうことも少なくない、通称「地下ギルド」と呼ばれるこの事業に携わることは、生き残る手段を与えてくれた教会への、ナツメなりの恩返しの手段だった。
「これを飲んだら地下ギルドに行きたいんだけど……」
もう一度ナツメはイバに訴えてみた。ちらりと覗き込んだ視界の先で、彼は憎らしいくらい平然と紅茶を啜っている。
「それで?」
こちらに視線を向けもせずに、イバはそう返してくる。
それで、はいくらなんでも酷いだろう。ナツメは頭を抱えたくなったが寸前でこらえた。
なんと説明すれば、あるいはなんと説得すればイバが受け入れてくれるのかまるでわからない。
「……だから、仕事をしたい。でも新参者が地下ギルドに行くには審査が必要で、今のままだとイバは新参者ということになってしまうんだけど」
「ならば行かなければいい」
「いや、だから……。私は仕事をしなければ生活もままならなくて」
「そう思うのなら行けばいいだろう」
「審査を受けてくれるの?」
「人間の世界には興味がない」
あまりにもな言い分にナツメが顔を上げると、無感情なイバの双眸がナツメに向けられていた。
さすがにナツメは絶句する。
イバは自身を人ではないと言った。しかしせめて人の姿でここにいるのなら、最低限の人間の常識を持ち合わせていて欲しい。
エルベスタとニーナの店は酒場として営業しながら、もう一方ではギルドの窓口という一面も持ち合わせている。合法と非合法、そのどちらの窓口にもなっているのだが、合法ギルドの方は、いわば地下ギルドの存在を隠蔽するための隠れ蓑となっていた。
地下ギルドは表向きには存在しないことになっている。ゆえに地下ギルドの仕事を請け負いたい者は、地下ギルドの窓口――つまりユノー姉弟や他の窓口にいる人間の審査が必要になってくる。
自警団という組織が秩序を守っているという町の性質上、町の規則から外れた事業を公に運営できるはずもない。秩序といっても、あくまで自己機関が定めた規則に則った秩序でしかないのだが、自らを守る手段のない、立場の弱い人々にとっては諸手を挙げて歓迎する存在である。
よって地下ギルドの存在を公にしてしまうことは、自身らの生活を脅かすことに繋がってしまう。
いや、ナツメだけが被害を被るのは一向に構わないのだ。ただ、自分の浅はかな行動によってユノー姉弟や町の人間に迷惑がかかることがたまらなく嫌だ。
ナツメはできるだけ感情を表に出さないようにイバを見つめた。
自分も非常識な部類の生き物だと思っていたが、彼はその更に上をいく。どこで折り合いをつければ穏やかな解決方法に繋がるのか、考えるだけでナツメは頭が痛くなった。
『ナツメを記録するためにここにいる』
あの時、確かにイバはナツメにそう告げた。
――ナツメという生命を記録するのが俺の役目だ。だから俺はナツメと共にいる。
そこに付け加えるようにして、イバはナツメに言った。
正直、意味がわからない。事実、その言葉どおりにイバはナツメのあとをついてきた。何度振り切ろうとしただろう。そのたびに追いつかれ、先回りされ、時には地面に縫い付けられた。行動でイバを引き離すことは不可能なのだと、たった数時間で理解させられてしまった。
だからこうして椅子を並べて同じ席にかけている。付きまとうことをやめてくれるつもりはないらしい。彼の行動の真意が見えないかぎり、どうしたって対処できないのだ。
今でも半信半疑だが、イバの言葉をまるっと鵜呑みにするのなら、彼はナツメという存在を記録するためだけにここにいるらしい。
見たかったというのなら、どこか遠くから眺めていてくれたら良かったのだ。ナツメが生まれた時から見ていたというのだから、これからもそうしていて欲しかった。そうすればこんなにも頭を悩めずに済んだだろう。
どうして付きまとうのかと、いく度となく聞いてもイバは答えてくれなかった。そのうち、ナツメは追及するのを諦めた。
ナツメはティーカップに注がれた最後の一口を飲み込んで、意を決したように最大の妥協点を口にする。
「なら、せめて仕事の間は私から離れて――」
――ほしい。
言葉を言い終える前に、ナツメの身体は床に沈んでいた。
目の前にイバの顔があったから、自分はいま床に転がっているのだろう。仰向けに正面を見据えたまま、ナツメは自分の状態を自覚した。
騒がしい店内が静まり返るのがわかる。
事態を把握し始めたギャラリーが、信じられないと息を呑むのがわかった。
通常は酒場として機能しているこの店だが、曲がりなりにもギルドの入り口なのだ。ここに集うものたちは自らの腕に自信のあるものばかり。
ギルドを生業とするものたちの中でも最強と謳われるナツメだ。まさかその人物を組み敷くことができる人間など、いるわけがないと思っているのだろう。
静まり返った店内に、次第にざわめきが戻ってくる。
まさか、と誰かが呟くのが聞こえた。
――まさか、あいつも人間じゃないんじゃないか。
誰かの呟きがナツメの耳に届いて、正解だよ、と教えてやりたくなった。
