2・ユノー姉弟
エルベスタ・ユノーは面白くなかった。
彼にはエルベスタという立派な名前があるのに、大抵の人間は彼のことをユノーと呼んでいた。理由は簡単。単純に呼びづらいからである。
口に咥えた煙草を弄んで、ため息と一緒に煙を吐き出す。そうすることによって何かを発散できるのではないかと思っていたが、現実は甘くはなかった。
面白くない。何度でも言うが、面白くない。
灰皿に押し付けられた煙草は三本くらいあったが、そこに咥えていたもう一本を追加させた。
面白くないのには理由がある。理由もなしにぼやいているわけではない。いや、実際は口に出してもいないのだが。
別に名前で呼ばれないのが面白くないのではない。さすがに二十五歳にもなれば慣れてくるし、唯一ファーストネームを愛称で呼んでくれる天使がいるから耐えられるのだ。
だからなにが面白くないのかというと――
「さっきからはぁはぁはぁはぁうるさいわね! 少しは静かに仕事ができないの!」
ごん、という鈍い音がして頭蓋骨が揺れた。
ここはとある店の中。店内は騒がしいので誰も今の声に気付かなかったが、当事者同士はよくわかる。
エルベスタは頭を押さえながら机に突っ伏して、涙をこらえた。
「ぐ……、ぐぬぬ。誰がはぁはぁはぁはぁ言ってるか! 俺は変態か!」
エルベスタは叫んだが、もう一度机に沈むはめになった。
さすがに二度目は痛いので、すこし泣く。
「変態よ変態。それにやかましいのよね、あんた。なんで私の弟ともあろう者がやかましいのかしら? 不思議だわ」
エルベスタの後ろに立つのは、彼の姉、エレニーナ・ユノー。彼女もユノーという名を持つのだが、エルベスタとは違ってニーナと呼ばれている。
二人は町の酒場の店主だ。早くに両親に先立たれ、孤児院がわりの教会に長く世話になっていた。そこを自立してからは、姉弟二人で酒場を切り盛りしている。
一概に酒場とは言っても、昼間は一般客むけの食事処として機能している。それでも昼間から柄の悪い客が絶えないのは、日の出ているうちから酒を出すのが原因だろう。そうでもしないと旧通りにあるこの店は潰れてしまう。仕方がないのだ。まあ厳密に言えばそれ以外にも理由があるのだが。
とにかく、エルベスタは頭を抱える。
「なあ、姉貴はどう思う?」
先ほどの喧嘩など忘れてしまったみたいに、エルベスタはニーナに問いかけた。元々あの程度であれば喧嘩ですらないのが姉弟の感覚だ。
ニーナはエルベスタの横に座って、同じように前を見据えた。
「……どうって、そういうことでしょ」
エルベスタよりは冷静そうだが、ニーナの表情も面白くはなさそうだ。
「俺の天使、なんで……」
両手で顔面を覆った弟の後頭部を、ニーナは拳で殴った。
「誰があんたの天使なのよ、誰が。寝言は寝て言え、そして覚めるな。……ってまじ泣きかい」
顔を覆う弟の手から涙が溢れているのを見て、姉は少し引いた。
二人の正面、いくらか離れた場所で顔なじみの客が紅茶を啜っていた。
ナツメと――この姉弟は名前を知らないが――イバである。人目を惹く黒髪の美貌が二つ、同じテーブルに並んでいた。
ナツメとユノー姉弟は同じ教会で育った兄弟であり家族である。ナツメはいつもの日課を済ますと決まってこの店で紅茶を口にしていた。つまり、ほぼ毎日顔をあわせている。しかしナツメが同伴者を連れてきたことは――今の今まで一度もなかった。ましてや男だなんて。
ナツメを勝手に天使と呼んでいるエルベスタは、既に精神を病んでいた。
「……なあ、姉貴、あれ……誰?」
虫かなぁ、なんて呟いているところを見ると、涙で前も見えていないらしい。その辺はいつものことだったからニーナは無視した。
「私にわかるわけないでしょ。こっちが聞きたいくらいよ」
そう言いながらも聞きに行かないのは、店主としての分をわきまえているからだろう。向こうから言い出さないかぎり、たとえ家族であっても人のプライベートに関わるのはマナーに反する。それは今までの経験から熟知していた。
いや、それよりも単純に聞きたくないだけかもしれない。弟の状態を馬鹿にしてはいるが、内心ではニーナも同じ思いを抱いている。弟と嗜好が似ているのだ。
面白くない――
ただ、ニーナの方が冷静さを保っているだけ。それだけの違い。
視界の先で座る二人を見た。片方はよく知っている。
ナツメ――可愛い少女だ。恐ろしく腕が立つ、色々な意味で最強の女の子。彼女を少年と間違える不届きな輩もいるが、それは外套を脱いだ姿を見てから言ってもらいたい。まあ、見せないけど――と、ニーナは思う。
彼女の素性も知っている。本当は綺麗な青い髪をしているのだ。ニーナ自身は綺麗だと思っているが、本人にとっては隠したいものらしい。髪を染めるのを手伝っている。
もう一人――そちらが厄介だった。
黒髪の美丈夫……としか表現しようがない。百歩譲って生き別れの兄に見えないこともなかったが、そういったことはナツメから聞いたこともないし、彼女の性格から考えてもすぐに話してくれそうな気がする。
背丈もある。身長だけが取り柄のエルベスタが一八五なのだが、あの美丈夫はエルベスタと同じくらいか、それよりも更に高そうに見えた。
それに、やけに落ち着いて着席しているのも気になる。
ここは落ち着いて紅茶を啜れるような穏やかな場所ではない。その時の気分一つですぐにでも暴れ出してしまうような、血の気の多い連中ばかりが集っているのだ。常人ならばここの空気を吸うだけで怖じけづく。
ナツメが近くにいるというのも理由の一つではあるのだろう。彼女が店内にいる間は血の気の多い連中も少しだけ静かになる。昔、ナツメにちょっかいを出した連中が痛い目にあったことがあるのだ。もちろん自業自得なのだが。
男は不自然なほどに落ち着いていた。
彼を見かけるのは今日が初めてだ。客の顔を忘れないのがニーナの特技だったから、初顔だと断言できる自信がある。それに彼のような美丈夫ならば嫌でも記憶に残ってしまうだろう。しかし、ニーナの記憶にはない。
「……面白くないわね」
無意識に、弟と同じ台詞を呟いていた。
こんな喧しい場所に足を踏み入れたら、少しは周囲を窺いそうなものである、しかし男はそんな仕草すら見せなかった。
「な! なー? そう思うだろ姉貴……痛ってええええ」
呟きが聞こえたらしいエルベスタがニーナを指差してきたので、彼女は即座にその指をひねり上げた。
エルベスタの指があらぬ方向に曲がった気がしたが、弟は丈夫なので悲鳴は無視する。
いつのまに復活していたのだろう。このしぶとさには呆れるしかない。
エルベスタの煙草を失敬して、ニーナは口に咥える。
料理の配膳はスタッフがしてくれるので、ニーナとエルベスタはこの場所から店に訪れた異変を眺めているだけでよかった。