椅子は倒れてしまったが、ティーカップは無事らしい。視界の端に映るティーカップを見て安堵のため息をこぼしたかったが、身体を押さえつけるイバのせいでそれは叶わない。
「その選択肢はない」
ナツメの頭上から、底冷えするような声が降ってきた。
ナツメは頷く。頷く以外の選択肢があったなら教えてほしいくらいだ。
いつもならば逆の立場でそれを求めるところにいるのに。なんだか不思議な感覚だった。
絶対的支配者とは彼のようなもののことを指すのだろう。支配される側は早々に諦め、服従するしかない。それは意思とは無関係に、本能として備わっている信号なのだろう。
屈服したくないと思っているのに、身体が服従の態度を示す。あるいは、判断力そのものが麻痺してしまうのか。どちらにせよ人の意思は機能しない。
周囲のざわめきが一段と大きくなったころ、密集したギャラリーを掻き分けるようにして一人の人間が飛び出してきた。
「はやくナツメから退きなさいよ! このばか男!」
ニーナはイバを蹴り飛ばして、ナツメに抱きついた。
ナツメを含めた全員が呆気にとられる。
ニーナの発言云々よりも、イバが蹴り飛ばされたことに驚いた。
「ニーナ」
「ああ大丈夫? どこか怪我してない? 私の可愛い妹を地面に転がすなんて……だから男って嫌いなのよ! 臭いし汚いし馬鹿みたいだし品性のかけらもないし価値が見出せないし」
「姉貴、さすがにそこまで言わなくても……」
いつの間にかニーナの背後に佇んでいたエルベスタが口を挟む。
「暴力的だし意味ないしナツメをこんな目に遭わすし意味ないしどことなく不潔だし」
どれだけ不潔で意味がないと思っているのだろうか。
ナツメは自由になった上半身を起こして、ぶつぶつと呟くニーナ――はとりあえず置いといて――その後ろに控えるエルベスタに声をかけた。
「エル、騒いじゃってごめん」
エル、と呼ばれたエルベスタは嬉しそうに首を横に振った。
「いや、別に店の備品に被害はないから問題ないよ。むしろ騒がしいのはうちの姉貴だから、こっちこそごめんていうか。いや、それよりも――その人は誰なの?」
エルベスタの視線を辿ると、いつの間にか体勢を直していたイバがナツメの背後に立っていた。
ニーナはイバを威嚇している。
恐ろしい――ナツメは人知れず背中に汗を流した。イバがあの調子で力を振るったら、ここには抑えられる人間がいない。どうしたら……と更に悩んでいると、イバの口から意外な言葉が放たれた。
「えっと、僕はナツメの家族です」
――え?
おそらく、ここにいる全員が同じことを思った。
ナツメの頭の中が真っ白になる。というか、僕って。
イバはナツメの肩に手を置いて、耳元に顔を近づける。そしてナツメにだけ聞こえるように小さく囁いた。
(話を合わせろ)
ああ、そうか。と、そこでナツメは彼の言わんとすることに気がついた。それならばイバが素直に蹴り飛ばされたのにも得心がいく。
ナツメは動揺が言葉に伝わらないように、慎重に発言した。
「あ……、うん。この人、私の家族らしい……じゃなくて家族です」
「すみません、お騒がせしてしまって。ナツメの肩に虫がついていたので、払おうと気を利かせたつもりが……勢い余って転倒させてしまいました。誤解を招くような結果になってしまい、申し訳ありません」
ナツメの台詞を継ぐように、まるで別人のようになってしまったイバが言葉を続けた。
申し訳なさを目一杯表現したような笑顔を浮かべている。
誰だこれは、とナツメは内心で呟く。
ナツメに縋るニーナはイバを見つめていた。その後ろにいるエルベスタもイバを見つめている。ナツメと本人を除いた全員がイバを見つめていた。
ナツメは一人、泣きたくなった。
これは嘘だ。それも冗談みたいな嘘なのだが――いまの状況から免れるには仕方のない嘘なのだろう。
いや、この状況だけでなく、これからも必要になってくる嘘なのかもしれない。この先イバがナツメに付きまとうことになるのなら、これ以上の説得力を有する説明は存在しない。
ニーナは目を見開いたまま、イバを目で追っている。
ニーナよりも先に冷静になったエルベスタが、周囲に向かって手を叩いた。
「……はいはーい! そういうわけだから散ってくれ。ここは見世物屋じゃねーぞ」
エルベスタの発言を合図に、野次馬として大挙していた客たちが自分の席へと戻っていく。
彼らは血の気の多い連中だったから、喧嘩に発展しない内容だと知って落胆したのだろう。しかし、その顔には好奇心が浮かんでいた。
それからエルベスタはナツメに振り返って、親指で奥の部屋を指し示す。奥には従業員専用の小部屋があって、ナツメも何度か招かれたことがあった。続きはそこで話そうということなのだろう。
「……かぞく? ナツメの家族って……」
そこで、呆然とイバを見つめていたニーナが口を開いた。
あまりにもな展開に、ようやく理解が追いついたのだろう。
イバは人の良さそうな笑みを浮かべて答える。
「兄です」
――あのナツメに兄がいた。
この瞬間から、驚異のスピードで町中に噂が広まることになる。